海の向こう側

杠葉 縞

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10.実技

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 翌朝の朝食の場。俺の心配とはよそに、仁美の方から「おはよう」と声をかけてきてくれた。彼女は今日は、水色のワンピースを着ていた。昨日のワンピースの色違いだろうか。
 仁美に嫌われたと思ったのは、俺の勘違いだったようだ。いやひょっとすると、他の人から変な勘繰りをされないための言動だったのかもしれない。

 朝食後、少し時間を置いてから、生徒四人と俺と稲島さんと竹川は水着に着替えた。ちなみに俺は今日も海水パンツ(黄)を短パン代わりにして履いている。夜に洗って部屋の椅子にかけておけば一時間程度で乾く。こんなに優れた品物なのに、色のせいで不評なんて、可哀想な俺の海水パンツ(黄)。
 着替えたあと砂浜の物置小屋に向かった。ここでウェットスーツ、軽器材、重器材を装着したあと、そのままビーチからエントリーする。
 腕時計代わりに左腕にしているダイビングコンピュータ(以下、ダイコン)を確認すると、時間はちょうど九時だった。計画通りに進んでいる。
 まず生徒全員にレンタル用のウェットスーツを配った。仁美とアーヤ、磯野の三人は、日本人の平均的な体型だからサイズには困らなかった。問題は熊みたいな体型の新田だった。しかし一番、大きいサイズのウェットスーツがギリギリで入った。彼がCカード取得の際、各ダイビングショップが困らないよう、自前のウェットスーツを買うように説得しておこう。
 次にスキューバタンクにBCDジャケットとレギュレータを設置してもらった。そして俺はレンタル用のタンクを四本、物置小屋から持ってきて、新田と磯野の前にアルミタンクを、仁美とアーヤの前にスチールタンクを置いた。アルミの方が錆びにくくて管理が楽だが、スチールと比べて容量が大きい上、中の空気が少なくなると浮きやすく安定性に欠ける。そこでクマノミダイビングクラブでは、男性にはアルミタンクを、女性にはスチールタンクを使わせている。ちなみに国内で出回っているスキューバタンクは、スチールがほとんどだ。
 残圧計がすでに設置されたレギュレータは、稲島さんが配ってくれた。俺が昨日、仁美に説明した通り、男性には黒、女性にはライトグレーのものが配られている。ところで磯野のあの顔は、どこかの可愛い女の子と間接キスできるかと期待している顔だな。前回のダイビングでそれを使ったのは、還暦間際のおっさんグループだったぜ。
 俺はレギュレータの装着の手本をみんなに見せ、各自その通りにやってもらう。やはりほとんどの人がてこずっていた。何度もダイビングを経験している人でも、少し時間が開くと忘れてしまうものだから仕方ない。車の運転と同じだ。
 陸で留守番の竹川を除いて全員、軽器材をすべて装着した。やはり手袋が破けていることに対して磯野が文句を言ってきたので代わりに軍手を渡したら、渋々だが破れた手袋で承諾した。そしてウェイトも身に付け、重器材を装着し、蟹のように横歩きでビーチに入った。
 ほとんどが初心者だし、いきなり潜行はしない。まずメインレギュレータを口にくわえてうまく呼吸ができるか、そして残圧に問題がないか(開始時に二百bar程度あることが望ましい)を確認する。
 呼吸は問題ないようなので、男性陣、女性陣で分かれて三人一組で浮き輪に捕まり、BCDジャケットの空気を少し抜く。そして浮き輪に繋がったロープをたぐりながら一メートルほど潜った。
 鼻をつまんで耳抜きをし、男性陣二人から、片手で丸を作る(問題ない、の意味)ハンドシグナルを確認してから、再びBCDジャケットの空気を抜いて潜行した。
 姫島の海は、網島とは比べ物にならないくらいキレイだった。鮮やかな青の世界に、大小様々な生き物が泳いでいる。青白い魚群に遭遇したと思いきや、穴だらけの岩の隙間に小さな魚が小刻みに泳いでいるのが見える。イソギンチャクを見つければ、その中から魚が顔を出すこともあるし、地面には砂と同化して隠れている生き物が動いているのが分かる。
