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はずれっぽいけど、召喚された者は「おれにまかせろ」と言ったから。
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「サーラ。きみとの婚約を破棄する」
ユルヤナさまからそう告げられたとき、あたしの頬をひと筋、涙が伝っておちた。
それにどんな感情が込められているか、わかるのはあたしだけだった。
ことの起こりは二年前にさかのぼる。
明日から高等部に進級という晩、あたしの夢枕に神さまとやらが立ったのだ。
「やあ、ぼくは神さまだよ! 人生の節目を迎えたきみに、未来を予見してあげるよ!」
威厳の欠片もない軽々しさで神さまは宣った。
「きみの人生はなんと三択だ! ひとつは婚約を破棄されて、お家の悪事も露見しハルヴァリ伯爵家は取り潰しのうえ一族ともども処刑。もうひとつは婚約を破棄されて、身ひとつで国外追放。最後のひとつは婚約を破棄されて、ライバルのおうちでメイドとして再就職だよ!」
「待ってちょっと待って! なんなのその嫌すぎる三択は!?」
しかも全部の冠が『婚約破棄』って、どういうこと?
「人生はフレキシブルだけど未来はひとつの結果に収束するよ! きみの人生は三択のうちどれか、どうあがいても運命は変わらないよ! 神さまが言うんだから間違いないよ!」
「嬉しそうに言うなこの疫病神がっ!」
あたしは精いっぱい罵倒を投げつけた。ほんとはぶん殴りたかったけど、夢の中だからうまくいかない。
「結果はひとつだけどそこに至る道は無限だから、目いっぱい楽しんでね! それじゃあ!」
……などという、人生最悪の夢を見たあたしは、失意のどん底のまま新しい学園生活を迎えたのだった。
あたし、アレクサンドラ・ハルヴァリには婚約者がいる。ひとつ年上のユルヤナ・カルヒネンさま。
カルヒネン公爵家はこの国でも五本の指に入る名家だ。そこの長男ユルヤナさまとは熱烈というほどではないけれど、良好なお付き合いを続けていた。卒業後は結婚してあたしは公爵家に嫁ぐことになる。周囲がうらやむ玉の輿だったし、あたしもお相手も、もちろん両家も何の不満もなかった。
なのにあたしには、その愛する婚約者に捨てられる運命しかないと言う。つまりあたしは悪役令嬢ってわけ? しかもオプションはお家取り潰しか国外追放か、さもなくば婚約者を寝取った相手のお家で下働きとか……それがいちばん嫌だわ。いくらのん気なあたしでも、それは死んでもいや。
「やあサーラ、きみもやっと高等部だね。これでいつも一緒にいられる……って、なんだか浮かない顔をしているね」
「い、いえ、なんでもありませんわ」
あたしは精いっぱいの笑顔をつくった。ユルヤナさまはとってもいい人。いい人過ぎてちょっと物足りないかもだけど、それは贅沢というものだ。
婚約してからの数年、あたしたちは穏やかに愛を育んできた。それを奪われてしまうなんて信じられないけど……。
それは確かにやってきた。
ラウラ=ミラ・ヒエタミエス。高等部から編入してきた娘。
子爵家の子女、ということになっている。正統な血筋ではなく妾腹で、最近養女として子爵家に迎えられたんだとか。あくまで噂だったけど、編入前から話題になっていた。
そのミラと、あたしは速攻で友だちになった。なぜってこの娘があたしからユルヤナさまを奪い、あたしの未来を全部奪っていく張本人だと神さまに聞いていたから。
この学園で中途編入なんてめったにない。ゆえに好奇の視線にさらされるのはある意味当然だった。そしてあることないこと噂され、ぽっと出のよそ者に王道ないじめのフルコース。その逆境にめげないヒロインに婚約者はほだされ、すっかり心奪われて、ついに結ばれて、ヒロインいじめの首謀者のあたしは婚約破棄へとまっしぐらって、それはいやああああああああ!!!
それは避けたい。なんとしても避けたい。
だからあたしはまず、ミラの友だちという位置を確保した。いきなり貴族社会に放り込まれて戸惑うミラに優しく接し、家柄など気にもしないで助けてあげるいい友だち。その地位を確立した。新人に冷たく当たる伯爵令嬢とその取り巻き、なんて図は願い下げだった。あたしは誰のいじめにも加担しない、穏やかでたおやかな令嬢でいたいのよ。
だがミラとつき合ううち、あたしはますます危機感を深めていった。
この娘、かわいい。
確かにあか抜けないところはある。けど素材は悪くない。なんといってもひたむきで、健気だった。なにごとにも一所懸命で、明るくて、健気で、胸が大きくて……と、指折り数えながら、なだらかな自分の胸を眺める。
こほん、胸のことはおいとくとしても、それでもこれはポイント高いわ。こんな健気な姿を見せられたあとに純朴な笑顔を向けられたら、女のあたしでもきゅんきゅんする。まして男がなびかないわけがない。
果たしてユルヤナさまである。最近ぼうっとしていることが多い。そのうち、あたしと帰る時間が少なくなってきた。
まずい。
非常にまずい。
どこで出会ったか知らないが、ユルヤナさまの心は間違いなく移りつつある。健気で純朴な少女、ラウラ=ミラ・ヒエタミエスに。
あたしは泣いた。暗い部屋でひとり、枕に顔を押し付けて声を殺して泣いた。
なぜ? どうして?
あたしは悪くない。なにも悪いことをしていないのに。どうして幸せが逃げていくの? それどころか婚約破棄に至るなんて。あたし、そんなに悪い娘なんだろうか?
どうしていいかわからず、あたしは泣き続けた。
◇
秋が終わる頃、あたしは泣くのをやめた。
運命はくつがえせない。神さまの決めたことには逆らえない。
それをひっくり返すには、神さまより強い力を手に入れるしかない。
神さまではない何か。悪魔か、魔王か、妖怪か。とにかく神ならざる何か。
あたしは必死で調べた。
そして真冬の真夜中、新年を迎えようかという屋敷の敷地の片すみで、あたしは魔法陣を描いていた。
召喚魔法。
別の世界から人ならざるものを招き寄せる魔法。
通常、精霊魔術に属するこれは、召喚したものと使役契約を結び、これを使役する。召喚されるものは精霊、神獣、魔物、まあだいたい人でも神でもないものだ。いったん使役契約を結ぶと、召喚された者は召喚者の命が尽きるまでこれに尽き従う。あたしが行き着いた『神ではないもの』は、これだった。
何が召喚されるのか、まだあたしにはわからない。でもこれでも魔法にはちょっと自信があった。あたしの魔力はかなり大きいらしい。魔法陣が上手く機能してくれれば、かなり上位のものが召喚できるはず。
地面に刻みつけた魔法陣の前で、あたしは杖を掲げながら呪文を詠唱する。
魔法陣が輝き出し、内側から眩い光を放ち始めた。なにかすごい力を感じる。
これなら。きっとこれなら。
あたしは詠唱に合わせて、自分の裡にある魔力の全てを解放した。
魔法陣が無音の爆発とともに、ひときわ輝く。
その光が収まったあと。円形の陣の中には。
「あれ? どこだここ? おれはどうなってる?」
「…………………………」
魔法陣の真ん中には、まごうかたなき……人間の男が座り込んでいた。
◇
それは、人に見えた。いや、どう見ても人でしかなかった。
頭の中は、真っ白。失敗した? あたしは何を間違えた?
