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09.器材
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午後からの講義でも何かあったかもしれない。しかし、わざわざ嫌なことを思い出させてネガティブな話をすることもないと思い、俺は特に何も聞かなかった。夕飯のためにリビングに集まった連中の様子を見ても、特に何かあったようにも見えなかったし。
「皆、今日の夕飯はカレーだよ。それも普通のカレーじゃなくて、カボチャの入ったスリランカ風カレー。甘くて美味しいよ!」
一から十までクリスが作ったものだろうが、サクラの方が得意気だ。
クリスはキッチンで黙々と、皿にご飯、サラダ、カレーをよそっている。稲島さんはリビングで全員分のグラスに麦茶を注いでいる。残りの男性陣は、皿とコップを全員に配膳した。
夕食は、ソファ側に座った生徒たち四人に先に配った。磯野以外の三人は軽くお礼を言って受け取るのに対し、奴は俺と目も合わせずに皿とスプーンをもぎとって、がっつき始めた。これがサスペンスドラマだったら、真っ先に殺されるタイプだな。
「ところでこの島って、スマホは繋がらないのかしら。全然アンテナが立たないんだけど」
俺も席に着いてカレーをいただこうとしたときに、生徒たちから不満の声が上がった。せっかく友達と一緒に非日常を楽しんでいるのに、スマホがインターネットに繋がらないことが気になるなんて、現代っ子だな。
「WiFiなら繋がるわ。ネットワーク名は『BLACKCAT』よ」
そこは、BLACKDOGにしとけよ。ウィルは人間の会話が分からないのか興味がないのか、クリスが用意したドッグフードに夢中になっている。
姫島には基地局は立っておらず、網島の基地局(静岡県の観光協会が置いてくれた超マイナーキャリアのもの。おそらく誰のスマホも繋がらない)から、このペンションに設置したモバイルWiFiルータが電波を拾うことで、WiFi接続を可能にしている。
「明日は快晴だし、風も波もほとんどないみたいですよ。絶好のダイビング日和ですね」
竹川がスマホをいじりながら嬉しそうに俺に報告した。明日の実技コーチは、俺と稲島さんだ。俺たちに仕事できるアピールをするために調べているのかもしれないが、他の皆もいるのに食事中にスマホをいじるのは、個人的にはどうかと思うぞ。
「このスリランカ風カレー、カレーリーフも入っているのね。本格的ね」
純粋に料理に関して感想を述べてくれるのは、稲島さんだけだった。俺も言った方がいいんだろうが、何だか照れくさくて言えないままだった。
「ええ。昨日、三枝さんが届けてくれたの。本島で就職した娘さんがスリランカを旅行したとき、現地でいろいろと買ってきたらしいわ。でも滅多に料理しないからって、カレーパウダーもココナッツミルクもマンゴーチャツネも、全部、押しつけられたわ」
そういえば三枝さんの奥さん、亡くなってからだいぶ経つんだよな。あそこは俺よりいくつか年上の娘さんが一人いるんだったっけ。何で料理しない父親に、料理の材料なんて買ってきたんだ? 料理男子になってほしかったのか。
「そういえばカエデさん、さっき誠二が途中で呼びに行った形になりましたけど、明日の器材チェックは終わりました?」
「あ、まだ途中だった」
竹川に指摘されて思い出した。そういえば器材チェック、まだ途中どころか、まったくやっていない。タンクを運ぶだけで満足していた。
「まだ途中なら、俺も一緒にやりましょうか」
「いや、俺一人で大丈夫だ。ゆっくりしてくれ」
竹川が申し出てくれたが、さっき俺の代わりに午後の講師もやってくれたし、これ以上は俺の仕事を頼めない。俺は皿に残ったカレーを口に流し込むと、食器をシンクに置いてリビングをあとにした。
