7 / 8
七話
しおりを挟む
東雲馨の前に、一本の「蜘蛛の糸」が垂らされたのは、秋の気配が庭の銀杏を染め始めた頃であった。
邸の玄関に、煤けた羽織袴を纏った老人が現れた。馨の叔父、大河原である。彼は懐から、手垢に汚れた分厚い封筒を取り出し、獅子王零慈の前に叩きつけた。
「獅子王殿。これに、馨が貴殿に負うている負債の全額が入っております。東雲の名誉、これ以上貴殿のような俗物に汚させるわけには参らん」
零慈は、机上の封筒を一瞥した。
彼の心臓は、薄氷を踏み抜いたかのような衝撃に凍りついている。
金で結ばれた絆は、金によって断たれる。これこそが、彼が信奉してきた市場経済の鉄則であり、今まさに彼自身を切り裂く刃となったのだ。
「……馨。叔父上が迎えに来られたぞ。貴様を縛る糸は、今、解かれたのだ」
零慈の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた響きを帯びていた。
彼はあえて馨の顔を見なかった。見れば、そこに浮かぶであろう「歓喜」に、己の理性が耐えられぬことを知っていたからである。
しかし、馨は立ち上がろうとしなかった。
彼は叔父の持参した、東雲家特有の「家系図」と「古い規律の書」を眺め、深く、重い溜息をついたのである。
「叔父上。東雲の家に戻れば、またあの、隙間風の吹く離れで、薄い粥を啜る日々が始まるのでしょうか」
「何を言うか! 貧しくとも高潔に、それが東雲の矜持ではないか」
「高潔……。ですが叔父上、高潔さは私の空腹を満たしてはくれませんでした。ここには、獅子王殿が用意してくださる、あのふかふかの枕と、毎日欠かさず供される蜜豆がございます」
馨の言葉に、大河原は噴火せんばかりに顔を真っ赤にした。
零慈は、絶望の淵で呆然と馨を見つめる。
支配という名の檻は、いつの間にか馨にとって、寒風を凌ぐ温かな「繭」へと変貌していた。
「馨! 貴様、この男に毒されたか! 自由が欲しくないのか!」
「自由、でございますか。……獅子王殿の隣にいることが、今の私にとっては何よりの自由のように思えます。何しろ、ここでは明日の献立を悩む必要さえございませんから」
馨は静かに立ち上がると、零慈の背後へと回り、その逞しい肩に細い指先を置いた。
零慈の背中が、電流が走ったように跳ねる。
馨の指先から伝わるのは、拒絶ではなく、確かな依存の熱であった。
「獅子王殿。私はまだ、貴殿の家にある『羊羹のストック』を全て把握しておりません。それを残して去るほど、私は薄情な男ではありませんよ」
「……貴様は、どこまで愚かなのだ」
零慈は吐き捨てたが、その声には隠しきれない安堵の色が滲んでいた。
彼は叔父の差し出した封筒を、無造作に床へと払い落とした。
叔父は憤慨し、呪詛の言葉を吐きながら立ち去った。
静寂が戻った書斎で、二人は向き合う。
零慈は、馨の腰を引き寄せ、その耳元で低く囁いた。
「後悔するぞ、東雲。一度掴んだ蜘蛛の糸を放さなかったのは、貴様自身だ。地獄まで付き合ってもらう」
「地獄? 滅相もございません。ここには三食昼寝が付いているではありませんか」
馨は満足げに目を細め、零慈の胸元に顔を埋めた。
窓外では、黄金色の銀杏の葉が、二人の契約を祝うかのように舞い踊っていた。
支配者と被支配者の境界は、もはやどちらが主人か分からぬほど、甘く、混沌と溶け合っていた。
邸の玄関に、煤けた羽織袴を纏った老人が現れた。馨の叔父、大河原である。彼は懐から、手垢に汚れた分厚い封筒を取り出し、獅子王零慈の前に叩きつけた。
「獅子王殿。これに、馨が貴殿に負うている負債の全額が入っております。東雲の名誉、これ以上貴殿のような俗物に汚させるわけには参らん」
零慈は、机上の封筒を一瞥した。
彼の心臓は、薄氷を踏み抜いたかのような衝撃に凍りついている。
金で結ばれた絆は、金によって断たれる。これこそが、彼が信奉してきた市場経済の鉄則であり、今まさに彼自身を切り裂く刃となったのだ。
「……馨。叔父上が迎えに来られたぞ。貴様を縛る糸は、今、解かれたのだ」