「ん? あんた誰だ? ていうか、ここはどこだ? おれは何でこんなとこにいる?」
その人物は見たところ男性。あたしより頭ひとつくらい背が高かった。
暗くてよくわからないけど、黒い髪に濃い色の瞳をしているのが少し人間離れしているかしら。思いっきり下駄はかせた上での感想だけれど。
「初めまして。我が召喚に応じて下さったこと、まずは感謝申し上げます」
あたしは慎重に言葉を選びながら、スカートをつまんでかるく会釈をした。
「召喚? んー……するとここは日本じゃないのか? おれは、異世界に召喚されたってこと?」
この方はニホンというところから来たのね。
「はい。ここはハルヴァラ王国。あたくしはアレクサンドラ・ハルヴァリ、あなたを召喚した者にございます」
「おー、やっぱり異世界召喚か! こりゃすげえ!」
彼は陽気な声を上げると、すたすたとあたしの方へ歩み寄ってきた。思わずびくりと後退るあたしの手を取って、
「おれはアンドウ・タカヒトってんだ、よろしく!」
「アントン……タ、タ……カイ?」
「んー、やっぱり西洋人に日本人の名前は難しいかなー。まあ、カイでもいいよ、可愛いお嬢さん」
そう言ってしっかりと手を握ったのである。
◇
「それで、カイ、あなたはどんなことができますの?」
「んー、さて、何ができるかなあ?」
こっそりあたしの部屋に彼を連れて来て、あたしは彼に訪ねた。
明るいところで見た彼、カイは意外と年齢が上な感じがした。体型は若々しいけれど、歳は、そうね、あたしより十か十五は上かしら。
「魔法……精霊魔法など使えますの?」
期待を込めて、あたしは訊いてみる。もしかしたら精霊魔法どころか、禁呪魔法まで使える大魔導士クラスとか?
「あー、魔法は無理だな。うちの国に魔法はない。そんな素養もおれにはない」
「はあ……」
「ずいぶんあからさまに落胆してくれるな」
カイが幾分非難がましい眼つきであたしを見る。いやだって、当たり前でしょ? あたしはそういうものを期待して召喚魔法を使ったのよ。
「では剣技に優れているとか?」
「それもないね。うちの国は剣も魔法も、何にもない。まあ家電や兵器は魔法と言えなくもないが……身ひとつで来たんじゃ意味がないな」
「何か使える武器は……」
「平和国家日本で武器を取って戦う機会なぞ、ない」
「ちっ、はずれか」
「おい! 聞こえてるぞおまえ!」
だって当然のリアクションでしょうが。
何を間違ったんだろう? 思い返したけれど、心当たりが何もない。
あたしは途方に暮れた。どうしよう?
◇
ハルヴァリ伯爵家に食客がひとり増えた。
それは文字通りの食客だった。
本当に何もできない。ただの人だ。
黒髪黒瞳がちょっとミステリアスと言えなくもないけど、そう見えるというだけのことで、能力やスキルとは何の関係もない。
「はあ……」
あたしはため息をついた。時間を無駄にはできないのに、今までの時間はすべて無駄になった。次はどうしたらいいのか。
「どうした? 何をそんなにあせっている?」
「あなたにはわからないわよ」
のほほんと召喚されて来ただけのあなたには絶対にわからない。あたしの全人生は今、賭けのテーブルの上に乗っているのよ。
この賭けに失敗すれば、あたしはなにもかも失う。今のところ時間ばかりが過ぎ、あたしの手持ちのチップは減る一方だ。
「そう言うな。話なら聞いてやるぞ。話しているうちにいいアイデアが浮かぶかも知れないじゃないか」
ずいぶんのん気な言い草だと思いながらも、その落ち着いたもの言いは、あたしを包み込んでくれるような思いやりがあった。
あたしはぽつぽつと、自分の境遇を語った。全てはとても明かせなかったけれど、カイは黙って聞いてくれた。
「今のところ神さまの思惑どおりよ。肚が立つったらありゃしない」
「……なるほどな」
そう言って、彼は黙った。
どうしたんだろう? 何か考えているのかな?
つと彼は立ち上がった。
それから。
「がんばったな」
あたしの頭に手を置いた。
「なっ!?」
「ひとりで頑張ってきたんだろう? たまには泣いたっていいだろうさ」
「ばっ、ばかにしないでよ!」
あたしはカイの手を振り払ってそっぽを向いた。けど思わぬやさしさに、心は耐えることができなかった。何かがあふれた。それが涙だってしばらくわからなかった。わからないくらい、あたしは必死だった。必死すぎて、当たり前の心の動きさえ、あたしは忘れていたのだ。
あたしは泣いた。久しぶりに。
カイは黙って、あたしが泣き止むまでそばにいてくれた。
◇
しかし、それで神さまの用意した運命が回避できるものでもない。
翌日、カイは何かを手にしてあたしの前にやってきた。
「これを作ってくれ」
「なにこれ?」
彼が書いた図面には、細長い四角の中に五個の楕円の列、それが横にずっと並んでいる。
「算盤だ」
「そ……そろばん?」
「東洋の計算尺だ」
「東洋ってどこよ?」
「オリエンタル・ミステリーな国だ」
「ますますわかんないわよ?」
とにかく彼は、わが伯爵家の財力を使って、この算盤なる計算尺を製作しろ、ということらしい。
「おれが教えられるものがひとつあった。セールスとマーケティングだ。それをきみに叩きこむ」
「それがあたしの人生と何のかかわりが?」
「話を聞いた限りじゃきみに落ち度はない。きみがひどいやつだったら運命だ諦めろとも言えたんだが、それじゃあんまりだ。そんな運命はぶっとばしていい」
「いや、そうは言っても……」
それができれば苦労はしない。今のところあたしは破滅への道をまっしぐらだ。回避する方法なんて本当にあるのだろうか?
「大丈夫だ。おれにまかせろ」
あっ。
なんだろう、この感覚。
心があったかいもので満たされていく。なんという安心感。
あたしは誰かに頼りたかったんだって、その時初めて気づいた。
「いずれにせよ、努力は無駄にならない。今実を結ぶことはなくても、いつか必ず役に立つさ。その時を目指して……」
「目指して……?」
「まずはこの四則演算一千問! 死ぬ気で手を動かせ!」
「ひいいいい!?」
◇
そして時は過ぎてゆき、ユルヤナさまの卒業の日。
「サーラ。きみとの婚約を破棄する」
あたしの頬を伝った涙の意味は何だったのか。
ついに来てしまった。それとも、やっとこの時が来た、か。
ユルヤナさまの側には、ミラがつき従っている。すまなそうな、でもちょっと誇らしそうな複雑な表情だ。まあそれはいい。
あたしはもう一度ユルヤナさまを見た。この人と、この先ずっと一緒に人生を歩んでいくものと思っていたのに。それは愚かな少女の愚かな夢だったのか。
……冗談じゃない。
あたしは何も悪くない。何も悪いことをしていない。ユルヤナさまにも精いっぱい尽くしてきたし、ミラともいい友だちだったはずだ。
なのにあたしは全てを奪われる。あたしのせいじゃないのに。
流れる涙は、ひとつの感情によって意味を与えられた。
それは怒りだった。
あたしはすっと立ち上がった。
「……言いたいことはそれだけですか?」
ひたとユルヤナさまを見据える。明らかに彼は怯んだ。
「ならば申し上げますが、ユルヤナさま、ご自分が何をなさっているのかわかっているのですか?」
「わかっているとも」
精いっぱい胸を張って、ユルヤナさまが答える。そりゃミラの手前、かっこ悪いところは見せられないわよね。
「わたしは真実の愛に目覚めたのだ。もう自分の心に嘘はつけない。なによりミラと……」
「真実の愛、ですって?」
地獄の底から響いて来る声があるとしたら、今のあたしの声だろうな。
でも、手加減する必要をあたしは認めなかった。
「わかってない。まったくわかってないわ! ユルヤナさま、ご自身の立場を考えたことがおありですか? あなたはこの国を背負って立つ貴族の名門、カルヒネン家の嫡男なのですよ? あなたの軽はずみな行動があなたとあなたの家名にどれほどの傷をつけるとお思いですか?」
「だがわたしは……わたしたちの心に正直に……」