砂浜に再びやってきた。とりあえず、BCDジャケット(空気の出し入れによって浮力を調整する)、スキューバタンク、レギュレータ(タンクから圧縮空気を移動させるための管)、残圧計(タンクに残った空気を計測する器械)、ウェットスーツ、ウェイト(浮力体を相殺するためのおもり)、そして軽器材(フィン、ブーツ、手袋、マスク、シュノーケル)、すべての器材に異常がないことを確認した。ただウェットスーツや手袋は、破れている箇所もあるんだよな。この分だとあいつら絶対に文句を言うぞ。
「カエデ。何しているの?」
いつの間にかサクラが来ていて、俺の後ろからひょっこり顔を出した。暗い中でも彼女の着ている白い浴衣が、幻想的な淡い光を放っているように見えた。俺の中でかなり補正されているだけだろうが。
「何って、見れば分かるだろ。器材のチェックだよ」
「この手袋、ここが破けているよ。こんなのを貸したら、皆に文句を言われるんじゃない?」
「まさに同じことを思っていたよ」
考えることは皆、同じだな。
「そういえば今朝、網姫のことを聞いたぞ」
俺は村松さんから聞いた網姫伝説のことを、サクラに話した。彼女は砂浜に腰を下ろし、A子のくだりを聞いても特に何も突っ込みを入れることなく、最初から最後まで真剣な顔で聞いていた。
「それって本当に、網姫が正宗を、海に引きずり込んだのかな?」
「さあな。そもそも、ただの昔話だろ。網姫も正宗もA子も、本当に存在したのかすら怪しいだろ」
「でも彼らが実在していたとしてもさ、網姫が正宗を殺そうとしたっていうのは、違うんじゃないかな」
サクラは、足が砂浜から浮くように脚を伸ばしながら言った。
「だってさ、網姫と正宗は恋人だったんでしょ。自分の彼氏を殺そうとするなんて、私には考えられないよ」
そんな発言をするなんて。俺が知らなかっただけで、サクラにも元彼って存在がいたのだろうか。いやまさか。
「でも正宗は、網姫を殺そうとしたんだぞ。自分を殺そうとする奴に、そのまま殺される奴なんているかよ」
道徳の教科書にあるような、キレイごとだらけの三文小説じゃあるまいし。
「そういう人もいるだろうけどさ。でも網姫は違うと思うんだよね」
サクラは暗い海のずっと遠くを見ながらそう言った。なぜ会ったこともないどころか、存在したかすら分からない網姫をかばうのか分からない。まあ、男女の諍いが起こったとき、基本は同性の味方をするからな。
そんなことを考えたとき、サクラが急に立ち上がって、無言で茂みの裏に隠れた。
「おい、サクラ。どうしたんだ?」
俺も立ち上がってサクラを追いかけようとしたとき「カエデくーん!」と、特徴あるハスキーボイスが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。
「仁美か。どうしてここに?」
昼間と同じ白いワンピースを着た仁美が、俺のもとに駆け寄ってきた。右手には懐中電灯を握りしめている。
「稲島さんが、ここにいるって教えてくれたの」
そりゃ誰かが教えたんだろうが。そうでなくて、なぜわざわざ俺のところに?
そんな俺の疑問はそっちのけで、仁美は白いワンピースが汚れるのも気にしない様子で、俺の隣に腰かけた。俺がさっきまでチェックしていた器材を持ち上げて、興味ありげにマジマジと見つめている。
「これが『レギュレータ』かあ。ちょっと思ったんだけど、レンタルだとこの口を当てる部分、前に使った人と間接キスになっちゃうんじゃん。しかもずっと口を開けているんだから、唾液まみれじゃん」
そうなんだけどさ。改めて言わなくてもいいじゃないか。
「レンタル器材は使ったあと、各自でよく洗ってもらっている。その後、スタッフが消毒しているよ」
「ふうん」
「まあ、それでもあれこれ言ってくる奴もいるから、男性用と女性用で分けるようにしているし」
クマノミダイビングクラブでは、黒が男性用、ライトグレーが女性用、としている。
「何だ。じゃあカエデ君と、間接キスできないんだ」
とんでもないことを言いながら、仁美はケラケラ笑っている。それ仁美だから笑って済ませられるだろうが、磯野が言えば、完全にセクハラだぞ。俺の場合、ギリギリでセクハラにならない、と思いたい。
「ねえ。私やアーヤちゃん、新田くんたちは東京に出てきたけどさ。カエデ君は、網島から出ることは考えていないの?」
