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八話
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夜の帳(とばり)が降り、獅子王邸は静寂という名の外套を羽織った。
東雲馨は、主寝室に備えられた巨大な寝台の上に、大の字になって横たわっている。
その上を覆うのは、最高級の羽毛。馨の鼻腔をくすぐるのは、洗い立ての木綿(もめん)が放つ、日向の匂いに似た清らかな香気である。
「獅子王殿、まだお仕事ですか。あまり根を詰めると、その立派な脳味噌が林檎(りんご)のように腐ってしまいますよ」
扉の隙間から、馨の軽やかな声が漏れる。
廊下を歩いていた零慈は、足を止め、重い溜息とともに部屋へ踏み込んだ。
「……誰のせいで仕事が溜まっていると思っている。貴様の食べる菓子を調達するために、私は地球の裏側の相場まで睨んでいるのだ」
「それは重畳(ちょうじょう)。では、今日のご褒美は、その逞しい腕を枕代わりに貸していただくということで手を打ちましょう」
馨は寝返りを打ち、期待に満ちた目で零慈を見上げた。
零慈は不機嫌極まりない顔をしながらも、上着を脱ぎ、馨の隣へと腰を下ろした。
支配とは、対象を隷属させることであるはずだ。しかし、今の零慈は、馨という名の「底なし沼」に、自ら喜んで足を踏み入れているような心地であった。
「貴様は怖くないのか。東雲の家を捨て、名誉を捨て、このような悪鬼の住処に身を寄せることを」
「怖い? まさか。東雲の家では、名誉という名の空腹に耐えるのが精一杯でした。ここでは、獅子王殿の熱い胸板という名の『暖炉』がございます。これ以上の贅沢を、私は知りません」
馨は、零慈の腕を強引に引き寄せ、自分の首の下に敷き込んだ。
伝わってくる力強い脈動。零慈の指先が、馨の柔らかな耳たぶに触れ、そのまま吸い寄せられるように、細い項(うなじ)を撫で下ろす。
「……私は貴様を逃さない。一生、この金の檻で、私の与える餌だけを食べて生きていくがいい」
「ええ、喜んで。ただし、明日の朝食は、少し贅沢に厚焼き卵など焼いていただけますか。獅子王殿の焼く卵は、塩加減が絶妙なのです」
零慈の喉が、屈辱と悦楽の混じり合った妙な音を立てた。
彼は馨の額に、誓いとも呪いともつかぬ熱い口づけを落とした。
窓外では、銀色の月が、滑稽な二人を冷ややかに見下ろしている。
一人は、愛という名の支配を求めた。
一人は、食と安眠という名の楽園を見出した。
この二人の間に、果たして純粋な「愛」などという高尚なものが存在するかどうか。
それは、夜風に揺れるカーテンのみぞ知る、不可解な一幕であった。
東雲馨は、主寝室に備えられた巨大な寝台の上に、大の字になって横たわっている。
その上を覆うのは、最高級の羽毛。馨の鼻腔をくすぐるのは、洗い立ての木綿(もめん)が放つ、日向の匂いに似た清らかな香気である。
「獅子王殿、まだお仕事ですか。あまり根を詰めると、その立派な脳味噌が林檎(りんご)のように腐ってしまいますよ」
扉の隙間から、馨の軽やかな声が漏れる。
廊下を歩いていた零慈は、足を止め、重い溜息とともに部屋へ踏み込んだ。
「……誰のせいで仕事が溜まっていると思っている。貴様の食べる菓子を調達するために、私は地球の裏側の相場まで睨んでいるのだ」
「それは重畳(ちょうじょう)。では、今日のご褒美は、その逞しい腕を枕代わりに貸していただくということで手を打ちましょう」
馨は寝返りを打ち、期待に満ちた目で零慈を見上げた。
零慈は不機嫌極まりない顔をしながらも、上着を脱ぎ、馨の隣へと腰を下ろした。
支配とは、対象を隷属させることであるはずだ。しかし、今の零慈は、馨という名の「底なし沼」に、自ら喜んで足を踏み入れているような心地であった。
「貴様は怖くないのか。東雲の家を捨て、名誉を捨て、このような悪鬼の住処に身を寄せることを」
「怖い? まさか。東雲の家では、名誉という名の空腹に耐えるのが精一杯でした。ここでは、獅子王殿の熱い胸板という名の『暖炉』がございます。これ以上の贅沢を、私は知りません」
馨は、零慈の腕を強引に引き寄せ、自分の首の下に敷き込んだ。
伝わってくる力強い脈動。零慈の指先が、馨の柔らかな耳たぶに触れ、そのまま吸い寄せられるように、細い項(うなじ)を撫で下ろす。
「……私は貴様を逃さない。一生、この金の檻で、私の与える餌だけを食べて生きていくがいい」
「ええ、喜んで。ただし、明日の朝食は、少し贅沢に厚焼き卵など焼いていただけますか。獅子王殿の焼く卵は、塩加減が絶妙なのです」
零慈の喉が、屈辱と悦楽の混じり合った妙な音を立てた。
彼は馨の額に、誓いとも呪いともつかぬ熱い口づけを落とした。
窓外では、銀色の月が、滑稽な二人を冷ややかに見下ろしている。
一人は、愛という名の支配を求めた。
一人は、食と安眠という名の楽園を見出した。
この二人の間に、果たして純粋な「愛」などという高尚なものが存在するかどうか。
それは、夜風に揺れるカーテンのみぞ知る、不可解な一幕であった。
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