「それがあなたのお家に傷をつけると言っているんです! もっと前後左右を考えなさいよ! ちょっと優しくされたくらいですっかりなびいちゃって……女ひとり乗りこなせないで将来お国とお家を乗りこなしていけるのですか!?」
くすくすと笑い声が聞こえたけど、それはあたしを笑ったのか、ユルヤナさまを笑ったのか。
でももう、どっちでもいい。失ったものは元に戻らない。
「では、お幸せに。真実の愛を大事になさいませ」
あたしは席を立った。
終わった、とみんな思っただろう。
だけど違う。これは始まりなのだ。
ほどなく、ヒエタミエス子爵家の伯爵への昇進が公表された。特に何か功績があったわけじゃないはずだけど、貴族社会の賞罰なんてそんなものだ。強いて言えばご祝儀、というところだろうか。
対するわがハルヴァリ家は、爵位の剥奪を言い渡された。これも特に理由があるわけじゃない。当事者一同にとって、まことにばつが悪い人事だった。
当家は領地召し上げ。屋敷とその周辺の最低限の土地は残してもらえたものの、予言の通りあたしと当家は全てを失ったと言ってよかった。命を取られなかっただけ、ましかも知れない。
ハルヴァリ家は終わった。
誰もがそう思った。
◇
しばらくして、カルヒネン公爵家に異変が起きた。
傘下の商店、商会が軒並み経営難におちいったのだ。
どの取引先も商品を購入してくれなくなった。どの仕入先も材料を卸してくれなくなった。カルヒネン家は大騒ぎになった。突然のこの異変はどうしたことだ? 誰もが疑問に思ったが、誰も答えを知らなかった。商会はどれも立ち行かなくなり、ひとつがつぶれ、ふたつが人手に渡り、カルヒネン家はあっという間に商業部門を失った。
仕掛けていたのはカイ。そしてあたし、アレクサンドラ・ハルヴァリ元伯爵令嬢だった。
カイの持ち合わせていたチート――本人はM&Aと言っていた――は地味だけど強力だった。彼はあたしに商売の基本を教え込んだが、同時に実際に事業を起こし、あたしに商会の運営をさせた。
ずぶの素人にいきなりそんなことをさせるなんて無茶も大概だ、と思ったけど、彼は真剣だった。
「おまえには時間がない。なら、通常のペースでやっていたらだめだ。多少博打の要素も入るが、人生賭けた博打だからな。無茶する価値はある」
手持ちの資産で商会を買う。それを担保に資金を借り入れ、また事業を買う。それを担保にまた資金を借り入れ……と、この世界ではまだ誰もやっていない大胆な経営を展開していった。しかもそれをあたしにやらせた。
「あたし、商売なんてやったことないんだけど?」
「誰だって最初は素人だ。大丈夫、きみには才能がある。それに、おれがついてる。心強いだろ?」
「な、なにかっこつけてんのよ?」
そんな恥ずかしいせりふを、よくもぬけぬけと。
でも彼はあたしを信じてくれた。ならば応えないと。
カイに引っ張られ、おだてられ、あたしは無我夢中で資産を拡大していった。
そうやってあたしは結構な商会、商館を持つ資産家になっていたわけだけど、そこには明確な目的があった。
買収の対象はカルヒネン公爵家傘下の商会と取引関係のあるところ。
つまりあたしは武力によらず、カルヒネン公爵家を包囲しつつあったのだ。
そして今、カルヒネン公爵家との取り引きの全停止を命じた。
直接傘下にある商店には命令を。そうでないところは取引停止や出資の打ち切りをちらつかせて、言うことを聞かせる。あこぎな真似だ。だけどあたしは容赦しなかった。やるからには徹底的にやる。黙っていたけど、あたしだって相当頭にきてるんだからね。
誰もカルヒネン公爵家に物を売らず、買い取りもしない。カルヒネン家は大打撃を受けた。
でもそれだけならまだ大したことはない。公爵家には広大な領地があり、そこから上がる税収だけでも相当なものだ。商売が頓挫したとて公爵家が潰れるほどでもない。
しかし、である。徴収した租税の物品は換金しなければならない。あたしたちはそこも押さえてしまっていた。
カルヒネン家のものは誰もが買い取りを拒否した。穀物や工芸品など、租税として徴収した物品も売れなければ金にならない。
その工芸品もわが商会が金にあかせて買い占めていた。租税として納めるより金になるので製造者は大喜びだったが、肝心のカルヒネン家には一文の金も入らない。
こうして王国きっての名門貴族カルヒネン公爵家は前代未聞の経済危機におちいった。さすがに潰れることはなかったけど、ため込んだ財貨を大量に放出するはめになり、うわさでは金蔵が半分になったとか。
どうやらその原因が嫡男ユルヤナさまにあるらしい、とわかってきて、ユルヤナさまは詰問され、白状した。
ことの真相を知った公爵家当主アレクサンデリさまと、先代ヴィルヘルムさまの怒りはすさまじかった。烈火のごとくお怒りになり、ユルヤナさまに激烈な折檻を加えたらしい。あたしはユルヤナさまにちょっとだけ同情した。当代も先代も家柄にふさわしい厳しいお方だと評判だ。そのお二方が本気でお怒りとは、想像するだけで身震いがする。当事者でなくてよかった。
「おまえが袖にしたご令嬢になんと詫びればよいのか……。もう謝ってすむものと思われぬ。そのうえ家名にまで泥を塗ってくれたな。これでは社交界の笑い者だ。この不始末、どうしてくれようか……」
屈強な近衛騎士でさえ震えあがりそうな迫力のある眼つきで、ヴィルヘルムさまはユルヤナさまを睨みつけた。ユルヤナさまはヘビに飲み込まれる寸前のカエルみたいなありさまで、ミラと抱き合って震えるばかり。
「真実の愛とやらがあれば生きていくのに不自由はあるまい。おまえが足蹴にした家門などあてにせず、どこへなりと行って好きに暮らすがいい」
こうしてユルヤナさまはミラと共に放逐され、街中で暮らしていくことになった。
裕福な上流貴族の後ろ盾がない生活はさぞや大変と思うけど、ま、何とかなるでしょう。伴侶のミラくんは平民として暮らしていたらしいから、それなりの生活力はあるでしょうしね。真実の愛とやらがあれば、生きていけるのではないかしら?
その点は同情するつもりはなかった。あたしだって「元」貴族になってしまったんだからね。
でも余計なしがらみがなくなったことは感謝している。あたしはこれから好きに生きていくことができる。あたし自身が獲得した資産で。
その後、アリクサンデリさまとヴィルヘルムさまが揃ってあたしに頭を下げにいらしたけれど、あたしは会わなかった。もう過ぎてしまったことだけど、まだあたしは許せなかった。
だけどユルヤナさまが来た時はちょっと興味を引かれて、一度だけ会った。その時あたしは何を感じるだろう、と思ったのだ。
ユルヤナさまは見る影もなくしょぼくれてしまっていた。あたしは以前と変わらず相対していた。隣にカイを座らせて。
「サーラ、わたしを許してほしい。あさはかだった。浮かれていたんだ」
それを言うのはつらかっただろうな、と思った。思ったけれど、その時あたしは何も感じなかった。あたしの中ですでに彼は過去の人になっていた。
「過ぎてしまったことは仕方がありませんわ。過去にとらわれず、お互い未来のために生きていきましょう」
もちろん、あたしの見ている未来と、ユルヤナさまが見ている未来は違う。
かつては同じだった。だけどもうその未来は二度と戻らない。
「サーラ、もう一度機会をもらえないだろうか? 厚かましい願いだとは承知している。でもきみが抱いてくれていた未来に、まだ少しでも価値があると思うなら……」
「未練たらたらだねえ、お坊ちゃま?」
口を挟んだのはカイだった。非礼だったかもしれないけど、あたしは咎めなかった。あたしもそう思っていたし、あたしはそれをカイに言ってほしかったのだ。
「あなたはサーラを捨てた。あなたは未来を捨てたんだ。それを拾うのはサーラじゃない」
ユルヤナさまは何か言いたそうにして、ぎゅっと唇をかんだ。
「もっとも、失ってみて初めてその価値に気がつくこともある。その点は同情するよ。あなたが失ったものは大きかった。こんな気立てのいい美人を袖にしたんだからな」
思わず頬が火照るのを、あたしは抑えられなかった。なんて堂々と言い切るのよ。照れるじゃない!
