ミミズクのいるアトリエ

飾らない大トリ

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琥珀色の瞳

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 あの夏、都会のすべてから逃げ出した私が辿り着いたのは、まるで時間の流れから忘れ去られたような、緑深い田舎町だった。

 玄関のドアノブに手をかけたまま、私は動けずにいた。背後では母が、心配そうな顔で私を見つめている。足元のスーツケースは、たった数週間の滞在に必要なものしか詰めていないはずなのに、ずしりと重い。まるで、今の私の心をそっくり詰め込んでしまったかのようだ。

「美晴、本当に大丈夫? 叔父さん、気難しい人だから…」
「大丈夫だよ」

 自分の声が、驚くほど乾いていた。大丈夫なわけがない。けれど、そう答える以外に、私達親子に残された言葉はもうなかった。

 美大に行きたい、と口にした私を、父は「夢みたいなことを言うな」と一喝した。現実を見ろ、絵で食べていける人間がどれだけいると思っているんだ、と。父の言葉は正論で、ぐうの音も出なかった。そして何より私を追い詰めたのは、他ならぬ自分自身のスランプだった。

 あれほど好きだった絵が、描けない。
 コンクールで思うような結果が出せず、美術予備校の講師に「君の絵には心が感じられない」と突き放されて以来、私の世界は急速に色を失っていった。真っ白なキャンバスは、私の無能さを突きつける巨大な壁となり、握りしめた鉛筆は、ただ指の間に食い込むだけの冷たい異物と化した。

 そんな私を見かねた母が、半ば強引に決めたのが、この「優しい逃げ場所」への一時避難だった。母の兄、つまり私にとっての叔父は、都会から遠く離れた山間の町で、鷹匠たかじょうとして暮らしているという。

「少し、環境を変えてみなさい。あそこなら、誰もあなたの絵に口出ししたりしないから」
 母はそう言って父を説得してくれた。父は最後まで渋い顔だったが、筆を折り、抜け殻のようになった私に、それ以上強くは言えなかったようだ。

 ホームまで見送りに来た母に背を向け、新幹線に乗り込むと、私はすぐに窓際の席に深く体を沈めた。発車のベルが鳴り響き、ゆっくりと滑り出した車窓の景色が、灰色から緑色へと変わっていくのを、ただぼんやりと眺めていた。

 ガタン、ゴトン。規則正しいレールの響き。どこまでも続いていたビル群が途切れ、空が広くなっていく。ローカル線に乗り換える頃には、流れ込んでくる風の匂いが、アスファルトの焦げた匂いから、湿った土と青草の匂いへと変わっていた。

 目的の駅は、駅員さえいない無人駅だった。降り立ったのは私一人。ホームに立つと、じりじりと肌を焼く夏の陽射しと、むせ返るような緑の匂いに包まれる。蝉の声が、シャワーのように空から降り注いでいた。

 約束の時間きっかりに、一台の古びた軽トラックが駅前のロータリーに滑り込んできた。運転席から降りてきたのは、日に焼けた精悍な顔つきの、記憶の片隅にある男性だった。最後に会ったのがいつだったか、もう思い出せないくらい昔のことだ。

「……美晴か」
「はい。叔父さん、ご無沙汰しています」

 叔父、長谷川基さんは、短くそう応えると、私の足元のスーツケースをひょいと持ち上げ、無造作に荷台へ放り込む。会話はそれきり。叔父は無言で助手席のドアを開け、顎で乗るようにと私に示した。

 車内には、使い込まれた革の道具と、乾いた土が混じったような独特の匂いが満ちていた。父の高級セダンに漂う人工的な芳香剤の香りとは全く違う、ざらりとしているのに、不思議と心が落ち着く匂いだった。

 軽トラックは、くねくねと続く山道を登っていく。言葉少ない叔父との沈黙は、けれど不思議と気まずくなかった。都会の喧騒と、両親の心配そうな顔と、自分自身の焦り。そのすべてから解放されたような、静かで穏やかな時間が流れていた。

