リィングリーツの獣たちへ

月江堂

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谷底に咲く花

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「キシュクシュ……おお、やはり生きて……」
 
 鬼の目にも涙というところか、ノーモル公の頬に涙が一筋伝った。
 
 しかしどうにも妙というか、違和感がある。その姿を見ても彼女は木窓を開けるでもなく、かといって逃げ出すわけでもなく。ただただ無表情で父親の姿を見つめるだけ。
 
 人違いなどではない。愛する娘の姿を間違うはずがない。なのにこの違和感はいったい何なのか。
 
 ノーモル公はもう一度彼女の名前を呼ぼうとしたが、しかし彼女はふい、と姿を消してしまった。
 
「ま、待ってくれ、キシュクシュ!」
 
 慌てて立ち上がって彼女を追おうとして思わず転んでしまう。歳は取りたくないものである。若い頃は幾度も戦場に顔を出したこともあったというのに、老いは情け容赦ない。強さや美しさはいずれはなくなるもの。だからこそ最後に必要なのは人と人との結びつきなのだ。彼は急いで立ち上がり、娘の後を追おうと小屋の外に出る。
 
 外には山小屋には似合わない華美なドレスを着た少女が逃げていく後ろ姿が見えた。
 
「キシュクシュ、待ってくれ!」
 
 何度も同じ言葉を繰り返しながら彼女の後を追う。あのドレスにも確かに見覚えがある。風に流れる美しい金髪にも。それに確かに先ほど至近距離で彼女の顔を見たのだ。もはや疑いようもない。ヒルシェンがいないのは気がかりではあるが、間違いなくこの小屋に彼女はいたのだ。
 
 今更ながらコルアーレの情報には感謝しかない。とはいうものの、当のコルアーレはいったいどこに行ったのか。もしキシュクシュが外に逃げたら捕まえてくれるはずではなかったのか。やはりあの男はダメだ。
 
 などと考えながらも森の中、一人娘を追い続ける。なかなかに足場の悪い場所ではあるが、キシュクシュは軽快にひょいひょいと障害物を飛び越えて逃げていく。娘にこんな体力があったとは彼も知らなかった。
 
「待て、待ってくれ! 逃げたことを罰するつもりも、縛り付けるつもりもないんだ!」
 
 ここで娘を失いたくない。その必死の思いが彼の目を曇らせたのか。それとも夜の森の中カンテラの光だけで足場の悪い場所を駆け抜けるなどどだい無理な話だったのか。
 
「むああッ!?」
 
 転んだのか、それとも落とし穴か。急激に体が宙に浮き、その直後激しく腹を地面の岩に打付けた。それだけではない。激痛の中彼の体はさらに落ちて行こうとする。必死の思いで闇の中、何かを掴んで自分の体を引き留める。
 
 遥か下の方で、カンテラが音を立てて転がっていく。カンテラの火より弱い三日月の光の中、ようやく彼は自分の置かれている状況に気付いた。
 
「が、崖……!?」
 
 なんと、全く気付かなかったが、どうやら彼は足場の悪いどころではない。いつ落ちてもおかしくない崖沿いに娘を追っていたようなのだ。転んだはずみで足を踏み外し、崖の絶壁から出ている木の根を掴んでようやく命を繋いでいる状態、それが今のノーモル公の姿だ。
 
「だ、誰か! キシュクシュ、助けてくれ!!」
 
 森の中で助けなど来ない。しかしついさきほどまで確かに彼の娘が近くにいたはずなのだ。藁をもつかむ思いで必死に声を張り上げると、藪の陰から少女が姿を現した。
 
「あらお父様、お呼びになりました?」
 
「キシュク……!?」
 
 愛しい娘の名を呼ぼうとして声に詰まった。
 
「だ……誰だ!!」
 
 確かに姿形は似ている。しかし顔も声も違う。公爵はすぐそれに気づいた。
 
「さすが実の父親。すぐに分かりましたねえ」
 
 そう言うとキシュクシュだと思われていた娘はずるりと被っていたカツラを外す。その下から出てきたのはこれまた見事な銀髪の美しい髪。
 
「これでよく分ったでしょう? 自分の子供を愛さない親などいないって。自らの身をもって証明してみせたじゃない?」
 
 そう言うと今度は厚手のタオルを取り出してごしごしと顔を拭き、化粧を落とす。
 
「誰だと……思います?」
 
 タオルで顔を隠したまま、少女は尋ねる。距離にしてほんの一メートルと少し。両手さえ空いていれば手が届くほどの間合い。ノーモル公はあまりにも状況に現実味が無さすぎて声が出せない。しかし、どこかで聞き覚えのある声のような気がする。
 