磯野の名前を出さない辺り、仁美は奴と、あまり親しいつもりがないことが推測できる。
「んー、特に考えてないなあ」
俺や竹川や大西みたいに、網島から出ていない人の方が珍しいんだよな。でも都会に憧れもないからな。それに網島から出たら、サクラに二度と会えなくなるかもしれない。
「今の会社をクビになって、網島に他に就職先がなかったら、かな」
「そうなんだ」
仁美はちょっとだけ、ガッカリしたような表情を見せた。地元で残っている同級生が東京に行かないのが、そんなに残念なことなのか。
「仁美はそのまま、東京で就職するのか?」
順調にいっていれば、今、大学四年生だ。こんな離島でもインターネットから本島の情報は入ってくるが、昨今の就職事情を考えると、もう内定をもらっていても不思議はないだろう。
「私は一つだけ内定もらったよ。でも網島に戻ろうかなって、ちょっとだけ考えているんだ。四年間、住んでみたけど、私に都会は合わなくて」
「へえ。でも網島だと、就職先が厳しいぞ」
「漁業でも農業でも、お手伝いさせてもらえればいいわ。カエデ君と同じく、クマノミダイビングクラブでお手伝いさせてもらえないかしら」
今回の合宿でCカードを取って実績を積めば、ダイビングのインストラクターも可能だろう。
「うちの会社の給料、めちゃくちゃ安いぞ。東京で就職した会社員の初任給よりずっと安いぞ」
しかも給料が上がる期待もできない。東京で内定をもらえているなら、絶対にそこに就職するべきだ。
「でもいいの。だって網島にいれば、いつでもカエデ君に会えるし」
その瞬間、仁美が俺にもたれかかる形で、身体を寄せてきた。肩からほんのりと、彼女の体温が伝わってくる。
「ねえ、ダイビングのライセンスを取るのに、なんで網島を選んだと思う?」
「え、何でって……」
知り合いだから割引してくれることを期待したから、とか?
「だってさ、伊豆の方がアクセスいいし、海なら沖縄の方がきれいだし」
「悪かったな」
網島は決して、メジャーなダイビングスポットではない。でもマニアックなところで潜りたいって客には、受けがいいんだよ。
「今の私とあのときの私、気持ち、変わっていないよ」
「えっ」
これってつまり……そういうことだよな。仁美が今でも俺のことを、好いてくれているという……。
「ねえ、今の私でもダメかな? 竹川くんに聞いたけど、カエデ君、今まで彼女いたことないんでしょ?」
あいつめ。余計なことを。間違っていないが。
「私だって、彼氏いたことないよ。今まで告白してきた人、全員、断ったもん」
「えっ。そうなのか?」
仁美は高校のときから、何人かに告白されていた。磯野もそのうちの一人だ。本人は認めていないが。都会の大学となると、離島の高校以上に出会いがあるんだろうし、言い寄ってくる男の数も、相当なものだろう。全員、断っているってことは、都会にはよほど微妙な男しかいないのか。
「磯野くんにしつこく言い寄られたときも、友達の友達に過ぎないのに『彼氏面しないで』って、皆の前で拒否したもん」
やっぱり磯野は振られたのか。しかも友達ですらないと宣言されたのか。
改めて俺は悩んだ。俺が好きなのは、昔からずっとサクラのままだ。しかし、このまま永遠に付き合えないなら、いっそ新しい恋人を作ってもいいのではないか。相思相愛でないと付き合えないなら、人類はとっくに全滅している。付き合っていくうちに好きになるなんて、よく聞く話だ。新田も確か失恋した直後、アーヤに告白されて付き合ったって聞いたし。
俺はそのまま、仁美の肩に手を回そうとした。しかしその直前、彼女が俺のもとから離れていった。肩透かしをくらっている俺に、彼女が予想外のことを口にした。
「ねえ。カエデ君は、今でも村松さんのことが好きなの?」
「え?」
俺って仁美にそんな風に見られていたのか。「現代の網姫」とは学校で口を利いたこと、ほとんどなかったんだけど。確かに家はご近所さんではあったけど。
数秒間だけ、お互い無言になってしまった。その空気に耐えられなかったのか、仁美は俺に背中を向けた。
「嘘だよ。カエデ君のことが今でも好きなんて、嘘。今まで付き合った人いないっていうのも、嘘」
