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迷いが晴れる
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「お母様……」
女性かと間違うような美しい声がイェレミアスの口から呟かれた。リィングリーツ宮にある王妃の一室。穏やかな暖色系を基調とした調度品に香りの強いユリの花が生けられているのは彼女の生まれ故郷である自然豊かなロクスハム王国に由来するもの。女騎士ギアンテが選んだ。
親子の語らいとでもいうべきか、椅子に座っている王妃インシュラの膝の上を枕にするようにイェレミアス王子が抱き着いている。その姿はまさしく母に甘える幼子のようだった。
「珍しいですね、イェレミアス」
インシュラは穏やかな表情を浮かべている。
「近頃は『もう子供じゃないんだから』とかいって久しく抱きしめさせてもくれなかったというのに、あなたの方からこんな風に甘えてくるなんて」
親が子を慈しむ表情。だがそれだけではない。彼女は安堵していたのだ。
ずっと彼女には不安があった。先日殺害したヤルノ。あれが本当はイェレミアスの方だったら……などという妄想が時折彼女の中で首をもたげ始めており、後悔と恐怖の味が舌の奥から込み上げてくる。
そうでなくともヤルノ自身を嫌っているわけでもなかった。むしろ母として自分を慕ってくれる、素晴らしい才覚を持つ少年を好ましく思っていたのに。
そして自分と王子のために尽くしてくれた彼を用済みになるなり処分してしまったという罪悪感。
イェレミアスの中に、ヤルノを感じていた。殺したヤルノが彼の中で息づいているような。そしてヤルノがイェレミアスに成り代わってしまったような。
だからこそヤルノなら絶対に自分に対して取らないであろうこの態度に安堵していたのだ。
「僕は、親に愛されていないのでしょうか」
それに水を差したのは外ならぬイェレミアスの言葉であった。「親に愛されていない」というのはどういうことか。自分はこんなにもイェレミアスの事を愛しているというのに。と考えて、王の事を言っているのだと思い当たった。
「陛下の事を言っているのですね……」
先日の不利な条件で王別の儀に放り出されたこと、森の中で刺客を向けられた事。思い当たることはいくつもあるし、その事実を彼に告げたのは他ならぬ王妃自身だ。
「国父たる陛下はあまねく国民の父のような物。自分の子だけではなく、国全体を……いや」
いつものように綺麗事を並べようと思ったが、自分の言葉を遮ってインシュラは首を横に振る。もう賽は振られたのだ。取り繕っても仕方あるまい。
「そうです。それこそがこの国の取り除かねばならない病巣。力のみが支配し、親子の情よりも自分の利益を優先する姿です」
「お母様は、そんなこの国を変えたいと思ってるのですね」
膝の上に体を預けたまま、イェレミアスはインシュラを見上げる。宝石のように輝く純真な瞳。この無垢な瞳が、これからの過酷な戦いを勝ち抜いていけるのか、王妃は不安になる。
「ええ。女子供は政治の道具、正妻と言えども男児を生まなければ出来損ない扱い。そんなものが正常な社会であるはずがありません」
イェレミアスは現在、ガッツォに近づき、国を民のために動かす共和派に属している。力こそが全てであり、鋼の教えと闇を司る森が国を覆い尽くすグリムランドの考え方とは全く違うものであろう。
イェレミアス達は、間違いなくその一歩を踏み出してはいるのだ。
「中央集権というエサをちらつかせて、国の主流派は取り込みつつあります。きっと、上手くいく……」
我が子がここまで考えて行動できるようになったのか、とインシュラは笑みと共に満足感を覚えた。その笑みに、イェレミアスはますます母の歓心を買いたくなる。
「ノーモル公も僕の味方です」
しかしその言葉でインシュラの眉間には皺が寄った」
「野望のためとはいえ、あの男の手を借りねばならないとは」
苦々しくそう言い放った。何か、立場の違い以上に彼に対して因縁のありそうな言い口であった。イェレミアスは真剣なまなざしで母の顔を覗き込んでいる。
「お母様は、あの男に何か恨みが……?」
「あの男はまさしくこの国を力で支配する男の象徴のような者。方便とは言えあのような者の力を借りなければならないとは……それに奴には、個人的な恨みもあるのです」
「個人的な恨み?」
「ええ、私の王宮での立場が弱いことに付け込んで、関係を持とうとしつこく……」
この言葉でイェレミアスはノーモル公がインシュラに横恋慕していたと発言していた事を思い出した。
(やはり肉体関係を持たなくて正解だったな……もし男だと分かれば、正体にも気づかれていたかもしれない)
インシュラに執着していることを知ったためにイェレミアスはノーモル公を体で落とすのをやめていた。化粧をして変装しているとはいえ、男であると知れば『王の部屋の淫魔』と『イェレミアス』が彼の中で繋がった危険性もあった。
「おぞましい……あのような男がこの国の軍務部の首席とは。王となったあかつきには、奴はクビにすべきでしょうね」
「お母様は、あの方のことが嫌いなんですね」
「ごめんなさい。あなたの前で感情を見せてしまうなんて、母親失格ですね」
イェレミアスは立ち上がった。それまで気だるげに、もの悲し気に塞いでいたような表情をしていたが、何やら霧が晴れたような爽やかさを見せている。
「そうか、分かりました」
一方何が分かったのか分からず、インシュラの方は小首をかしげて疑問符を浮かべている。
そんなインシュラに構うことなく、イェレミアスは迷うことなく扉の方に歩き出し、興奮した様子で挨拶すらも忘れて部屋を出て行った。
「そうか……そうだったのか」
何やらウキウキとした様子で、その歩みは力強く感じられる。