「ばぁっ! 僕でした!」
 
「イェレミアス!!」
 
 ドレスの少女の正体は、かつらと化粧で変装したイェレミアス王子であった。当然ながらノーモル公は何が何やら分からない状態だ。
 
 王別の儀で始末しようとした恨みか。しかしそれならばなぜその後で手を組もうとしてきたのか。
 
「ウォホールと縁を結んで、用済みになった、ということか……?」
 
「まっ、それもありますけどね。でも僕はあなたの仇だから。殺し合うのは自然な流れでしょう」
 
 やはり言葉の意味が分からない。王別の儀の復讐ならばわかるが、イェレミアスの方がノーモル公にとって『仇』とは、一体どういうことなのか。
 
「まだわかりません? ヒルシェンとキシュクシュを始末したのは、僕ですよ」
 
 直接彼の口から語られても、それでも公には何を言っているのかが分からなかった。駆け落ちしたと思っていたキシュクシュが、殺されたと。
 
「そんな馬鹿な……お前がキシュクシュを、殺す理由がない」
 
「理由なんてありません。殺したかったから殺しただけです。でも安心してください。キシュクシュは最期、女の悦びを知ってから死んだんですから。まあまあ幸せな人生だったんじゃないですかね?」
 
 言葉の意味は分かる。しかし何を言っているのかが全く分からない。全ての事象が、公の中で繋がらない。頭が理解を否定する。
 
「さっき、小屋の……あれは間違いなくキシュクシュだったはず……見間違うはずなどない」
 
「ああ、あれですか」
 
 人差し指を立てて舌を出すと、イェレミアスは何やら後ろでごそごそと何か漁りだした。
 
「間違いないですよ。あれはキシュクシュさん本人です。今見せてあげますからね。感動の親子の御対面という奴ですね」
 
 そして何か、球体のような物を取り出した。
 
「じゃ~ん、キシュクシュさんのご登場でえす!」
 
 目を開けたまま、目の前が真っ暗になるような感覚があった。イェレミアスが取り出したのは、切り取られた、キシュクシュの生首であったのだ。
 
「王宮の氷室で保管してたんですが、さすがに痛んできたんで、死に化粧でごまかすのが大変でしたよお? さ、キシュクシュさん、お父様にご挨拶を。『パパ コンバンワ ダイスキヨ』」
 
 よほど楽しいのか、イェレミアスは嬉々としてキシュクシュの口を開け閉めしながら腹話術をして見せた。
 
「キシュクシュさん、黙っていれば可愛いんで、捨てるのももったいないからずっと保管してたんですよ。たまにムラムラした時にお口でしてもらったり、ね」
 
「なぜ、なぜそんなことを、この悪魔め」

「なぜか……難しいことを言いますね」

 イェレミアスは顎に手を当てて考え込み、少しして答えた。

「公は、積み木遊びをしたことがありますか? 僕はあります。まだ小さい頃、薪の端材で父が作ってくれたんですよ」

 急に何の話をしだすのか、ノーモル公は意図が読めなかった。そんな事より、そろそろ手が限界を迎えそうなのだ。この手を放してしまえば谷底へ真っ逆さま。生きては帰れまい。

「積み木でいろんなものを作るのはとても楽しいですが、やはり苦労して作り上げたものを一瞬にして壊す、これに勝る快感なんてありませんよ」

 闇夜の中、にたりと笑みを浮かべる。人か魔か。

「これに勝る快楽があるとすれば……それは人が積んだ積み木を崩す時くらいでしょうかね。
 ……あなたの積んだ積み木、とても崩し甲斐がありましたよ」

 そう言ってイェレミアスは、片手に持っていたキシュクシュの顔を、自分の顔の横に並べた。
 
「この、外道め!! 人の情の分からぬリィングリーツの獣め!!」
 
 ようやく現実を飲み込めたのか、ノーモル公は涙を流しながら張り裂けんばかりの大声でイェレミアスを罵るが、しかし負け犬の遠吠え。この絶望的な状況は変わらないのだ。イェレミアスはどこに隠していたのか、鉈を振りかぶった。
 
「リィングリーツの獣はあなたの方ですよ。ではさようなら、お義父様」
 
 彼が鉈を振り下ろすと、千切れた指と共にノーモル公は谷底に落下していった。
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