「しかもこんなに商才があるとは、おれも予想外だったよ。センスがある上に努力家だ。こんないい娘を手放すとは、あんたも見る目がなかったな。まあ胸が残念なことになってるのだけは惜しいが……げふっ!」
思いっきり横腹にあたしの肘鉄をくらいながらも、この男の減らず口は止まらない。
「ともかくだ」
カイはあたしをぐいっと抱き寄せて、
「今、サーラの未来はおれとともにある。あんたの役目は終わったんだ」
「そ、そういうことです。ユルヤナさまにはミラがいらっしゃるでしょう。どうぞお幸せに」
カイの爆弾発言にしどろもどろになりながら、それでもきっぱりとあたしは言い切った。
ユルヤナさまはとぼとぼと帰っていった。
◇
「やったじゃないか、お嬢さま」
「もうお嬢さまじゃないけどね」
「じゃ、才色兼備のうら若き女商館長さま?」
「嫌味かしら、それ?」
一番初めに立ち上げた商会の、あたしの部屋。
あたしはカイと、めずらしくワインなど開けていた。
あたしの意趣返しは完了した。結局爵位は戻らなかったけど、今は生きていくに困らない収入はある。そして今までにない自由がある。すべてはカイのおかげだ。
「あなたを召喚したときは正直どうしようかと思ったけど……でも、あなたでよかった。ありがと」
「いえ。役目がまっとうできたようで、なによりです」
カイがもったいぶってグラスを掲げてみせる。あたしはくすぐったい気分になった。
心臓がどきどきしているのはワインのせいかしら。
「それでね、これからもあたし、あなたと……」
「そうだな。きみはもう一人でも大丈夫だ」
え? なに? どういうこと?
「おれは帰るよ。もとの世界に」
「え……?」
「もうおれの役目も終わった。楽しかったよ。たいへんだったけどな」
何を言っているの?
これからもずっと、あたしと一緒にいてくれるんじゃないの?
遠慮がなくてすぐあたしをからかうのは癪だけど。
でもつらいときに黙って辛抱強く話を聞いてくれたり、挫けそうなときに優しく力づけてくれたり、上手くできたときには「頑張ったな」って頭をなでてくれたり。
「子供あつかいしないで!」なんて怒ってみせたけど、それは照れくさかったからで、ほんとはとっても嬉しかったんだよ。
もっと頭をなでてほしいのに。
もっと優しくほめてほしいのに。
そしてできれば、優しく抱きしめてほしいのに。
あたしを置いて行ってしまうなんて。
涙目になって震えているあたしの心情を、彼はどう思っただろう。
「というわけで、これが別れの一杯だ。これを飲んだら、おれを元の世界に帰してくれ」
「……は?」
「だからおれを、元の世界に戻して……」
「できないわよ、あたし」
「……なんだって?」
「召喚魔法に、元に戻す方法はないの」
「なんだってえええええ!?」
カイがあたしの肩をがっつりとつかんで、あたしは「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げる。
「じゃ、おれは一生この世界にいなきゃならないのか!?」
「そうね、召喚魔法ってもともとそういうものだし」
「なんてこった……」
カイは顔に手を当てて呻いた。
「なによ。こんな可愛い娘がいるこの世界がそんなにいや?」
「そういう問題じゃない。いや、それはそれで悪くないんだが……」
「ならいいじゃない」
「そうじゃなくてだな……。ああ、なんてこった」
呆然自失のカイ。でもあたしは追い打ちをかけた。大事なことなので。
「それでね、使役契約を結びたいんだけど」
「それならおれが召喚されたときに結んだだろう?」
「あれは仮契約なの。そろそろ効果が切れるわ。だから本契約を結び直さないと」
使役契約。召喚されたものが召喚者の命尽きるまでつき従うという契約。
一生ものの契約だ。命を共にする契約でもある。
「それは必要なのか? それをしないとどうなる?」
「召喚された精霊は、契約しなくても野良精霊としてしばらくは生きられるけど、間もなく消滅するわ」
「まさしく、なんてこった、だな」
カイは間違いなく人間だし、人間として生きているけれど、精霊として召喚されたことは変わらない。その行動は精霊としての制約を受ける。
契約しない精霊は主人の庇護をうけられず、はぐれ精霊として消えゆく運命なのだ。
「わかった? わかったら腹を括って、ちゃんとあたしと契約なさい」
「……どうすればいい?」
恨みがましそうな目であたしを見上げながら、カイが訊いてくる。
「古来、契約といえば口づけよ。決まっているでしょう?」
澄まして言ってのけたあたしの心臓はどきどきして爆発しそうだ。
カイはがしがしと頭を掻くと、ため息をついて立ち上がった。
それからふわりとあたしの肩を抱いて、顔を寄せてささやいた。
「一生ものだからな。責任とってくれよ」
「それって女のせりふでしょ」
彼はあたしの唇の端にそっと、優しく口づけてくれた。
こうしてあたし、アレクサンドラ・ハルヴァリと、カイことアンドウ・タカヒトは使役契約者として結ばれた。
――ほんとは手の甲でよかったんだけどね。
◇
それから、若き女商館長とその使い魔の黒髪の青年は、ハルヴァラの商業界にいろいろと波風を立てていくことになる。
「元伯爵令嬢の才女」「大貴族を破綻寸前まで追い詰めた冷血の魔女」と評判ばかりが独り歩きしている気がしないでもないけど、肩書は有効に使わせてもらおう。
まあでもそれ故に、あたしたちを快く思わない大商会を向こうに回してカイが無謀な商戦を仕掛けたり、裏稼業の場であたしが熾烈な魔法戦を繰り広げたりと、ちょっとした――ほんとにちょっとしたイベントなんだからね!――出来事があったりするけど、それはまた先の話。
「ちょっとカイ! あなたまたゾディアック商会とやりあってるの? もう危ない橋を渡るのやめなさいよ商館長さまなんだから」
「何言ってる? それもこれも、おまえがゾディアックの子会社を魔法でふっ飛ばしたからだろ? 何でも魔法で解決しようとしすぎだ」
「あたしが助けなきゃ、あなた殺されてたじゃない?」
「おまえが見境なしに追い詰めて命狙われてたからだろ? 少しは手加減してやれよ。みんながみんな、おまえみたいに賢いわけじゃないんだ」
ず、ずるい。いきり立っている最中に不意打ちでそんな優しい声を出すのは反則だ。思わず頬がにやけてしまう。
「んふ? 賢い? ねえあたし賢い? あいたっ!」
カイに額を弾かれて、あたしはうずくまる。
「調子に乗るな」
「なによ。剣も魔法も使えないくせに」
「それを補って余りあるチートがあるだろうが」
「とてつもなく地味~~~だけどね。まったく、とんだ外れを引いたもんだわ」
「おい聞こえてるぞ、コラァ!」
日々こんな調子だけどね。
でも今は、これで満足。
今はカイと、こうして一緒にいられるだけでいい。
あたしよりずいぶん年上で、性格も口も悪い変わり者だけど、でもあたしが一番安心して頼れる人。
あたしはもうひとつ嘘をついていた。
召喚魔法には、対になる送還の魔法がある。
あたしはそれを言わなかった。もちろん一生使うつもりもない。
あたしは決めたのだ。
もうほしいものは諦めないって。
もう絶対に手離さないんだって。
ユルヤナさまからそう告げられたとき、あたしの頬をひと筋、涙が伝っておちた。
それにどんな感情が込められているか、わかるのはあたしだけだった。
ことの起こりは二年前にさかのぼる。
明日から高等部に進級という晩、あたしの夢枕に神さまとやらが立ったのだ。
「やあ、ぼくは神さまだよ! 人生の節目を迎えたきみに、未来を予見してあげるよ!」
威厳の欠片もない軽々しさで神さまは宣った。
「きみの人生はなんと三択だ! ひとつは婚約を破棄されて、お家の悪事も露見しハルヴァリ伯爵家は取り潰しのうえ一族ともども処刑。もうひとつは婚約を破棄されて、身ひとつで国外追放。最後のひとつは婚約を破棄されて、ライバルのおうちでメイドとして再就職だよ!」
「待ってちょっと待って! なんなのその嫌すぎる三択は!?」
しかも全部の冠が『婚約破棄』って、どういうこと?