 やはり姫島で合宿をして正解だ。珍しい魚なんて水族館に行けばいくらでも見られるが、間近でその生態を観察する感動は、ダイビングでしか味わえないだろう。Cカードは泳げない人でも年配の方でも取得できるので、興味があれば、ぜひ検討してもらいたい。
 生徒もインストラクターも全員、海底にたどり着いた。ダイコンを確認すると、深度はおよそ十メートル。
 俺は生徒たちの前に来てマスクを外してみせ、装着してマスククリア(鼻から息を吐き、マスク内の水を外に出す)をしてみせる。これをやるように促したが、これは全員が問題なくクリアした。
 次にわざとメインレギュレータを外し、管を手繰り寄せて再びレギュレータを口にくわえ、レギュレータクリア(息を吐くかパージボタンを押して、レギュレータ内の水を外に出す)をしてみせた。失敗したらパニックになりそうだが、これも全員が問題なくクリアした。
 その後も残圧計の確認、中性浮力(浮きも沈みもしない状態)の確保、水中の泳ぎ方、などを確認した。残圧計の確認と、それをハンドシグナルで伝えるのは問題ない。中性浮力は危なっかしかったが、無事にCカードを取ったダイバーでも難しいので、あまり気にすることではないだろう。
 問題は水中の泳ぎ方だ。海の世界が感動的なのは分かるが、魚や水中生物に夢中になってそちらに向かってしまう奴らが三人もいる。顔も体も隠れているが、体型と性格的に、仁美以外の生徒全員だろう。そういえばこいつら、体験ダイビングを経験しているんだっけ。いるよな、中途半端に経験や知識があるせいで、自分は初心者じゃないと思って、指導者の指示を聞こうとしないやつ。それにしてもアーヤまで、新田、磯野に影響されてしまうとは。
 そのとき、チャリチャリと金属を叩くような音が聞こえた。稲島さんが指示棒を振ったのだろう。俺は金属の音がした方向に顔を向けた。
 稲島さんは、右手を握ってグーにし、自分の胸元を叩き、メインレギュレータを叩く仕草をした。あれは、呼吸が苦しくて空気を欲しがっている、を意味している。さっき残圧計を確認したときは、特に問題なかったはずだが。一体、何があったんだ? いや考えても仕方がない。彼女を助けることが先だ。
 俺は自分のオクトパスレギュレータ(メインレギュレータとは別。呼吸でトラブルがあった仲間を助ける予備分)を稲島さんの口に持っていった。彼女はそれを口に持っていき、パージボタンを押して右手で丸を作ってみせた。どうやら呼吸は問題なくできるようになったらしい。
 このとき俺のレギュレータを二人で使用しているので、かなり至近距離になる上に、俺のタンクの空気の減りも倍速になる。当然このまま講習を続けるわけにもいかないので、一旦、稲島さんを陸に上げることに決めた。
 俺は水中ノートに、海底でおとなしく待っているよう書いて皆に見せ、稲島さんと一緒に浮上した。俺の残圧が百六十barだった(五十bar残して浮上が望ましいとされる)ので、途中で安全停止(減圧症を防ぐため、深度五メートル付近で三分ほど止まる)もして、そのまま水面まで浮上した。ところで今の状況、彼女とお互い近い距離で無言で向かい合っているので、何だかドキドキしてくる。サクラがここにいなくて良かった。
 水面から顔を出して、稲島さんは俺のオクトパスレギュレータを離し、呼吸をシュノーケルに切り替えた。陸で竹川が、何事かとこちらを見ているし、稲島さんは彼に任せてしまって大丈夫だろう。
 俺は再び潜行を始めた。残圧計は百四十barを指しているし、このまま俺一人で講習を続けても問題ないだろう。奴らが手に負えるかは別として。
 さて、あいつらはどうせ、おとなしく待っていないだろうと思いながら海底を見ると、意外と四人で固まっておとなしく待っていた。さすがにインストラクター不在で自分勝手に動き回るのは危険と判断したか。彼らは固まってというより、身を寄せ合って待っていた。まるでコウテイペンギンの雛だ。
 いや、何か様子がおかしい。一人が身体を丸くした状態で、他の三人が彼の身体をゆすっている。問題の奴は、体型からして磯野だろう。
 そういえば他の三人の口元からは絶えず泡が吹き出ているのに、彼の口元からはそれがない。俺がそれに気付いたとき、彼の口元からメインレギュレータがゆっくり外れた。
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