「う、嘘?」
何だよ、嘘かよ。びっくりさせるなよ。俺、本気で悩んだじゃん。
「だいたい、私に彼氏ができないわけないでしょ。これでも大学で、結構モテていたんだし」
それは想像つくよ。高校のときからモテていたし。
「それに本当にカエデ君のことがずっと好きなら、四年も連絡しない訳ないし」
確かによく考えれば、すぐに嘘だって分かりそうだ。でも俺みたいに、簡単に騙される男だっているんだぞ。あんまりタチが悪い嘘はつくなよ。
「私、あの日、ずっと神社の鳥居で待っていたんだよ。靴ずれで足が痛くても、トイレに行きたくても、ずっと待っていた。だからその仕返し」
仁美はそう言い残して、微かな足音を立てて俺のもとから去って行った。
俺は一瞬でも期待させないために、待ち合わせに行かなかった。しかしそのやり方は、間違っていたのか。いやそもそも、こういうことに正解なんてない。誰も傷付けない恋愛なんて存在しないのだから。
「カエデってば、モテモテじゃーん!」
一部始終を見ていただろうサクラが、茂みの向こうからひょっこり顔を出した。口元が意地悪そうにゆがんでいる。
「まったくモテモテじゃねえよ。昔のことを恨まれて、俺の純情な心が弄ばれただけじゃないか」
「女心が分かっていないね。あれは、カエデがいつまでもハッキリした返事をしないからだよ。照れ隠し!」
「えっ。そうなのか?」
何だよ。それなら今からでも追いかければ、仁美と付き合えるんじゃないか。でもあの様子だと、嫌われたような気もするけど。
「それとも葉山さんの言う通り、カエデは『現代の網姫』に、今でも夢中だったりするわけ?」
サクラが俺を小突くポーズを取りながら言った。こんな会話をしてくるなんて、俺は本当に彼女に何とも思われていないんだな。
「皆、今日の夕飯はカレーだよ。それも普通のカレーじゃなくて、カボチャの入ったスリランカ風カレー。甘くて美味しいよ!」
一から十までクリスが作ったものだろうが、サクラの方が得意気だ。
クリスはキッチンで黙々と、皿にご飯、サラダ、カレーをよそっている。稲島さんはリビングで全員分のグラスに麦茶を注いでいる。残りの男性陣は、皿とコップを全員に配膳した。
夕食は、ソファ側に座った生徒たち四人に先に配った。磯野以外の三人は軽くお礼を言って受け取るのに対し、奴は俺と目も合わせずに皿とスプーンをもぎとって、がっつき始めた。これがサスペンスドラマだったら、真っ先に殺されるタイプだな。
「ところでこの島って、スマホは繋がらないのかしら。全然アンテナが立たないんだけど」
俺も席に着いてカレーをいただこうとしたときに、生徒たちから不満の声が上がった。せっかく友達と一緒に非日常を楽しんでいるのに、スマホがインターネットに繋がらないことが気になるなんて、現代っ子だな。
「WiFiなら繋がるわ。ネットワーク名は『BLACKCAT』よ」
そこは、BLACKDOGにしとけよ。ウィルは人間の会話が分からないのか興味がないのか、クリスが用意したドッグフードに夢中になっている。
姫島には基地局は立っておらず、網島の基地局(静岡県の観光協会が置いてくれた超マイナーキャリアのもの。おそらく誰のスマホも繋がらない)から、このペンションに設置したモバイルWiFiルータが電波を拾うことで、WiFi接続を可能にしている。
「明日は快晴だし、風も波もほとんどないみたいですよ。絶好のダイビング日和ですね」
竹川がスマホをいじりながら嬉しそうに俺に報告した。明日の実技コーチは、俺と稲島さんだ。俺たちに仕事できるアピールをするために調べているのかもしれないが、他の皆もいるのに食事中にスマホをいじるのは、個人的にはどうかと思うぞ。
「このスリランカ風カレー、カレーリーフも入っているのね。本格的ね」
純粋に料理に関して感想を述べてくれるのは、稲島さんだけだった。俺も言った方がいいんだろうが、何だか照れくさくて言えないままだった。
「ええ。昨日、三枝さんが届けてくれたの。本島で就職した娘さんがスリランカを旅行したとき、現地でいろいろと買ってきたらしいわ。でも滅多に料理しないからって、カレーパウダーもココナッツミルクもマンゴーチャツネも、全部、押しつけられたわ」
