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第1章 今日から君も魔法使い(見習い)
幕間Ⅳ、黒森の王
しおりを挟む暗く。柔らかく。生暖かい。目覚め。
心地よい微睡みの中で、ふと大きなトカゲや、大切な親友を喪う記憶が甦る。しかし、それらは遠い過去のようで、もしかしたら悪い夢だったのかもと、残酷で悲しい空想の物語だったのだと、何故かそう思った。
思い出したらまた悲しくなり、頬を涙が伝った。
指先が頬に触れた時、それが酷くざらついていて、目を開けてみると手が泥塗れになっているのに気が付いて―――カンナは、我に返った。
急に起き上がろうとするが、背中と次いで頭が痛くてまた蹲ってしまう。髪が乱れて周りが見えない。取り敢えず、携帯電話は探す。
携帯電話は制服のポケットにしっかりと入っており、電源も無事だったのでホッとする。
時間は――――15時30分。まだ夜にはなっていなかった。更に安心する。
だが電波は無く、圏外の為助けは呼べそうに無い。
…まあ、この状況なら不思議も無いだろう。何故かこれは納得してしまった。
それよりもここは何処なのだと、カンナは痺れる脚を奮い立たせて立ち上がろうとする。意外と壁が近かったので、体重を支えながら立ち上がれた。
穴の中?上を向くと幾筋もの仄かな陽光が見えた。
溝の底?地面は、直ぐ勾配となり、地表へと繋がっていた。
そして、自分が支えにしているものが、樹の根であると気が付いた時、自身が森の中の樹の根元に倒れていた事を知った。
そしてやっぱりここは何処なのだと、全然見覚えの無い場所では無いかと、頑張って這い上がって来たのに何も分からず仕舞いだったので、少し落胆する。少なくとも、自身が気を失った運動場では無い事は一目瞭然なのだが、果たして自分は無事に学園へ戻れるのか、弓や詩織は無事なのかといったことをぐるぐると考え始める。
そんな最中、背後から聞こえる物音にぎょっとする。
深く荒い息遣い。ぴちゃぴちゃという水音、そして何か重量物が引き摺られる音。
何処か不気味で、グロテスクで、カンナは嗚咽と共に泣き出しそうになる。
―――あのドラゴンだ!あのドラゴンが後ろに居る…!
漏れ出るえづきを泥だらけの手で抑えて、カンナはゆっくりと、背後へと振り返る。
違った。カンナが記憶しているドラゴンでは無かった。いや、ドラゴンではあった。
まず、身体の大きさが違った。記憶のドラゴンの更に数倍以上の体長がある。騎竜隊はまだ動物に例えられたが、カンナの目の前に居るドラゴンは、下手な一般家屋よりも大きい。翼はあるが、その巨躯と比較すると控えめだ。そして青い鱗。
そのドラゴンは、どうやら食事中のようだった。大型の動物の亡骸にそのドラゴンが顎を突っ込むと、ぴちゃぴちゃと水音が聞こえる。
何を食べているのか…?
確認してしまい、カンナはまたえづきを堪える羽目になる。
カンナを連れ去った騎竜隊のドラゴンが、変わり果てた姿で地面に横たわっていた。その下半身は食い荒らされ、肉という肉が既に無く、骨が露出していた。
泣きそうになった。目を瞑ると、目頭が熱くなり涙が溢れそうになる。
―――日本にドラゴンは生息していないって、言ってたじゃん…!
そう、誰もが皆、口を揃えてそう言っていた。しかし、今、目の前に居るドラゴンは、明らかにこの森に居付いている。野生のドラゴン、カンナにはそうとしか見えなかった。
取り敢えず、取り敢えずだ。取り敢えずここに居ては危険なので、離れなければ。
カンナはゆっくりと足を忍ばせ、樹の根元から離れようとする。
―――……ぱき。
乾いた音。
カンナは硬直した。足元に、踏みつけて折れた枝が落ちていた。
ドラゴンの食事をする音が止まる。カンナは気配を殺しながら、樹の陰に隠れる。
背後からゆっくりと、巨体が体勢を変える音が聞こえた。足音がカンナの隠れる大樹に近づき、鼻をひくつかせている。カンナが元隠れていた樹の根元を気にしているようだった。
カンナは息を止めて待った。ドラゴンが確認を終え、諦めて食事に戻ってくれるのを。
それは長い時間のように感じられた。
カンナの目に、暗く果てしない森の中の光景が映る。それが運動場で眺めた黒森の光景と重ね合わされ、今、自分が黒森の胎内に居るのだと確信した。
まさに、血肉に飢えた魔性の森―――
今のカンナに、この魔性の森を生きて出られる望みを持つことなんて出来なかった。だって、昨日今日この世界に来たばかりで、何も知らないのだから…。
…いや、『何も』知らないなんてことは無い。自分が、今日一日で何を見てきたか。今日、玄守学園への入学を迎えるまで、待ち遠しくて何を準備してきたか。
右手で胸元を押さえる。制服越しに伝わる、杖の感触。
―――そう、私には、この世界で生き抜く力がある…!