「人生はフレキシブルだけど未来はひとつの結果に収束するよ! きみの人生は三択のうちどれか、どうあがいても運命は変わらないよ! 神さまが言うんだから間違いないよ!」
「嬉しそうに言うなこの疫病神がっ!」
あたしは精いっぱい罵倒を投げつけた。ほんとはぶん殴りたかったけど、夢の中だからうまくいかない。
「結果はひとつだけどそこに至る道は無限だから、目いっぱい楽しんでね! それじゃあ!」
……などという、人生最悪の夢を見たあたしは、失意のどん底のまま新しい学園生活を迎えたのだった。
あたし、アレクサンドラ・ハルヴァリには婚約者がいる。ひとつ年上のユルヤナ・カルヒネンさま。
カルヒネン公爵家はこの国でも五本の指に入る名家だ。そこの長男ユルヤナさまとは熱烈というほどではないけれど、良好なお付き合いを続けていた。卒業後は結婚してあたしは公爵家に嫁ぐことになる。周囲がうらやむ玉の輿だったし、あたしもお相手も、もちろん両家も何の不満もなかった。
なのにあたしには、その愛する婚約者に捨てられる運命しかないと言う。つまりあたしは悪役令嬢ってわけ? しかもオプションはお家取り潰しか国外追放か、さもなくば婚約者を寝取った相手のお家で下働きとか……それがいちばん嫌だわ。いくらのん気なあたしでも、それは死んでもいや。
「やあサーラ、きみもやっと高等部だね。これでいつも一緒にいられる……って、なんだか浮かない顔をしているね」
「い、いえ、なんでもありませんわ」
あたしは精いっぱいの笑顔をつくった。ユルヤナさまはとってもいい人。いい人過ぎてちょっと物足りないかもだけど、それは贅沢というものだ。
婚約してからの数年、あたしたちは穏やかに愛を育んできた。それを奪われてしまうなんて信じられないけど……。
それは確かにやってきた。
ラウラ=ミラ・ヒエタミエス。高等部から編入してきた娘。
子爵家の子女、ということになっている。正統な血筋ではなく妾腹で、最近養女として子爵家に迎えられたんだとか。あくまで噂だったけど、編入前から話題になっていた。
そのミラと、あたしは速攻で友だちになった。なぜってこの娘があたしからユルヤナさまを奪い、あたしの未来を全部奪っていく張本人だと神さまに聞いていたから。
この学園で中途編入なんてめったにない。ゆえに好奇の視線にさらされるのはある意味当然だった。そしてあることないこと噂され、ぽっと出のよそ者に王道ないじめのフルコース。その逆境にめげないヒロインに婚約者はほだされ、すっかり心奪われて、ついに結ばれて、ヒロインいじめの首謀者のあたしは婚約破棄へとまっしぐらって、それはいやああああああああ!!!
それは避けたい。なんとしても避けたい。
だからあたしはまず、ミラの友だちという位置を確保した。いきなり貴族社会に放り込まれて戸惑うミラに優しく接し、家柄など気にもしないで助けてあげるいい友だち。その地位を確立した。新人に冷たく当たる伯爵令嬢とその取り巻き、なんて図は願い下げだった。あたしは誰のいじめにも加担しない、穏やかでたおやかな令嬢でいたいのよ。
だがミラとつき合ううち、あたしはますます危機感を深めていった。
この娘、かわいい。
確かにあか抜けないところはある。けど素材は悪くない。なんといってもひたむきで、健気だった。なにごとにも一所懸命で、明るくて、健気で、胸が大きくて……と、指折り数えながら、なだらかな自分の胸を眺める。
こほん、胸のことはおいとくとしても、それでもこれはポイント高いわ。こんな健気な姿を見せられたあとに純朴な笑顔を向けられたら、女のあたしでもきゅんきゅんする。まして男がなびかないわけがない。
果たしてユルヤナさまである。最近ぼうっとしていることが多い。そのうち、あたしと帰る時間が少なくなってきた。
まずい。
非常にまずい。
どこで出会ったか知らないが、ユルヤナさまの心は間違いなく移りつつある。健気で純朴な少女、ラウラ=ミラ・ヒエタミエスに。
あたしは泣いた。暗い部屋でひとり、枕に顔を押し付けて声を殺して泣いた。
なぜ? どうして?
あたしは悪くない。なにも悪いことをしていないのに。どうして幸せが逃げていくの? それどころか婚約破棄に至るなんて。あたし、そんなに悪い娘なんだろうか?
どうしていいかわからず、あたしは泣き続けた。
◇
秋が終わる頃、あたしは泣くのをやめた。
運命はくつがえせない。神さまの決めたことには逆らえない。
それをひっくり返すには、神さまより強い力を手に入れるしかない。
神さまではない何か。悪魔か、魔王か、妖怪か。とにかく神ならざる何か。
あたしは必死で調べた。
そして真冬の真夜中、新年を迎えようかという屋敷の敷地の片すみで、あたしは魔法陣を描いていた。
召喚魔法。
別の世界から人ならざるものを招き寄せる魔法。
通常、精霊魔術に属するこれは、召喚したものと使役契約を結び、これを使役する。召喚されるものは精霊、神獣、魔物、まあだいたい人でも神でもないものだ。いったん使役契約を結ぶと、召喚された者は召喚者の命が尽きるまでこれに尽き従う。あたしが行き着いた『神ではないもの』は、これだった。
何が召喚されるのか、まだあたしにはわからない。でもこれでも魔法にはちょっと自信があった。あたしの魔力はかなり大きいらしい。魔法陣が上手く機能してくれれば、かなり上位のものが召喚できるはず。
地面に刻みつけた魔法陣の前で、あたしは杖を掲げながら呪文を詠唱する。
魔法陣が輝き出し、内側から眩い光を放ち始めた。なにかすごい力を感じる。
これなら。きっとこれなら。
あたしは詠唱に合わせて、自分の裡にある魔力の全てを解放した。
魔法陣が無音の爆発とともに、ひときわ輝く。
その光が収まったあと。円形の陣の中には。
「あれ? どこだここ? おれはどうなってる?」
「…………………………」
魔法陣の真ん中には、まごうかたなき……人間の男が座り込んでいた。
◇
それは、人に見えた。いや、どう見ても人でしかなかった。
頭の中は、真っ白。失敗した? あたしは何を間違えた?