そういえば三枝さんの奥さん、亡くなってからだいぶ経つんだよな。あそこは俺よりいくつか年上の娘さんが一人いるんだったっけ。何で料理しない父親に、料理の材料なんて買ってきたんだ? 料理男子になってほしかったのか。
「そういえばカエデさん、さっき誠二が途中で呼びに行った形になりましたけど、明日の器材チェックは終わりました?」
「あ、まだ途中だった」
竹川に指摘されて思い出した。そういえば器材チェック、まだ途中どころか、まったくやっていない。タンクを運ぶだけで満足していた。
「まだ途中なら、俺も一緒にやりましょうか」
「いや、俺一人で大丈夫だ。ゆっくりしてくれ」
竹川が申し出てくれたが、さっき俺の代わりに午後の講師もやってくれたし、これ以上は俺の仕事を頼めない。俺は皿に残ったカレーを口に流し込むと、食器をシンクに置いてリビングをあとにした。
砂浜に再びやってきた。とりあえず、BCDジャケット(空気の出し入れによって浮力を調整する)、スキューバタンク、レギュレータ(タンクから圧縮空気を移動させるための管)、残圧計(タンクに残った空気を計測する器械)、ウェットスーツ、ウェイト(浮力体を相殺するためのおもり)、そして軽器材(フィン、ブーツ、手袋、マスク、シュノーケル)、すべての器材に異常がないことを確認した。ただウェットスーツや手袋は、破れている箇所もあるんだよな。この分だとあいつら絶対に文句を言うぞ。
「カエデ。何しているの?」
いつの間にかサクラが来ていて、俺の後ろからひょっこり顔を出した。暗い中でも彼女の着ている白い浴衣が、幻想的な淡い光を放っているように見えた。俺の中でかなり補正されているだけだろうが。
「何って、見れば分かるだろ。器材のチェックだよ」
「この手袋、ここが破けているよ。こんなのを貸したら、皆に文句を言われるんじゃない?」
「まさに同じことを思っていたよ」
考えることは皆、同じだな。
「そういえば今朝、網姫のことを聞いたぞ」
俺は村松さんから聞いた網姫伝説のことを、サクラに話した。彼女は砂浜に腰を下ろし、A子のくだりを聞いても特に何も突っ込みを入れることなく、最初から最後まで真剣な顔で聞いていた。
「それって本当に、網姫が正宗を、海に引きずり込んだのかな?」
「さあな。そもそも、ただの昔話だろ。網姫も正宗もA子も、本当に存在したのかすら怪しいだろ」
「でも彼らが実在していたとしてもさ、網姫が正宗を殺そうとしたっていうのは、違うんじゃないかな」
サクラは、足が砂浜から浮くように脚を伸ばしながら言った。
「だってさ、網姫と正宗は恋人だったんでしょ。自分の彼氏を殺そうとするなんて、私には考えられないよ」
そんな発言をするなんて。俺が知らなかっただけで、サクラにも元彼って存在がいたのだろうか。いやまさか。
「でも正宗は、網姫を殺そうとしたんだぞ。自分を殺そうとする奴に、そのまま殺される奴なんているかよ」
道徳の教科書にあるような、キレイごとだらけの三文小説じゃあるまいし。
「そういう人もいるだろうけどさ。でも網姫は違うと思うんだよね」
サクラは暗い海のずっと遠くを見ながらそう言った。なぜ会ったこともないどころか、存在したかすら分からない網姫をかばうのか分からない。まあ、男女の諍いが起こったとき、基本は同性の味方をするからな。
そんなことを考えたとき、サクラが急に立ち上がって、無言で茂みの裏に隠れた。
「おい、サクラ。どうしたんだ?」
俺も立ち上がってサクラを追いかけようとしたとき「カエデくーん!」と、特徴あるハスキーボイスが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。
「仁美か。どうしてここに?」
昼間と同じ白いワンピースを着た仁美が、俺のもとに駆け寄ってきた。右手には懐中電灯を握りしめている。
「稲島さんが、ここにいるって教えてくれたの」
そりゃ誰かが教えたんだろうが。そうでなくて、なぜわざわざ俺のところに?