巨体が、遂に観念したのか足音が遠ざかる。今だ。今しかない。
助けて、お祖母ちゃん。と胸に差さったままの杖に祈る。今、この瞬間にダッシュで樹から離れようと、ドラゴンの位置を確認する為に振り返ると。
ドラゴンが、樹の側でカンナを頭上から見下ろしていた。
「ぃやっ…!」と黄色い声が出そうになるのを左手で抑え付け、カンナは左脇下のホルダーから杖を抜き取る。過呼吸で息が出来なくて気が遠くなりそうになった。が、そこは踏ん張る。
ドラゴンの長い頚が、すーっと頭上からカンナの元まで降りてくる。ドラゴンの巨体が、今にもカンナが依り代とする巨樹を時計回りに囲んでしまいそうになる。
カンナは杖を振るうと、空いた左手で目を覆う。
「『―――光よ…!!』」
それは、初歩の初歩。呪文の教科書を開いて一番初めに載っている魔法。しかし、この状況において、それが真っ先に浮かんだ。
『発光』の光魔法。杖先に光が灯り、暗闇を照らすだけ。
だがどうだろうか。ドラゴンは苦痛の呻き声を上げながら頚を勢いよく揚げると、鎌首をもたげながら後退する。
「…やった!初めて、魔法が成功した!」高揚のままに、カンナは樹の陰から飛び出した。
日中でも暗い森の中に棲まうドラゴンの右視力を、短い間だろうが潰した。暗順応に戻るまで、カンナはドラゴンの右前方へダッシュし振り切るチャンスを得られたのだ。
森の中は樹々の間隔が広く開けているとは言え、地面には根が張り巡らされている。しっかりと足元を見て走らなければ、躓いて転びかねない。ここまで来て諦めないと、カンナは自身が握る杖に誓う。
数百m走った頃。不意に、森が哭いているような気がした。静寂だった森の中で、樹々のざわめきが、大気の感触が、土の息衝きが、緊張感を帯びて行く。
それは当初、自身の疲労から来る『気のせい』だと思い過ごしていた。
しかしカンナが知覚したそれらは、明らかな意思を以て訴えかけてくる。
黒森の王への、畏怖を―――!
―――来る…!
巨竜の咆哮。森の意識が、逃げるカンナを追い越した。運動場での記憶がフラッシュバックされ、感情が暴走し、鳥肌が立つ。
だが、足を止める訳には行かない。生き抜くためには、まず、彼のドラゴンを煙に撒かなければならないのだから。
しかし絶望の応酬はまだ続く。地鳴りだ。カンナの背後へと迫り来る、地鳴り。
カンナの足で稼いだ数百mは、今こうして走っている筈なのに、その巨体が織りなす恐怖の足音に距離を縮められる。
カンナはドラゴンからの距離を測ろうとして、背後を振り返る。そして後悔する。
それをやってはならないと、頭では分かっていた筈だったのに。
案の定、踏んだ木の根に左足を挫く。口から漏れ出た「あ」という声は、果たして観念の意思表示だったのか。激痛と共に下半身から力が抜けて行く。
痛みに叫ぶ事も出来ず、カンナはただ力無く呻くと最寄りの樹木の幹に寄りかかる。汗が滝のように吹き出し、肺に空気を求め横隔膜が飛び跳ねる。
身体はとっくに限界を迎えていた。幹を支えに立っているのがやっとで、もうあのドラゴンから逃げる気力も体力も残っていない。
―――私は、ここで死ぬの…?
カンナは瞼を閉じ、杖を胸元に構え、柄をぐっと握り締める。
そして、祈る。祈るように唱える。
カンナの脳裏に深く焼き付いた、勇ましい少女の背中―――武藤弓の『ジェット・ブラスト』をこの場に再現すべく。
黒森を満たす空気が、カンナの紡ぐ一小節一小節に脈動する。魔法の規模は、単純に言えば動かせる魔力量に比例する。呪文の内容。詠唱の完成度。杖を振るう行使者の魔力への干渉力。それらの要因が、魔法の成功の可否、魔法の規模を決定する。かの武藤弓は運動場の大気を支配できる程に干渉力の凄まじい魔法使いだった。ただ、詠唱の完成度は劣悪だった。
では、神城カンナという魔法使いは―――?
カンナは目を見開き、正面を見据える。
怖ろしき巨竜は、木の根を蹴散らしながら一直線に猛然とカンナの元へと迫り来る。
景色が歪む。目の錯覚か?否、カンナの紡ぐ呪文によって掻き集められた大気が、濃密な空気の壁となり、カンナを包み込むことに起因する光の異常屈折現象。
そう、これは、魔法的事象。
カンナは未だ嘗て無い魔法の感触に胸が躍る。一度だけ見たあの光景を、呪文を、より高度な完成度を以て再現してみせたのだ。
初めてだった。だが、何も不安は無く、『出来ない』なんて事は何も無かった。
詠唱の結びを唱えながら、カンナは杖を掲げる。大詰めだ。狙うは『あの時』と同じ、巨竜の下顎―――
「―――カンナ!!駄目だ!」
どこからともなく聞こえた、聞き覚えのある少年の声。
その声の主を探そうと、一瞬、周囲に注意を逸らしたその瞬間。
「熱っ…!」
掲げた杖が急に熱を帯び、それに驚いたカンナは無意識に杖を手離す。
崩れ出す風魔法。綻び始める大気の奔流。
ただ、ドラゴンが、あと寸刻も経たずにカンナを轢殺せんと、猛然と迫り来る光景だけが目に映る。
不意に、背後から気配を感じた。カンナは予想だにしなかったその人物の登場に、ただただ目を円くする。
「逃げるぞ」
その一言と共にカンナの腹回りに彼の腕が伸びると、抱きかかえられながらカンナはその場を後にした。
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