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四章
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コン、コン──
廊下に響いたのは、戸惑いのにじむ、弱々しいノックの音だった。
数秒、静寂。
返事はない。
その沈黙に、看護師の眉が微かに動く。
「……御影くん、入りますね」
小さく声をかけながらも、彼女の手はすでにドアノブに添えられていた。
何かが──ほんの僅かな違和感が、彼女の警戒心を揺らしていた。
それは職務上の義務以上に、かつて“患者”に怯え、注射針を取り落とし、震えた自身へのリベンジでもあった。
彼女はまだ若い。
けれどこの数週間、クレイン中佐の背を追うように、必死に仕事を覚えてきた。
目を逸らさずに、冷たく拒絶する患者の前に立ち、何度叱られても、逃げなかった。
その彼女が、今、無反応の病室のドアを開けた。
いつもならノックをすれば、鋭く切り返す声が返ってくる。
「誰だ。呼んだ覚えは無い」
氷のような眼差しとともに、いつもそう返される。
──だが、今日は違った。
静かすぎる部屋の中に、一瞬だけ安堵が走る。
奏は、いつものようにベッドに横たわっている。
毛布は肩までかけられ、眠っている。
一見、静かな“眠り”のように見えた。
けれど彼女はすぐに異変に気がついた。
胸の上下が、あまりに浅く、あまりに早い。
微細な呼吸のリズムが、一定ではなかった。
「……御影くん?」
声をかける。
近づく。
耳元で、もう一度呼びかける。
「御影奏くん、わかりますか?」
まったく反応はなかった。
その瞬間、背筋に冷たい電流が走る。
彼女の動作は、迷いを捨てて一気に加速した。
「W03、患者さんが失神しています。至急、クレイン中佐に連絡を!」
ナースコールを押しながら叫ぶ声は、わずかに震えていた。
でも、もうあの頃のように手は止まらない。
すぐさま手袋を装着し、バイタルを確認するための機器をベッドサイドに引き寄せる。
手は覚束ない。だが確実に動いていた。
体温。異様に高い。
顔は赤く、だがその赤みは“熱”というより“酒”の色だった。
彼女は一瞬、息を呑んだ。
──酒?
点滴がまだ刺さったままだ。
アルコールと点滴の併用は、最悪、循環不全や呼吸抑制を引き起こす。
急性アルコール中毒のリスクもある。
「……なんでこんな匂い……」
彼女が当たりを見回すと度数の高い缶チューハイが空になった状態で置かれていた。そしてガーバーの包み紙。
額に汗を浮かべながら、呼吸の確認を続けていた彼女の背後に、急ぎ足の足音が迫る。
扉がノックもなく開かれる。
「失礼します! 当直です!」
先に入ってきたのは当直の軍医。
その後ろから、熟練の看護師が2人、迅速かつ無言で機器を運び入れてくる。
看護師は缶チューハイとバーガーに気が付き、アイコンタクトを取るとそれをそのまま密閉された袋に入れた。
「患者W03・御影奏さん、意識混濁あり。点滴刺入状態で昏睡。アルコール臭強く、ハンバーなどの無断摂食あり。現時点で嘔吐・痙攣・失禁の所見はなし。呼吸は浅く不規則、酸素飽和度90%」
短く、簡潔に報告をまとめる軍医の声を、彼女はどこか遠くに聞いていた。
奏は、すでにストレッチャーに移され、点滴ごと慎重に身体が固定されていく。
サチュレーションが再度測定され、酸素マスクが装着された。
その光景を、彼女はただ、呆然と見つめていた。
いつもは冷たく、言葉の一つすら許されなかった少年が、今、自分の手の届かないところで昏睡している。
それを見て、何もできなかった自分がいる。
そして──叩き起こされるであろう、ある男の姿が浮かんだ。
夜勤明けでようやく眠りについたばかりの、クレイン中佐。
報告が届いた時、あの男はどんな顔をするだろうか。