「ん? あんた誰だ? ていうか、ここはどこだ? おれは何でこんなとこにいる?」
その人物は見たところ男性。あたしより頭ひとつくらい背が高かった。
暗くてよくわからないけど、黒い髪に濃い色の瞳をしているのが少し人間離れしているかしら。思いっきり下駄はかせた上での感想だけれど。
「初めまして。我が召喚に応じて下さったこと、まずは感謝申し上げます」
あたしは慎重に言葉を選びながら、スカートをつまんでかるく会釈をした。
「召喚? んー……するとここは日本じゃないのか? おれは、異世界に召喚されたってこと?」
この方はニホンというところから来たのね。
「はい。ここはハルヴァラ王国。あたくしはアレクサンドラ・ハルヴァリ、あなたを召喚した者にございます」
「おー、やっぱり異世界召喚か! こりゃすげえ!」
彼は陽気な声を上げると、すたすたとあたしの方へ歩み寄ってきた。思わずびくりと後退るあたしの手を取って、
「おれはアンドウ・タカヒトってんだ、よろしく!」
「アントン……タ、タ……カイ?」
「んー、やっぱり西洋人に日本人の名前は難しいかなー。まあ、カイでもいいよ、可愛いお嬢さん」
そう言ってしっかりと手を握ったのである。
◇
「それで、カイ、あなたはどんなことができますの?」
「んー、さて、何ができるかなあ?」
こっそりあたしの部屋に彼を連れて来て、あたしは彼に訪ねた。
明るいところで見た彼、カイは意外と年齢が上な感じがした。体型は若々しいけれど、歳は、そうね、あたしより十か十五は上かしら。
「魔法……精霊魔法など使えますの?」
期待を込めて、あたしは訊いてみる。もしかしたら精霊魔法どころか、禁呪魔法まで使える大魔導士クラスとか?
「あー、魔法は無理だな。うちの国に魔法はない。そんな素養もおれにはない」
「はあ……」
「ずいぶんあからさまに落胆してくれるな」
カイが幾分非難がましい眼つきであたしを見る。いやだって、当たり前でしょ? あたしはそういうものを期待して召喚魔法を使ったのよ。
「では剣技に優れているとか?」
「それもないね。うちの国は剣も魔法も、何にもない。まあ家電や兵器は魔法と言えなくもないが……身ひとつで来たんじゃ意味がないな」
「何か使える武器は……」
「平和国家日本で武器を取って戦う機会なぞ、ない」
「ちっ、はずれか」
「おい! 聞こえてるぞおまえ!」
だって当然のリアクションでしょうが。
何を間違ったんだろう? 思い返したけれど、心当たりが何もない。
あたしは途方に暮れた。どうしよう?
◇
ハルヴァリ伯爵家に食客がひとり増えた。
それは文字通りの食客だった。
本当に何もできない。ただの人だ。
黒髪黒瞳がちょっとミステリアスと言えなくもないけど、そう見えるというだけのことで、能力やスキルとは何の関係もない。
「はあ……」
あたしはため息をついた。時間を無駄にはできないのに、今までの時間はすべて無駄になった。次はどうしたらいいのか。
「どうした? 何をそんなにあせっている?」
「あなたにはわからないわよ」
のほほんと召喚されて来ただけのあなたには絶対にわからない。あたしの全人生は今、賭けのテーブルの上に乗っているのよ。
この賭けに失敗すれば、あたしはなにもかも失う。今のところ時間ばかりが過ぎ、あたしの手持ちのチップは減る一方だ。
「そう言うな。話なら聞いてやるぞ。話しているうちにいいアイデアが浮かぶかも知れないじゃないか」
ずいぶんのん気な言い草だと思いながらも、その落ち着いたもの言いは、あたしを包み込んでくれるような思いやりがあった。
あたしはぽつぽつと、自分の境遇を語った。全てはとても明かせなかったけれど、カイは黙って聞いてくれた。
「今のところ神さまの思惑どおりよ。肚が立つったらありゃしない」
「……なるほどな」
そう言って、彼は黙った。
どうしたんだろう? 何か考えているのかな?
つと彼は立ち上がった。
それから。
「がんばったな」
あたしの頭に手を置いた。
「なっ!?」
「ひとりで頑張ってきたんだろう? たまには泣いたっていいだろうさ」
「ばっ、ばかにしないでよ!」
あたしはカイの手を振り払ってそっぽを向いた。けど思わぬやさしさに、心は耐えることができなかった。何かがあふれた。それが涙だってしばらくわからなかった。わからないくらい、あたしは必死だった。必死すぎて、当たり前の心の動きさえ、あたしは忘れていたのだ。
あたしは泣いた。久しぶりに。
カイは黙って、あたしが泣き止むまでそばにいてくれた。
◇
しかし、それで神さまの用意した運命が回避できるものでもない。
翌日、カイは何かを手にしてあたしの前にやってきた。
「これを作ってくれ」
「なにこれ?」
彼が書いた図面には、細長い四角の中に五個の楕円の列、それが横にずっと並んでいる。
「算盤だ」
「そ……そろばん?」
「東洋の計算尺だ」
「東洋ってどこよ?」
「オリエンタル・ミステリーな国だ」
「ますますわかんないわよ?」
とにかく彼は、わが伯爵家の財力を使って、この算盤なる計算尺を製作しろ、ということらしい。
「おれが教えられるものがひとつあった。セールスとマーケティングだ。それをきみに叩きこむ」
「それがあたしの人生と何のかかわりが?」
「話を聞いた限りじゃきみに落ち度はない。きみがひどいやつだったら運命だ諦めろとも言えたんだが、それじゃあんまりだ。そんな運命はぶっとばしていい」
「いや、そうは言っても……」
それができれば苦労はしない。今のところあたしは破滅への道をまっしぐらだ。回避する方法なんて本当にあるのだろうか?
「大丈夫だ。おれにまかせろ」
あっ。
なんだろう、この感覚。
心があったかいもので満たされていく。なんという安心感。
あたしは誰かに頼りたかったんだって、その時初めて気づいた。
「いずれにせよ、努力は無駄にならない。今実を結ぶことはなくても、いつか必ず役に立つさ。その時を目指して……」
「目指して……?」
「まずはこの四則演算一千問! 死ぬ気で手を動かせ!」
「ひいいいい!?」
◇
そして時は過ぎてゆき、ユルヤナさまの卒業の日。
「サーラ。きみとの婚約を破棄する」
あたしの頬を伝った涙の意味は何だったのか。
ついに来てしまった。それとも、やっとこの時が来た、か。
ユルヤナさまの側には、ミラがつき従っている。すまなそうな、でもちょっと誇らしそうな複雑な表情だ。まあそれはいい。
あたしはもう一度ユルヤナさまを見た。この人と、この先ずっと一緒に人生を歩んでいくものと思っていたのに。それは愚かな少女の愚かな夢だったのか。
……冗談じゃない。
あたしは何も悪くない。何も悪いことをしていない。ユルヤナさまにも精いっぱい尽くしてきたし、ミラともいい友だちだったはずだ。
なのにあたしは全てを奪われる。あたしのせいじゃないのに。
流れる涙は、ひとつの感情によって意味を与えられた。
それは怒りだった。
あたしはすっと立ち上がった。
「……言いたいことはそれだけですか?」
ひたとユルヤナさまを見据える。明らかに彼は怯んだ。
「ならば申し上げますが、ユルヤナさま、ご自分が何をなさっているのかわかっているのですか?」
「わかっているとも」
精いっぱい胸を張って、ユルヤナさまが答える。そりゃミラの手前、かっこ悪いところは見せられないわよね。
「わたしは真実の愛に目覚めたのだ。もう自分の心に嘘はつけない。なによりミラと……」
「真実の愛、ですって?」
地獄の底から響いて来る声があるとしたら、今のあたしの声だろうな。
でも、手加減する必要をあたしは認めなかった。
「わかってない。まったくわかってないわ! ユルヤナさま、ご自身の立場を考えたことがおありですか? あなたはこの国を背負って立つ貴族の名門、カルヒネン家の嫡男なのですよ? あなたの軽はずみな行動があなたとあなたの家名にどれほどの傷をつけるとお思いですか?」
「だがわたしは……わたしたちの心に正直に……」