 どれくらい走っただろうか。やがて車は、木々に囲まれた一軒の古い家の前で、ゆっくりと速度を落とした。

 ここが、私の夏が始まる場所。
 そして、あの不思議な賢者と出会う場所になるのだと、その時の私は、まだ知る由もなかった。

 ───

 叔父さんの家は、想像していたよりもずっと質素で、静謐な空気に満ちていた。磨き込まれて黒光りする床は、歩くたびに優しい音を立てて軋む。通された二階の一室は、簡素なベッドと小さな木の机が置かれただけの、がらんとした部屋だった。でも、窓を開けると、まるで緑色の絵の具を溶かしたような風が、森の匂いを連れて部屋いっぱいに広がった。

「荷物を置いたら、降りてこい」

 叔父さんはそれだけ言うと、とすん、とすんと階段を降りていく。私は言われた通り、スーツケースを部屋の隅に寄せると、すぐに彼の後を追った。

 居間を通り抜け、裏口から外に出ると、母屋から少し離れて大きな仕事小屋が建っていた。叔父さんはその古い木製の扉に手をかけ、ぎぃ、と重い音を立てて開く。

「こいつに、挨拶しておけ。お前がここにいる間、こいつの世話をしてもらう」

 小屋に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
 壁には様々な大きさの革手袋や、鋭い爪を持つ猛禽類のための道具が整然と並べられている。油絵の具とは違う、乾いた土と古木、そして密やかな獣の匂いが混じり合った、濃密な空気。

 そして、その部屋の一番高い場所に、それはいた。

 部屋の薄闇の中、太い止まり木の上に、一羽の大きなフクロウが、まるで彫像のように静かに佇んでいた。

「……わ、」

 声にならなかった。森の夜の闇をそのまま写し取ったような、複雑で美しい羽の模様。ふっくらとした胸の羽毛は、柔らかな新雪のようだ。何よりも私を惹きつけたのは、その瞳だった。

 こちらをじっと見つめる、大きな、大きな瞳。
 それは、光を閉じ込めた琥珀を二つ嵌め込んだかのように深く、静かな色をしていた。瞬きをするたびに、長いまつ毛のような羽がゆっくりと上下する。その瞳に見つめられていると、私のささくれた心も、誰にも言えなかった不安も、すべて見透かされてしまうようで、身動き一つとれなかった。

「ユーラシアワシミミズクだ。名前は、月読ツクヨミっていう」

 叔父さんが、私の隣で低く呟いた。

 ツクヨミ。

 その名前は、目の前の神秘的な生き物に、あまりにもしっくりと馴染んで聞こえた。

「明日から、少しずつ手伝ってもらう。餌やりと、水浴びと、小屋の掃除。できるな?」
「……はい」

 答えるのが精一杯だった。私の視線は、月読と名付けられたワシミミズクに釘付けになったままだ。彼は少しも動じない。まるで、悠久の時からずっとそこにいて、この世界のすべてを静かに見つめてきたかのような、賢者の風格を漂わせていた。

 叔父さんが、そっと革手袋をはめた腕を月読の前に差し出すと、月読は音もなくふわりと止まり木を離れ、その腕に優雅に舞い降りた。その時、わずかに乱れた羽の隙間から、温かい空気がこちらまで届いた気がした。

 おそるおそる、私は一歩だけ前に踏み出す。
 すると、月読は大きな琥珀色の瞳で私を捉えたまま、こてん、と不思議な角度に首を傾げてみせた。その仕草は、まるで「お前が、新しい人間か」と、静かに問いかけているかのようだった。

 私の色褪せた世界に突如として現れた、圧倒的な生命の塊。
 その温かさに触れることができたなら、石のように固まってしまった私の心も、ほんの少しだけ、解きほぐされるかもしれない。