そんな俺の疑問はそっちのけで、仁美は白いワンピースが汚れるのも気にしない様子で、俺の隣に腰かけた。俺がさっきまでチェックしていた器材を持ち上げて、興味ありげにマジマジと見つめている。
「これが『レギュレータ』かあ。ちょっと思ったんだけど、レンタルだとこの口を当てる部分、前に使った人と間接キスになっちゃうんじゃん。しかもずっと口を開けているんだから、唾液まみれじゃん」
そうなんだけどさ。改めて言わなくてもいいじゃないか。
「レンタル器材は使ったあと、各自でよく洗ってもらっている。その後、スタッフが消毒しているよ」
「ふうん」
「まあ、それでもあれこれ言ってくる奴もいるから、男性用と女性用で分けるようにしているし」
クマノミダイビングクラブでは、黒が男性用、ライトグレーが女性用、としている。
「何だ。じゃあカエデ君と、間接キスできないんだ」
とんでもないことを言いながら、仁美はケラケラ笑っている。それ仁美だから笑って済ませられるだろうが、磯野が言えば、完全にセクハラだぞ。俺の場合、ギリギリでセクハラにならない、と思いたい。
「ねえ。私やアーヤちゃん、新田くんたちは東京に出てきたけどさ。カエデ君は、網島から出ることは考えていないの?」
磯野の名前を出さない辺り、仁美は奴と、あまり親しいつもりがないことが推測できる。
「んー、特に考えてないなあ」
俺や竹川や大西みたいに、網島から出ていない人の方が珍しいんだよな。でも都会に憧れもないからな。それに網島から出たら、サクラに二度と会えなくなるかもしれない。
「今の会社をクビになって、網島に他に就職先がなかったら、かな」
「そうなんだ」
仁美はちょっとだけ、ガッカリしたような表情を見せた。地元で残っている同級生が東京に行かないのが、そんなに残念なことなのか。
「仁美はそのまま、東京で就職するのか?」
順調にいっていれば、今、大学四年生だ。こんな離島でもインターネットから本島の情報は入ってくるが、昨今の就職事情を考えると、もう内定をもらっていても不思議はないだろう。
「私は一つだけ内定もらったよ。でも網島に戻ろうかなって、ちょっとだけ考えているんだ。四年間、住んでみたけど、私に都会は合わなくて」
「へえ。でも網島だと、就職先が厳しいぞ」
「漁業でも農業でも、お手伝いさせてもらえればいいわ。カエデ君と同じく、クマノミダイビングクラブでお手伝いさせてもらえないかしら」
今回の合宿でCカードを取って実績を積めば、ダイビングのインストラクターも可能だろう。
「うちの会社の給料、めちゃくちゃ安いぞ。東京で就職した会社員の初任給よりずっと安いぞ」
しかも給料が上がる期待もできない。東京で内定をもらえているなら、絶対にそこに就職するべきだ。
「でもいいの。だって網島にいれば、いつでもカエデ君に会えるし」
その瞬間、仁美が俺にもたれかかる形で、身体を寄せてきた。肩からほんのりと、彼女の体温が伝わってくる。
「ねえ、ダイビングのライセンスを取るのに、なんで網島を選んだと思う?」
「え、何でって……」
知り合いだから割引してくれることを期待したから、とか?
「だってさ、伊豆の方がアクセスいいし、海なら沖縄の方がきれいだし」
「悪かったな」
網島は決して、メジャーなダイビングスポットではない。でもマニアックなところで潜りたいって客には、受けがいいんだよ。
「今の私とあのときの私、気持ち、変わっていないよ」
「えっ」
これってつまり……そういうことだよな。仁美が今でも俺のことを、好いてくれているという……。
「ねえ、今の私でもダメかな? 竹川くんに聞いたけど、カエデ君、今まで彼女いたことないんでしょ?」
あいつめ。余計なことを。間違っていないが。
「私だって、彼氏いたことないよ。今まで告白してきた人、全員、断ったもん」
「えっ。そうなのか?」
仁美は高校のときから、何人かに告白されていた。磯野もそのうちの一人だ。本人は認めていないが。都会の大学となると、離島の高校以上に出会いがあるんだろうし、言い寄ってくる男の数も、相当なものだろう。全員、断っているってことは、都会にはよほど微妙な男しかいないのか。
「磯野くんにしつこく言い寄られたときも、友達の友達に過ぎないのに『彼氏面しないで』って、皆の前で拒否したもん」
やっぱり磯野は振られたのか。しかも友達ですらないと宣言されたのか。
改めて俺は悩んだ。俺が好きなのは、昔からずっとサクラのままだ。しかし、このまま永遠に付き合えないなら、いっそ新しい恋人を作ってもいいのではないか。相思相愛でないと付き合えないなら、人類はとっくに全滅している。付き合っていくうちに好きになるなんて、よく聞く話だ。新田も確か失恋した直後、アーヤに告白されて付き合ったって聞いたし。
俺はそのまま、仁美の肩に手を回そうとした。しかしその直前、彼女が俺のもとから離れていった。肩透かしをくらっている俺に、彼女が予想外のことを口にした。
「ねえ。カエデ君は、今でも村松さんのことが好きなの?」
「え?」
俺って仁美にそんな風に見られていたのか。「現代の網姫」とは学校で口を利いたこと、ほとんどなかったんだけど。確かに家はご近所さんではあったけど。
数秒間だけ、お互い無言になってしまった。その空気に耐えられなかったのか、仁美は俺に背中を向けた。
「嘘だよ。カエデ君のことが今でも好きなんて、嘘。今まで付き合った人いないっていうのも、嘘」
「う、嘘?」
何だよ、嘘かよ。びっくりさせるなよ。俺、本気で悩んだじゃん。
「だいたい、私に彼氏ができないわけないでしょ。これでも大学で、結構モテていたんだし」
それは想像つくよ。高校のときからモテていたし。
「それに本当にカエデ君のことがずっと好きなら、四年も連絡しない訳ないし」
確かによく考えれば、すぐに嘘だって分かりそうだ。でも俺みたいに、簡単に騙される男だっているんだぞ。あんまりタチが悪い嘘はつくなよ。
「私、あの日、ずっと神社の鳥居で待っていたんだよ。靴ずれで足が痛くても、トイレに行きたくても、ずっと待っていた。だからその仕返し」
仁美はそう言い残して、微かな足音を立てて俺のもとから去って行った。
俺は一瞬でも期待させないために、待ち合わせに行かなかった。しかしそのやり方は、間違っていたのか。いやそもそも、こういうことに正解なんてない。誰も傷付けない恋愛なんて存在しないのだから。
「カエデってば、モテモテじゃーん!」
一部始終を見ていただろうサクラが、茂みの向こうからひょっこり顔を出した。口元が意地悪そうにゆがんでいる。
「まったくモテモテじゃねえよ。昔のことを恨まれて、俺の純情な心が弄ばれただけじゃないか」
「女心が分かっていないね。あれは、カエデがいつまでもハッキリした返事をしないからだよ。照れ隠し!」
「えっ。そうなのか?」
何だよ。それなら今からでも追いかければ、仁美と付き合えるんじゃないか。でもあの様子だと、嫌われたような気もするけど。
「それとも葉山さんの言う通り、カエデは『現代の網姫』に、今でも夢中だったりするわけ?」
サクラが俺を小突くポーズを取りながら言った。こんな会話をしてくるなんて、俺は本当に彼女に何とも思われていないんだな。
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