「それがあなたのお家に傷をつけると言っているんです! もっと前後左右を考えなさいよ! ちょっと優しくされたくらいですっかりなびいちゃって……女ひとり乗りこなせないで将来お国とお家を乗りこなしていけるのですか!?」
くすくすと笑い声が聞こえたけど、それはあたしを笑ったのか、ユルヤナさまを笑ったのか。
でももう、どっちでもいい。失ったものは元に戻らない。
「では、お幸せに。真実の愛を大事になさいませ」
あたしは席を立った。
終わった、とみんな思っただろう。
だけど違う。これは始まりなのだ。
ほどなく、ヒエタミエス子爵家の伯爵への昇進が公表された。特に何か功績があったわけじゃないはずだけど、貴族社会の賞罰なんてそんなものだ。強いて言えばご祝儀、というところだろうか。
対するわがハルヴァリ家は、爵位の剥奪を言い渡された。これも特に理由があるわけじゃない。当事者一同にとって、まことにばつが悪い人事だった。
当家は領地召し上げ。屋敷とその周辺の最低限の土地は残してもらえたものの、予言の通りあたしと当家は全てを失ったと言ってよかった。命を取られなかっただけ、ましかも知れない。
ハルヴァリ家は終わった。
誰もがそう思った。
◇
しばらくして、カルヒネン公爵家に異変が起きた。
傘下の商店、商会が軒並み経営難におちいったのだ。
どの取引先も商品を購入してくれなくなった。どの仕入先も材料を卸してくれなくなった。カルヒネン家は大騒ぎになった。突然のこの異変はどうしたことだ? 誰もが疑問に思ったが、誰も答えを知らなかった。商会はどれも立ち行かなくなり、ひとつがつぶれ、ふたつが人手に渡り、カルヒネン家はあっという間に商業部門を失った。
仕掛けていたのはカイ。そしてあたし、アレクサンドラ・ハルヴァリ元伯爵令嬢だった。
カイの持ち合わせていたチート――本人はM&Aと言っていた――は地味だけど強力だった。彼はあたしに商売の基本を教え込んだが、同時に実際に事業を起こし、あたしに商会の運営をさせた。
ずぶの素人にいきなりそんなことをさせるなんて無茶も大概だ、と思ったけど、彼は真剣だった。
「おまえには時間がない。なら、通常のペースでやっていたらだめだ。多少博打の要素も入るが、人生賭けた博打だからな。無茶する価値はある」
手持ちの資産で商会を買う。それを担保に資金を借り入れ、また事業を買う。それを担保にまた資金を借り入れ……と、この世界ではまだ誰もやっていない大胆な経営を展開していった。しかもそれをあたしにやらせた。
「あたし、商売なんてやったことないんだけど?」
「誰だって最初は素人だ。大丈夫、きみには才能がある。それに、おれがついてる。心強いだろ?」
「な、なにかっこつけてんのよ?」
そんな恥ずかしいせりふを、よくもぬけぬけと。
でも彼はあたしを信じてくれた。ならば応えないと。
カイに引っ張られ、おだてられ、あたしは無我夢中で資産を拡大していった。
そうやってあたしは結構な商会、商館を持つ資産家になっていたわけだけど、そこには明確な目的があった。
買収の対象はカルヒネン公爵家傘下の商会と取引関係のあるところ。
つまりあたしは武力によらず、カルヒネン公爵家を包囲しつつあったのだ。
そして今、カルヒネン公爵家との取り引きの全停止を命じた。
直接傘下にある商店には命令を。そうでないところは取引停止や出資の打ち切りをちらつかせて、言うことを聞かせる。あこぎな真似だ。だけどあたしは容赦しなかった。やるからには徹底的にやる。黙っていたけど、あたしだって相当頭にきてるんだからね。
誰もカルヒネン公爵家に物を売らず、買い取りもしない。カルヒネン家は大打撃を受けた。
でもそれだけならまだ大したことはない。公爵家には広大な領地があり、そこから上がる税収だけでも相当なものだ。商売が頓挫したとて公爵家が潰れるほどでもない。
しかし、である。徴収した租税の物品は換金しなければならない。あたしたちはそこも押さえてしまっていた。
カルヒネン家のものは誰もが買い取りを拒否した。穀物や工芸品など、租税として徴収した物品も売れなければ金にならない。
その工芸品もわが商会が金にあかせて買い占めていた。租税として納めるより金になるので製造者は大喜びだったが、肝心のカルヒネン家には一文の金も入らない。
こうして王国きっての名門貴族カルヒネン公爵家は前代未聞の経済危機におちいった。さすがに潰れることはなかったけど、ため込んだ財貨を大量に放出するはめになり、うわさでは金蔵が半分になったとか。
どうやらその原因が嫡男ユルヤナさまにあるらしい、とわかってきて、ユルヤナさまは詰問され、白状した。
ことの真相を知った公爵家当主アレクサンデリさまと、先代ヴィルヘルムさまの怒りはすさまじかった。烈火のごとくお怒りになり、ユルヤナさまに激烈な折檻を加えたらしい。あたしはユルヤナさまにちょっとだけ同情した。当代も先代も家柄にふさわしい厳しいお方だと評判だ。そのお二方が本気でお怒りとは、想像するだけで身震いがする。当事者でなくてよかった。
「おまえが袖にしたご令嬢になんと詫びればよいのか……。もう謝ってすむものと思われぬ。そのうえ家名にまで泥を塗ってくれたな。これでは社交界の笑い者だ。この不始末、どうしてくれようか……」
屈強な近衛騎士でさえ震えあがりそうな迫力のある眼つきで、ヴィルヘルムさまはユルヤナさまを睨みつけた。ユルヤナさまはヘビに飲み込まれる寸前のカエルみたいなありさまで、ミラと抱き合って震えるばかり。
「真実の愛とやらがあれば生きていくのに不自由はあるまい。おまえが足蹴にした家門などあてにせず、どこへなりと行って好きに暮らすがいい」
こうしてユルヤナさまはミラと共に放逐され、街中で暮らしていくことになった。
裕福な上流貴族の後ろ盾がない生活はさぞや大変と思うけど、ま、何とかなるでしょう。伴侶のミラくんは平民として暮らしていたらしいから、それなりの生活力はあるでしょうしね。真実の愛とやらがあれば、生きていけるのではないかしら?
その点は同情するつもりはなかった。あたしだって「元」貴族になってしまったんだからね。
でも余計なしがらみがなくなったことは感謝している。あたしはこれから好きに生きていくことができる。あたし自身が獲得した資産で。
その後、アリクサンデリさまとヴィルヘルムさまが揃ってあたしに頭を下げにいらしたけれど、あたしは会わなかった。もう過ぎてしまったことだけど、まだあたしは許せなかった。
だけどユルヤナさまが来た時はちょっと興味を引かれて、一度だけ会った。その時あたしは何を感じるだろう、と思ったのだ。
ユルヤナさまは見る影もなくしょぼくれてしまっていた。あたしは以前と変わらず相対していた。隣にカイを座らせて。
「サーラ、わたしを許してほしい。あさはかだった。浮かれていたんだ」
それを言うのはつらかっただろうな、と思った。思ったけれど、その時あたしは何も感じなかった。あたしの中ですでに彼は過去の人になっていた。
「過ぎてしまったことは仕方がありませんわ。過去にとらわれず、お互い未来のために生きていきましょう」
もちろん、あたしの見ている未来と、ユルヤナさまが見ている未来は違う。
かつては同じだった。だけどもうその未来は二度と戻らない。
「サーラ、もう一度機会をもらえないだろうか? 厚かましい願いだとは承知している。でもきみが抱いてくれていた未来に、まだ少しでも価値があると思うなら……」
「未練たらたらだねえ、お坊ちゃま?」
口を挟んだのはカイだった。非礼だったかもしれないけど、あたしは咎めなかった。あたしもそう思っていたし、あたしはそれをカイに言ってほしかったのだ。
「あなたはサーラを捨てた。あなたは未来を捨てたんだ。それを拾うのはサーラじゃない」
ユルヤナさまは何か言いたそうにして、ぎゅっと唇をかんだ。
「もっとも、失ってみて初めてその価値に気がつくこともある。その点は同情するよ。あなたが失ったものは大きかった。こんな気立てのいい美人を袖にしたんだからな」
思わず頬が火照るのを、あたしは抑えられなかった。なんて堂々と言い切るのよ。照れるじゃない!