零慈の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた響きを帯びていた。
彼はあえて馨の顔を見なかった。見れば、そこに浮かぶであろう「歓喜」に、己の理性が耐えられぬことを知っていたからである。
しかし、馨は立ち上がろうとしなかった。
彼は叔父の持参した、東雲家特有の「家系図」と「古い規律の書」を眺め、深く、重い溜息をついたのである。
「叔父上。東雲の家に戻れば、またあの、隙間風の吹く離れで、薄い粥を啜る日々が始まるのでしょうか」
「何を言うか! 貧しくとも高潔に、それが東雲の矜持ではないか」
「高潔……。ですが叔父上、高潔さは私の空腹を満たしてはくれませんでした。ここには、獅子王殿が用意してくださる、あのふかふかの枕と、毎日欠かさず供される蜜豆がございます」
馨の言葉に、大河原は噴火せんばかりに顔を真っ赤にした。
零慈は、絶望の淵で呆然と馨を見つめる。
支配という名の檻は、いつの間にか馨にとって、寒風を凌ぐ温かな「繭」へと変貌していた。
「馨! 貴様、この男に毒されたか! 自由が欲しくないのか!」
「自由、でございますか。……獅子王殿の隣にいることが、今の私にとっては何よりの自由のように思えます。何しろ、ここでは明日の献立を悩む必要さえございませんから」
馨は静かに立ち上がると、零慈の背後へと回り、その逞しい肩に細い指先を置いた。
零慈の背中が、電流が走ったように跳ねる。
馨の指先から伝わるのは、拒絶ではなく、確かな依存の熱であった。
「獅子王殿。私はまだ、貴殿の家にある『羊羹のストック』を全て把握しておりません。それを残して去るほど、私は薄情な男ではありませんよ」
「……貴様は、どこまで愚かなのだ」
零慈は吐き捨てたが、その声には隠しきれない安堵の色が滲んでいた。
彼は叔父の差し出した封筒を、無造作に床へと払い落とした。
叔父は憤慨し、呪詛の言葉を吐きながら立ち去った。
静寂が戻った書斎で、二人は向き合う。
零慈は、馨の腰を引き寄せ、その耳元で低く囁いた。
「後悔するぞ、東雲。一度掴んだ蜘蛛の糸を放さなかったのは、貴様自身だ。地獄まで付き合ってもらう」
「地獄? 滅相もございません。ここには三食昼寝が付いているではありませんか」
馨は満足げに目を細め、零慈の胸元に顔を埋めた。
窓外では、黄金色の銀杏の葉が、二人の契約を祝うかのように舞い踊っていた。
支配者と被支配者の境界は、もはやどちらが主人か分からぬほど、甘く、混沌と溶け合っていた。
0
あなたにおすすめの小説
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
happy dead end
瑞原唯子
BL
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」
シルヴィオは幼いころに第一王子の遊び相手として抜擢され、初めて会ったときから彼の美しさに心を奪われた。そして彼もシルヴィオだけに心を開いていた。しかし中等部に上がると、彼はとある女子生徒に興味を示すようになり——。
僕は今日、謳う
ゆい
BL
紅葉と海を観に行きたいと、僕は彼に我儘を言った。
彼はこのクリスマスに彼女と結婚する。
彼との最後の思い出が欲しかったから。
彼は少し困り顔をしながらも、付き合ってくれた。
本当にありがとう。親友として、男として、一人の人間として、本当に愛しているよ。
終始セリフばかりです。
話中の曲は、globe 『Wanderin' Destiny』です。
名前が出てこない短編part4です。
誤字脱字がないか確認はしておりますが、ありましたら報告をいただけたら嬉しいです。
途中手直しついでに加筆もするかもです。
感想もお待ちしています。
片付けしていたら、昔懐かしの3.5㌅FDが出てきまして。内容を確認したら、若かりし頃の黒歴史が!
あらすじ自体は悪くはないと思ったので、大幅に修正して投稿しました。
私の黒歴史供養のために、お付き合いくださいませ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる