ミミズクのいるアトリエ

飾らない大トリ

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飛翔

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 その日の午後は、空気が白んで見えるほどの強い日差しが降り注いでいた。仕事小屋でスケッチに没頭していると、叔父さんが革の手袋を片手に、声をかけてきた。

「美晴、行くぞ」

 多くを語らない叔父さんに連れられて向かったのは、見晴らしの良い丘の上だった。遮るもののない広大な空が、どこまでも青く広がっている。叔父さんは慣れた手つきで月読の足に革紐と小さな発信器を取り付けると、分厚い革手袋をはめた左腕を、すっと前に突き出した。

 次の瞬間、月読がふわりと腕を離れ、音もなく青空へと滑り込んでいった。

 羽音ひとつ、しない。息を呑むほどの静寂。あれほど大きな翼を持ちながら、風を切る音さえしないのだ。まるで、月読自身が静けさを纏って飛んでいるかのように。その姿は一瞬で空気に溶け込み、青いキャンバスに描かれた一つの点となって、遠くの森の梢へと吸い込まれていった。

 しばらく森の闇に溶けていた月読は、やがて梢の先に再び姿を現した。そして、体を全く動かさないまま、首だけをぐりん、とほとんど真後ろに近い角度まで回している。一つの場所から、世界のすべてを見渡そうとするかのように。

 圧倒的な光景だった。私が今まで見ていたのは、なんと狭い世界だったのだろう。美大進学という一本道、父の反対という壁、描けない自分という絶望。一つの視点に固執し、身動きが取れなくなっていた。少し首を回せば、すぐ隣に違う景色が広がっていたかもしれないのに。

 叔父さんが、口笛のような甲高い音を発する小さな笛を吹いた。すると、遠くの森の点でしかなかった月読が、一直線にこちらへ向かって飛んでくる。大空をあれほど自由に舞っていながら、たった一度の合図で、まっすぐに主人の元へ。

 叔父さんの腕に、月読は再び、音もなく舞い降りた。その琥珀色の瞳は少しも揺らがず、誇らしげに空を見上げている。

 丘を下る風が、私の汗ばんだ額を優しく撫でていく。その風に吹かれながら、私は自分の心の裡を、初めて言葉にしたいと思った。

 その夜、夕食の席で、私はぽつりぽつりと話し始めた。丘の上で感じたこと、そして、ずっと言えなかった本当の気持ちを。

「私は…怖かったんだと思います。自分の絵が、誰にも認めてもらえなかったらどうしようって。才能がないって思われるのが、怖かったんです」

 父に反発しながらも、心のどこかでは父の言う通りなのかもしれないと怯えていた、弱い自分。私の告白を、叔父さんは箸を動かしながら、ただ黙って聞いていた。

 一通り話し終えた私に、叔父さんは味噌汁を一口すすると、ぶっきらぼうに言った。
「あいつはな、自分の感覚だけを信じてる。だから、飛ばせる」

 その短い言葉が、私の胸にすとんと落ちてきた。
 自由にさせて、それでも帰る場所だと信じてあげること。縛り付けることだけが関係じゃない。叔父さんと月読の絆が、私と両親との関係までをも、少し違う角度から照らし出してくれた気がした。

「焦るな。お前はまだ、ひよっこにもなっちゃいねえよ」

 ごつごつとした大きな手で、私の頭をくしゃりと一度だけ撫でる。その不器用な慰めが、どんな優しい言葉よりも、私の心を深く潤していった。

 ───

 丘の上の飛翔(フライト)と、あの夜の会話以来、私の描く線から、以前のような迷いが消えていた。ただ、目の前の月読が放つ生命の輝きを、一心に紙の上へと写し取っていく。その行為は、いつしか私にとって、呼吸をするのと同じくらい自然なことになっていた。

 そんなある日、スケッチに没頭する私の前に、叔父さんが一つの古い木の箱を「どん」と置いた。角が擦り切れ、あちこちに色の染みがついた、見るからに年季の入った箱だ。

「開けてみろ」

 顎でしゃくられ、おそるおそる蓋を持ち上げる。その瞬間、ツンと鼻をつく懐かしい匂いが、ふわりと立ち上った。
 乾いた油絵の具と、テレピン油の匂い。
 箱の中には、固まった絵の具のチューブや、穂先のばらばらになった古い筆が、眠りから覚めるのを待つように静かに収められていた。

「昔、少しな」

 叔父さんが、ぼそりと呟く。
 その一言で、すべてを察した。叔父さんも、かつては絵を描いていたのだ。この絵の具箱は、彼の青春そのものだったのかもしれない。鷹匠として、自然と共に生きることを選んだ彼が、心の奥底にしまい込んでいた、かつての夢の欠片。

「これを、私に…?」

「ああ。もう俺は使わん。このまま腐らせるより、お前が使った方が、こいつらも喜ぶ」

 そう言って、叔父さんは少し照れくさそうに微笑んだ。

 言葉の代わりに、ずしりと重い宝物を手渡されたようだった。
 無口な叔父からの、不器用で、けれど何よりも温かいエール。それは、どんな励ましの言葉よりも力強く、私の心に響いた。

 私は、その古い木の箱を、ぎゅっと胸に抱きしめる。箱の表面のざらりとした感触と、染み込んだ油の匂いが、叔父さんの静かな優しさそのもののように感じられた。

 今まで、モノクロの線でしか捉えてこなかった月読の姿。
 この絵の具を使って、色を乗せたい。彼が放つ生命の輝きを、あの琥珀色の瞳の深さを、夜の闇が溶け込んだ羽の美しい模様を、私の色でキャンバスに描き出してみたい。

 叔父さんが譲ってくれた不器用な宝物は、私の心に、新たな創作への炎をはっきりと灯してくれた。
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