「しかもこんなに商才があるとは、おれも予想外だったよ。センスがある上に努力家だ。こんないい娘を手放すとは、あんたも見る目がなかったな。まあ胸が残念なことになってるのだけは惜しいが……げふっ!」
思いっきり横腹にあたしの肘鉄をくらいながらも、この男の減らず口は止まらない。
「ともかくだ」
カイはあたしをぐいっと抱き寄せて、
「今、サーラの未来はおれとともにある。あんたの役目は終わったんだ」
「そ、そういうことです。ユルヤナさまにはミラがいらっしゃるでしょう。どうぞお幸せに」
カイの爆弾発言にしどろもどろになりながら、それでもきっぱりとあたしは言い切った。
ユルヤナさまはとぼとぼと帰っていった。
◇
「やったじゃないか、お嬢さま」
「もうお嬢さまじゃないけどね」
「じゃ、才色兼備のうら若き女商館長さま?」
「嫌味かしら、それ?」
一番初めに立ち上げた商会の、あたしの部屋。
あたしはカイと、めずらしくワインなど開けていた。
あたしの意趣返しは完了した。結局爵位は戻らなかったけど、今は生きていくに困らない収入はある。そして今までにない自由がある。すべてはカイのおかげだ。
「あなたを召喚したときは正直どうしようかと思ったけど……でも、あなたでよかった。ありがと」
「いえ。役目がまっとうできたようで、なによりです」
カイがもったいぶってグラスを掲げてみせる。あたしはくすぐったい気分になった。
心臓がどきどきしているのはワインのせいかしら。
「それでね、これからもあたし、あなたと……」
「そうだな。きみはもう一人でも大丈夫だ」
え? なに? どういうこと?
「おれは帰るよ。もとの世界に」
「え……?」
「もうおれの役目も終わった。楽しかったよ。たいへんだったけどな」
何を言っているの?
これからもずっと、あたしと一緒にいてくれるんじゃないの?
遠慮がなくてすぐあたしをからかうのは癪だけど。
でもつらいときに黙って辛抱強く話を聞いてくれたり、挫けそうなときに優しく力づけてくれたり、上手くできたときには「頑張ったな」って頭をなでてくれたり。
「子供あつかいしないで!」なんて怒ってみせたけど、それは照れくさかったからで、ほんとはとっても嬉しかったんだよ。
もっと頭をなでてほしいのに。
もっと優しくほめてほしいのに。
そしてできれば、優しく抱きしめてほしいのに。
あたしを置いて行ってしまうなんて。
涙目になって震えているあたしの心情を、彼はどう思っただろう。
「というわけで、これが別れの一杯だ。これを飲んだら、おれを元の世界に帰してくれ」
「……は?」
「だからおれを、元の世界に戻して……」
「できないわよ、あたし」
「……なんだって?」
「召喚魔法に、元に戻す方法はないの」
「なんだってえええええ!?」
カイがあたしの肩をがっつりとつかんで、あたしは「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げる。
「じゃ、おれは一生この世界にいなきゃならないのか!?」
「そうね、召喚魔法ってもともとそういうものだし」
「なんてこった……」
カイは顔に手を当てて呻いた。
「なによ。こんな可愛い娘がいるこの世界がそんなにいや?」
「そういう問題じゃない。いや、それはそれで悪くないんだが……」
「ならいいじゃない」
「そうじゃなくてだな……。ああ、なんてこった」
呆然自失のカイ。でもあたしは追い打ちをかけた。大事なことなので。
「それでね、使役契約を結びたいんだけど」
「それならおれが召喚されたときに結んだだろう?」
「あれは仮契約なの。そろそろ効果が切れるわ。だから本契約を結び直さないと」
使役契約。召喚されたものが召喚者の命尽きるまでつき従うという契約。
一生ものの契約だ。命を共にする契約でもある。
「それは必要なのか? それをしないとどうなる?」
「召喚された精霊は、契約しなくても野良精霊としてしばらくは生きられるけど、間もなく消滅するわ」
「まさしく、なんてこった、だな」
カイは間違いなく人間だし、人間として生きているけれど、精霊として召喚されたことは変わらない。その行動は精霊としての制約を受ける。
契約しない精霊は主人の庇護をうけられず、はぐれ精霊として消えゆく運命なのだ。
「わかった? わかったら腹を括って、ちゃんとあたしと契約なさい」
「……どうすればいい?」
恨みがましそうな目であたしを見上げながら、カイが訊いてくる。
「古来、契約といえば口づけよ。決まっているでしょう?」
澄まして言ってのけたあたしの心臓はどきどきして爆発しそうだ。
カイはがしがしと頭を掻くと、ため息をついて立ち上がった。
それからふわりとあたしの肩を抱いて、顔を寄せてささやいた。
「一生ものだからな。責任とってくれよ」
「それって女のせりふでしょ」
彼はあたしの唇の端にそっと、優しく口づけてくれた。
こうしてあたし、アレクサンドラ・ハルヴァリと、カイことアンドウ・タカヒトは使役契約者として結ばれた。
――ほんとは手の甲でよかったんだけどね。
◇
それから、若き女商館長とその使い魔の黒髪の青年は、ハルヴァラの商業界にいろいろと波風を立てていくことになる。
「元伯爵令嬢の才女」「大貴族を破綻寸前まで追い詰めた冷血の魔女」と評判ばかりが独り歩きしている気がしないでもないけど、肩書は有効に使わせてもらおう。
まあでもそれ故に、あたしたちを快く思わない大商会を向こうに回してカイが無謀な商戦を仕掛けたり、裏稼業の場であたしが熾烈な魔法戦を繰り広げたりと、ちょっとした――ほんとにちょっとしたイベントなんだからね!――出来事があったりするけど、それはまた先の話。
「ちょっとカイ! あなたまたゾディアック商会とやりあってるの? もう危ない橋を渡るのやめなさいよ商館長さまなんだから」
「何言ってる? それもこれも、おまえがゾディアックの子会社を魔法でふっ飛ばしたからだろ? 何でも魔法で解決しようとしすぎだ」
「あたしが助けなきゃ、あなた殺されてたじゃない?」
「おまえが見境なしに追い詰めて命狙われてたからだろ? 少しは手加減してやれよ。みんながみんな、おまえみたいに賢いわけじゃないんだ」
ず、ずるい。いきり立っている最中に不意打ちでそんな優しい声を出すのは反則だ。思わず頬がにやけてしまう。
「んふ? 賢い? ねえあたし賢い? あいたっ!」
カイに額を弾かれて、あたしはうずくまる。
「調子に乗るな」
「なによ。剣も魔法も使えないくせに」
「それを補って余りあるチートがあるだろうが」
「とてつもなく地味~~~だけどね。まったく、とんだ外れを引いたもんだわ」
「おい聞こえてるぞ、コラァ!」
日々こんな調子だけどね。
でも今は、これで満足。
今はカイと、こうして一緒にいられるだけでいい。
あたしよりずいぶん年上で、性格も口も悪い変わり者だけど、でもあたしが一番安心して頼れる人。
あたしはもうひとつ嘘をついていた。
召喚魔法には、対になる送還の魔法がある。
あたしはそれを言わなかった。もちろん一生使うつもりもない。
あたしは決めたのだ。
もうほしいものは諦めないって。
もう絶対に手離さないんだって。
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