考えただけで背筋が凍る
彼女は、静かに唇を噛みしめた。
廊下に響いたのは、戸惑いのにじむ、弱々しいノックの音だった。
数秒、静寂。
返事はない。
その沈黙に、看護師の眉が微かに動く。
「……御影くん、入りますね」
小さく声をかけながらも、彼女の手はすでにドアノブに添えられていた。
何かが──ほんの僅かな違和感が、彼女の警戒心を揺らしていた。
それは職務上の義務以上に、かつて“患者”に怯え、注射針を取り落とし、震えた自身へのリベンジでもあった。
彼女はまだ若い。
けれどこの数週間、クレイン中佐の背を追うように、必死に仕事を覚えてきた。
目を逸らさずに、冷たく拒絶する患者の前に立ち、何度叱られても、逃げなかった。
その彼女が、今、無反応の病室のドアを開けた。
いつもならノックをすれば、鋭く切り返す声が返ってくる。
「誰だ。呼んだ覚えは無い」
氷のような眼差しとともに、いつもそう返される。
──だが、今日は違った。
静かすぎる部屋の中に、一瞬だけ安堵が走る。
奏は、いつものようにベッドに横たわっている。
毛布は肩までかけられ、眠っている。
一見、静かな“眠り”のように見えた。
けれど彼女はすぐに異変に気がついた。
胸の上下が、あまりに浅く、あまりに早い。
微細な呼吸のリズムが、一定ではなかった。
「……御影くん?」
声をかける。
近づく。
耳元で、もう一度呼びかける。
「御影奏くん、わかりますか?」
まったく反応はなかった。
その瞬間、背筋に冷たい電流が走る。
彼女の動作は、迷いを捨てて一気に加速した。
「W03、患者さんが失神しています。至急、クレイン中佐に連絡を!」
ナースコールを押しながら叫ぶ声は、わずかに震えていた。
でも、もうあの頃のように手は止まらない。
すぐさま手袋を装着し、バイタルを確認するための機器をベッドサイドに引き寄せる。
手は覚束ない。だが確実に動いていた。
体温。異様に高い。
顔は赤く、だがその赤みは“熱”というより“酒”の色だった。
彼女は一瞬、息を呑んだ。
──酒?
点滴がまだ刺さったままだ。
アルコールと点滴の併用は、最悪、循環不全や呼吸抑制を引き起こす。
急性アルコール中毒のリスクもある。
「……なんでこんな匂い……」
彼女が当たりを見回すと度数の高い缶チューハイが空になった状態で置かれていた。そしてガーバーの包み紙。
額に汗を浮かべながら、呼吸の確認を続けていた彼女の背後に、急ぎ足の足音が迫る。
扉がノックもなく開かれる。
「失礼します! 当直です!」
先に入ってきたのは当直の軍医。
その後ろから、熟練の看護師が2人、迅速かつ無言で機器を運び入れてくる。
看護師は缶チューハイとバーガーに気が付き、アイコンタクトを取るとそれをそのまま密閉された袋に入れた。
「患者W03・御影奏さん、意識混濁あり。点滴刺入状態で昏睡。アルコール臭強く、ハンバーなどの無断摂食あり。現時点で嘔吐・痙攣・失禁の所見はなし。呼吸は浅く不規則、酸素飽和度90%」
短く、簡潔に報告をまとめる軍医の声を、彼女はどこか遠くに聞いていた。
奏は、すでにストレッチャーに移され、点滴ごと慎重に身体が固定されていく。
サチュレーションが再度測定され、酸素マスクが装着された。
その光景を、彼女はただ、呆然と見つめていた。
いつもは冷たく、言葉の一つすら許されなかった少年が、今、自分の手の届かないところで昏睡している。
それを見て、何もできなかった自分がいる。
そして──叩き起こされるであろう、ある男の姿が浮かんだ。
夜勤明けでようやく眠りについたばかりの、クレイン中佐。
報告が届いた時、あの男はどんな顔をするだろうか。
考えただけで背筋が凍る
彼女は、静かに唇を噛みしめた。
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