隣の席の、違う世界のきみへ【第8回ライト文芸大賞奨励賞】

飾らない大トリ

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第1話:箱庭の観測者

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 四月。高校二年生としての新しい学年が始まってまだ浅い。午後の授業終わりを告げるチャイムが、どこか浮ついた春の空気に響いた。解放感から、教室にはすぐに生徒たちのざわめきが広がる。水面に落ちた小石が作る波紋のように、それは静かに、しかし確実に隅々まで浸透していく。

 柳田八雲は、その喧騒の中心から最も遠い席でゆっくりと顔を上げた。窓際の壁に背をもたせたその席は、教室という箱庭の最果てだ。この高校では専門科目ごとの移動授業が多く、ホームルームでの自分の席、つまりクラス内での固定席は、基本的に年度初めに決められたらずっと変わらない。彼にとって、この窓際の隅は一年間保証された聖域のようなものだった。耳にはめたワイヤレスヘッドフォンからは、彼だけがアクセスできる電子音楽の世界が流れ、周囲の音を完璧に遮断している。硬質なビートと、繊細に重なるシンセサイザーの音。それは外界と彼自身との間に透明で強固な壁を作り上げ、彼だけの静謐な領域を守るための、必要不可欠な装置だった。

 八雲はクラスでも際立って寡黙だった。休み時間は大抵ヘッドフォンで耳を塞ぎ、分厚いSF文庫本の世界に没入するか、ノートに何かを緻密に書き込んでいる。今、彼が読みふけっているのは、古今東西の神話をモチーフにした壮大なスペースオペラ『銀砂のアンドロイド』だ。滅びゆく銀河を舞台にした、孤独なアンドロイドの自己発見の旅路。緻密に練り上げられた世界観、科学考証に基づいた未来技術の描写、そして何より、人間とは何か、意識とは何かを問い続ける深遠なテーマに、彼は完全に心を奪われていた。ページをめくる指は、物語の核心――アンドロイドが自身の存在理由を見出すクライマックス――に近づくにつれてわずかに熱を帯び、興奮に微かに震えているようだった。この豊穣な世界は、自分だけのものだ。誰かと共有したいとは、あまり思わない。それでいい、と彼は思っている。

 あるいは、ノートに複雑な図形――思考の回路図のようなものを几帳面に描き込んでいることもある。先ほどの数学の授業でクラス中が苦戦した難問も、彼は少し考えただけであっさりと解法の糸口を見つけ、ノートの隅に暗号めいた数式を書き留めていた。頭の回転は悪くない、むしろ良い方だと自覚している。だが、それをひけらかしたり、誰かに教えたりすることはない。過去に、自分の考えをうまく伝えられず、相手を困惑させたり、時には嘲笑されたりした経験が、彼を臆病にさせていた。コミュニケーションは、彼にとって最も難解なパズルだった。だから、自分の思考は、自分の内なる世界で完結させる。それが彼にとって最も安全で、心地よいやり方だった。

 彼は目立たない。体育は苦手で、運動神経は鈍い方だ。気の利いた冗談でクラスを沸かせることもない。しかし一度興味を持った対象――SFの設定、難解なゲームの攻略法、複雑な数式やプログラムのアルゴリズム――には、驚異的な集中力で深く没頭する。その構造や法則性を解き明かし、自分の中で完全に理解し、体系化することに無上の喜びを感じる。その探求心と、構築された知識の世界には、確かな自信を持っていた。たとえ他人に理解されなくても、この内なる宇宙は豊かで、価値があるものだと信じている。根は善人でありたいと願っているが、人との関わりで傷つくことを恐れるあまり、自ら壁を作り、その内側に引きこもっているのが現状だった。

 そんな八雲の静かで自己完結した世界に、この四月、新しいクラスになってから、予測不能な、しかし無視できない存在が割り込んできた。すぐ隣の席の月山栞。彼女の存在は、八雲の秩序だったモノクロームの世界に迷い込んだ、鮮やかで美しい、そして少しだけ厄介な例外のようだった。

 長く手入れの行き届いた黒髪は、教室の蛍光灯の光を吸い込んでは、絹のような滑らかな艶を放つ。授業中にふと窓の外を見る横顔は、どこか遠い場所――彼が読むSFの世界とは違う、もっと儚く詩的な場所――を見つめているようで、触れたら壊れてしまいそうな繊細さを帯びている。すっと通った鼻筋、意志の強さを感じさせるけれど、普段は固く結ばれていることの多い唇。その姿は、八雲が耽読するSF小説に登場するどんな精巧なアンドロイドや異星の王女よりもずっと複雑で、捉えどころがなく、そして何故か目が離せないほど魅力的だった。

 休み時間、彼女は時折淡いパステルカラーの表紙の単行本を開いている。八雲の読む硬質で理知的なSFとは対照的な、幻想的なファンタジー少女漫画『星詠みのエトランゼ』。八雲は自分の読書に没頭するふりをしながらも、視界の端で、無意識のうちに彼女の様子を目で追ってしまうことがあった。物語の世界に深く入り込んでいるのだろう、白い指が宝物に触れるようにそっとページをめくる。登場人物の悲しい運命に、彼女は痛みを共有するかのようにそっと眉をひそめ、感動的なセリフには、まるで自分のことのように小さく何度も頷いている。読み終えると名残惜しそうに本を胸に抱きしめ、感情の籠もった深いため息をつく。その物語への純粋で深い共感が、八雲の心を微かに、しかし確実に揺さぶった。彼自身の物語への没入の仕方とは違う、もっと感情的で、直接的な繋がり方。それは彼にはないもので、少し眩しく感じられた。