「あいつの首を持ってくれば、きっとお母様も僕の事を愛してくれるはずだ」
女性かと間違うような美しい声がイェレミアスの口から呟かれた。リィングリーツ宮にある王妃の一室。穏やかな暖色系を基調とした調度品に香りの強いユリの花が生けられているのは彼女の生まれ故郷である自然豊かなロクスハム王国に由来するもの。女騎士ギアンテが選んだ。
親子の語らいとでもいうべきか、椅子に座っている王妃インシュラの膝の上を枕にするようにイェレミアス王子が抱き着いている。その姿はまさしく母に甘える幼子のようだった。
「珍しいですね、イェレミアス」
インシュラは穏やかな表情を浮かべている。
「近頃は『もう子供じゃないんだから』とかいって久しく抱きしめさせてもくれなかったというのに、あなたの方からこんな風に甘えてくるなんて」
親が子を慈しむ表情。だがそれだけではない。彼女は安堵していたのだ。
ずっと彼女には不安があった。先日殺害したヤルノ。あれが本当はイェレミアスの方だったら……などという妄想が時折彼女の中で首をもたげ始めており、後悔と恐怖の味が舌の奥から込み上げてくる。
そうでなくともヤルノ自身を嫌っているわけでもなかった。むしろ母として自分を慕ってくれる、素晴らしい才覚を持つ少年を好ましく思っていたのに。
そして自分と王子のために尽くしてくれた彼を用済みになるなり処分してしまったという罪悪感。
イェレミアスの中に、ヤルノを感じていた。殺したヤルノが彼の中で息づいているような。そしてヤルノがイェレミアスに成り代わってしまったような。
だからこそヤルノなら絶対に自分に対して取らないであろうこの態度に安堵していたのだ。
「僕は、親に愛されていないのでしょうか」
それに水を差したのは外ならぬイェレミアスの言葉であった。「親に愛されていない」というのはどういうことか。自分はこんなにもイェレミアスの事を愛しているというのに。と考えて、王の事を言っているのだと思い当たった。
「陛下の事を言っているのですね……」
先日の不利な条件で王別の儀に放り出されたこと、森の中で刺客を向けられた事。思い当たることはいくつもあるし、その事実を彼に告げたのは他ならぬ王妃自身だ。
「国父たる陛下はあまねく国民の父のような物。自分の子だけではなく、国全体を……いや」
いつものように綺麗事を並べようと思ったが、自分の言葉を遮ってインシュラは首を横に振る。もう賽は振られたのだ。取り繕っても仕方あるまい。
「そうです。それこそがこの国の取り除かねばならない病巣。力のみが支配し、親子の情よりも自分の利益を優先する姿です」
「お母様は、そんなこの国を変えたいと思ってるのですね」
膝の上に体を預けたまま、イェレミアスはインシュラを見上げる。宝石のように輝く純真な瞳。この無垢な瞳が、これからの過酷な戦いを勝ち抜いていけるのか、王妃は不安になる。
「ええ。女子供は政治の道具、正妻と言えども男児を生まなければ出来損ない扱い。そんなものが正常な社会であるはずがありません」
イェレミアスは現在、ガッツォに近づき、国を民のために動かす共和派に属している。力こそが全てであり、鋼の教えと闇を司る森が国を覆い尽くすグリムランドの考え方とは全く違うものであろう。
イェレミアス達は、間違いなくその一歩を踏み出してはいるのだ。
「中央集権というエサをちらつかせて、国の主流派は取り込みつつあります。きっと、上手くいく……」
我が子がここまで考えて行動できるようになったのか、とインシュラは笑みと共に満足感を覚えた。その笑みに、イェレミアスはますます母の歓心を買いたくなる。
「ノーモル公も僕の味方です」
しかしその言葉でインシュラの眉間には皺が寄った」
「野望のためとはいえ、あの男の手を借りねばならないとは」
苦々しくそう言い放った。何か、立場の違い以上に彼に対して因縁のありそうな言い口であった。イェレミアスは真剣なまなざしで母の顔を覗き込んでいる。
「お母様は、あの男に何か恨みが……?」
「あの男はまさしくこの国を力で支配する男の象徴のような者。方便とは言えあのような者の力を借りなければならないとは……それに奴には、個人的な恨みもあるのです」
「個人的な恨み?」
「ええ、私の王宮での立場が弱いことに付け込んで、関係を持とうとしつこく……」
この言葉でイェレミアスはノーモル公がインシュラに横恋慕していたと発言していた事を思い出した。
(やはり肉体関係を持たなくて正解だったな……もし男だと分かれば、正体にも気づかれていたかもしれない)
インシュラに執着していることを知ったためにイェレミアスはノーモル公を体で落とすのをやめていた。化粧をして変装しているとはいえ、男であると知れば『王の部屋の淫魔』と『イェレミアス』が彼の中で繋がった危険性もあった。
「おぞましい……あのような男がこの国の軍務部の首席とは。王となったあかつきには、奴はクビにすべきでしょうね」
「お母様は、あの方のことが嫌いなんですね」
「ごめんなさい。あなたの前で感情を見せてしまうなんて、母親失格ですね」
イェレミアスは立ち上がった。それまで気だるげに、もの悲し気に塞いでいたような表情をしていたが、何やら霧が晴れたような爽やかさを見せている。
「そうか、分かりました」
一方何が分かったのか分からず、インシュラの方は小首をかしげて疑問符を浮かべている。
そんなインシュラに構うことなく、イェレミアスは迷うことなく扉の方に歩き出し、興奮した様子で挨拶すらも忘れて部屋を出て行った。
「そうか……そうだったのか」
何やらウキウキとした様子で、その歩みは力強く感じられる。
「あいつの首を持ってくれば、きっとお母様も僕の事を愛してくれるはずだ」
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