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第3話 低いところ
しおりを挟むその日は、準備室に入った瞬間、違和感があった。
寒いとか、暗いとか、
そういうはっきりしたものじゃない。
「……あれ?」
声が、下からした。
彼女は床に座っていた。
いつもなら実験台の上か、棚の端か、
少し高いところにいるのに。
「どうしたの、そんなとこで」
「んー」
曖昧な返事。
彼女は膝を抱えて、床を見ている。
白いワンピースの裾が、床すれすれで揺れていた。
「立たないの?」
「今は、ここ」
理由は言わなかった。
僕は、いつものパイプ椅子に腰を下ろす。
目線が合わない。
それだけで、準備室の空気が少し変わる。
「何してたの?」
「考えてた」
「珍しい」
「失礼だな」
彼女は、ほんの少しだけ顔を上げた。
「思い出そうとしてた」
言い方は軽いのに、
姿勢はずっと低いままだった。
「何を?」
「……わかんない」
彼女は、また視線を落とす。
「でもね」
床に指先をつけて、
何もないところをなぞる。
「この高さ、覚えてる気がする」
「高さ?」
「うん」
膝を抱えたまま、そう言った。
「立ってると、何も引っかからない」
「でも、こうしてると」
指が止まる。
「引っかかる気がする」
それ以上、言葉は続かなかった。
僕は何も聞かなかった。
名前も、理由も、過去も。
聞かないことが、
今は正しい気がした。
準備室の時計が、低く音を刻む。
外の足音が、遠ざかっていく。
彼女はしばらく、
そのまま動かなかった。
帰る時間になって、僕は立ち上がる。
「じゃ」
それだけ言って、鞄を持つ。
返事はなかった。
扉を開けて、
ふと振り返る。
彼女は、まだ床にいた。
低い位置で、
何かを思い出そうとする姿のまま。
その背中が、
少しだけ人間みたいに見えた。
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