 またある時は、教室の窓際に置かれた誰も気にも留めないような小さな観葉植物――葉の縁が少し枯れかかっていたそれを、彼女が昼休みに、他の生徒たちが賑やかに談笑している中で一人静かに、持ってきたペットボトルの水で潤している姿を見かけたこともあった。その細やかな優しさが、彼女の儚げな外見とは別の、地に足の着いた確かな温かさを感じさせた。それは計算や論理では説明できない種類の、静かな美しさだった。

 彼が栞をより強く、個人的な感情を伴って意識するようになったのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。あれは確か数学の授業中だったか。例の難問とは別の、やはり複雑な計算問題に没頭するあまり、彼はうっかりシャープペンシルを床に落としてしまった。カランと軽い音を立てて転がったペンは、ちょうど彼の足元近くに落ちた。周囲に気づかれまいと素早く拾おうと身を屈めかけた、その時。

「はい、柳田くん」

 静かなけれど凛とした澄んだ声と共に、白い指がペンを拾い上げ、彼の目の前に差し出した。顔を上げると、すぐ隣の席から身を乗り出した栞がいた。彼女はほんの少しだけ困ったような、それでいて優しい、不思議な光を宿した微笑みを浮かべていた。普段のどこか遠くを見ているような近寄りがたい表情とも、物語に没入している時の真剣な表情とも違う、不意に見せた柔らかく温かい表情。

「あ…ありが、とう」

 八雲はどもりながら、かろうじて礼を言うのが精一杯だった。声が上ずるのを抑えられなかった。差し出されたペンを受け取る際に、彼女の指先がほんの一瞬、彼の指に触れた。その想像していたよりも温かく滑らかな感触に、心臓がドクンと大きく不規則に跳ねたのを、彼ははっきりと自覚した。まるで軽い感電をしたかのように、指先から熱がじわりと伝わってくる気がした。栞はすぐに視線を自分のノートに戻したが、八雲はしばらくの間その場で固まったまま、ペンを握りしめていた。

 彼女の微笑みと指先の感触。そして時折垣間見える、物語への深い共感やささやかな優しさ。それらが彼の思考や分析では捉えきれない、もっと直接的で生々しい感覚として、彼の心を捉え始めていた。彼の築き上げた静かで秩序だった壁の内側に、予期せぬ温かい風が吹き込んできたような、甘く、そして少しだけ苦しい混乱。その日以来、彼は栞の姿を以前よりもずっと意識的に目で追うようになってしまった。それはもはや単なる観察対象としてではなくなった。彼の静かな自己完結していた世界は、月山栞という存在によって、確実に、そして抗い難く、その色合いを変え始めていた。

 日が経つにつれ、その思いは八雲の中で無視できないほど大きくなっていった。ただ隣の席から彼女を観察し、ノートの隅に思考の回路図を描くだけでは、何も変わらない。あの「落とし物」の時のように、ほんの一瞬でも彼女と繋がりを持てた時の、あの胸の高鳴りをもう一度感じたい。いやもっと深く、彼女と関わりたい。彼女の笑顔をもっと近くで見たい。彼女と言葉を交わしたい。

 しかしどうすれば? 対人コミュニケーションを苦手とする彼にとって、それはあまりにも高いハードルだった。自分の内面世界――この複雑で、時に自分でも持て余すほどの思考や感情を――他者に見せることへの恐怖。拒絶されることへの不安。彼のノートの別のページにはいつしか、論理的な思考の回路図とは別に、感情の捌け口のような複雑な迷宮が再び現れていた。その迷宮の中には、栞の名前が様々な書体で繰り返し書き込まれるようになっていた。迷宮のある区画は、彼女への想いで埋め尽くされているかのようだ。どうすれば彼女に近づけるのか、どんな言葉をかければ彼女は微笑んでくれるのか。そんな叶わぬ願望が、迷宮の行き止まりの壁に何度も書きつけられては、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされている。告白する場面を想像しては心臓が早鐘を打ち、同時に、拒絶される恐怖に全身が凍りつく。成功のイメージはすぐに掻き消え、ただ不安だけが迷宮の闇のように広がっていく。

 それでも彼の心は、冷静な思考や確率計算とは別の力によって、強く突き動かされていた。栞のふとした瞬間の表情が、声が、仕草が、彼の心を掴んで離さない。このまま何もせずに傍観者でいることへの焦り。現状を変えたいという、抑えきれない衝動。まるで彼の内側でこれまで眠っていた何かが目覚め、彼を駆り立てているかのようだった。論理では説明できない、強い引力。

 リスクは大きい。彼自身の分析によれば、成功確率は限りなく低い。失敗すれば、今のこの隣の席という微妙な距離感すら失ってしまうかもしれない。気まずくなり、彼女は自分を避けるようになるだろう。それは耐え難い。だが行動しなければ、何も始まらない。この胸の内にある名前のつけられない熱い感情を、伝えないまま終わることの方がもっと耐えられないのではないか。後悔という名の、もっと暗く重い闇に囚われることになるのではないか。

 八雲は授業が終わるチャイムが鳴り響く中、固く拳を握りしめた。手のひらにじっとりと汗が滲む。心臓がまるで警鐘のようにドクドクと大きく鳴っている。ヘッドフォンから流れるクールな電子音楽も、今の彼の高ぶる感情を鎮めることはできない。彼は決意した。今日放課後、彼女に伝えようと。たとえそれが無謀な挑戦であり、砕け散る可能性の方が圧倒的に高いとしても。彼のノートに描かれた複雑な迷宮の中に、彼女へと続く細くかろうじて見える一本の線を描き加えようと、彼はペンではなく、自らの行動を選ぼうとしていた。箱庭の観測者だった少年が、初めて自らの意志で未知の世界へと一歩踏み出そうとする、その瞬間だった。
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