 そんな予感が、不意に胸をよぎった。

 ───

 月読との日々は、静かに、規則正しく過ぎていった。
 朝、私が目を覚ますと、叔父さんはすでにあらかたの仕事を終えている。私は仕事小屋へ向かい、まず月読の小屋を掃除し、新鮮な水を入れ替えることから一日を始めた。

 最初は、その鋭い嘴や鉤爪が怖くて、動きがぎこちなかった私を、叔父さんは何も言わず、ただ黙って見ていた。そして、手本を一度だけ見せると、「あとは、お前がこいつに信頼されるかどうかだ」とだけ言った。

 初めて月読の体に触れたのは、水浴びを手伝った時だった。浅く水を張った盥(たらい)の中で、月読は気持ちよさそうに羽を広げる。水飛沫をあげて羽ばたくその背中に、おそるおそる指先で触れてみた。

 指先に伝わってきたのは、想像していたよりもずっと柔らかく、そして温かい感触だった。濡れた羽毛の下にある、確かな生命の熱。その温もりが、まるで細い糸を伝うように、私の冷え切った心にまでじんわりと届いてくる。

 石のように固まっていた心が、ほんの少し、ほぐれた気がした。

 それから私は、用事もないのに、気づけば仕事小屋の隅に置かれた古い木の椅子に座り、ただ月読を眺めて過ごす時間が多くなった。

 光の加減で、深い森の色から燃えるような黄金色へと変わる琥珀の瞳。眠たそうにゆっくりと繰り返される瞬き。時折、器用に片足で首の後ろを掻く仕草。すべてが、私の目には新鮮な驚きとして映った。

 言葉を交わすわけでも、何かを教えられるわけでもない。けれど、彼の静かな佇まいは、評価や結果ばかりに焦っていた私の心を、不思議なほど穏やかにしてくれた。

 あの日も、私はいつものように椅子に座り、西陽が差し込む中で羽繕いをする月読を眺めていた。陽の光を浴びた彼の羽は、一枚一枚が複雑な色の層をなし、まるで精巧な寄木細工のようにきらきらと輝いている。

 その瞬間、私の胸の奥深くで、ずっと埃をかぶって眠っていた何かが、むくりと体を起こすのを感じた。

(描きたい)

 それは、誰かに見せるためでも、評価されるためでもない。ただ、この美しい瞬間を、この目に映る生命の輝きを、自分の手で紙の上に留めておきたいという、純粋な衝動だった。

 私は、弾かれたように椅子から立ち上がると、自分の部屋へと駆け上がった。そして、部屋の隅に追いやっていたスーツケースを開け、奥底にしまい込んでいたスケッチブックと、一本の鉛筆を握りしめる。それは、持ってきたものの、もう二度と使うことはないだろうと思っていた、私のたった一つの宝物だった。

 仕事小屋に戻ると、月読は先ほどと変わらない姿で、静かに佇んでいる。私は彼の邪魔をしないように、そっと椅子に腰掛け、膝の上でスケッチブックを開いた。

 真っ白な紙面。あれほど私を絶望させたその白さが、今は少しも怖くなかった。

 カリ、カリリ。
 鉛筆が紙の上を滑る、懐かしい音。石のように重かったはずの指が、嘘のように軽く動く。私は夢中だった。月読の瞳の深さ、羽毛の柔らかな質感、止まり木を掴む力強い足。見たもの感じたものすべてを、ただ無心に線で追いかけていった。

 どれくらいの時間が経ったのか、気づけば、スケッチブックの上には、力強い眼差しでこちらを見つめる一羽のワシミミズクが姿を現していた。上手いとか、下手とか、そんなことはどうでもよかった。

 ああ、そうだった。
 絵を描くのって、こんなに楽しかったんだ。

 込み上げてくる熱い想いに、私はそっと目を閉じた。色を失っていた私の世界に、再び確かな輪郭線が引かれた、そんな気がした。
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