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一章
59
しおりを挟む真城は、ゆっくりと煙を吐き出し、その視線を蓮の背に落とした。
薄く笑みを浮かべながら、低く懐かしむような声で言う。
「……そういえば、仁も昔ここで躓いてさ。毎日のように俺の部屋に来て、『真城の叔父貴、ここ教えてください』ってしつこく言ってきたんだよ。……懐かしいな。」
聞けば真城と仁の関係は複雑なようだ。真城は先代の孫である意味生粋の極道家庭で熟成された本物のヤクザである。そして仁達は先代と親子盃を交わし、真城とは兄弟杯を交わして居たが先代が代替わりをする時に仁以外は誘われるがままに親子盃を交わした。
仁はその少し前から本家に寄り付かなくなりあのホストクラブの店長になった。だから直参の組員になる事で上納金の額が上がる事を恐れてそれを断っているのだという。
真城のその声音には、かつての思い出を愛おしむような響きと、今の状況を愉快に思う余裕が入り混じっている。
灰皿にタバコを置き、真城は静かに立ち上がった。
柔らかく沈む畳を踏む音が、妙に蓮の鼓膜に響く。
振り返る間もなく――真城は蓮の背後に膝を下ろす。
正座する蓮のすぐ後ろ、背を預けることも許さないほどの距離。
逞しい腕が、何の躊躇もなく蓮の腰へと回される。
「っ……」
思わず息を呑む蓮を、真城は力強く、しかし一切の乱れもない動作で自分の胸元へ引き寄せた。
背中に感じるのは、硬質な筋肉の弾力と圧倒的な熱。
押し付けられるような体温が、逃げ道を塞ぐように広がっていく。
膝と膝の間に蓮を完全に収め、その身体を包み込む。
拒む隙も、逃れる余地も与えない――なのに、その抱き方にはどこか甘やかすような、所有欲を隠そうともしない優しさが混じっている。
真城は蓮の首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。
湯上がり特有の、石鹸と若い肌の混じる柔らかな香りが肺に満ちていく。
「……風呂上がりの匂い、いいね。」
その囁きは、熱を帯びた吐息と共に蓮の耳元へ落ちる。
ぞくりと背筋に悪寒が走った瞬間――首筋に、鋭い痛みが走った。
「っ――!」
真城の歯が、ためらいもなく蓮の首筋に深く食い込む。
オメガ相手に後ろを取った挙句、首筋を噛むとは何事だ。
唇が肌に押し付けられ、噛み締める感覚がじわりと熱を帯びて伝わる。その気持ちよさに蓮は反抗する気力さえ無くなっていく。
皮膚がわずかに引きちぎられるような感覚とともに、赤黒い痕が刻まれた。
しばらく噛み跡を味わうように口元を離さず、そしてゆっくりと唇が肌から離れた。
残されたのは、赤く腫れ上がり、熱を持つ噛み跡。
真城は目を細め、満足げな笑みを浮かべる。
指先が、その新しい所有の印をなぞるように撫でる。
「……やっぱり、首筋の噛み跡が一番似合うね。」
低く囁かれた言葉は、優しげでありながらも、底の見えない支配欲に満ちていた。
その声を背後から浴びせられるたび、蓮の胸の奥に、どうしようもない高揚と恐怖が同時に広がっていくのだった。
蓮は、首筋にじんわりと残る痛みに顔をしかめながら、ぼそりと吐き捨てるように言った。
「……ぃってぇんだよ。噛むならもっと優しく噛めっての。」
首筋をそっと撫でながら、不満げに睨みつける。
けれど真城は、まるで聞き流すかのように、薄く笑みを浮かべたままだった。
蓮は仕方なく視線を前に戻し、机の上に広げていたテキストのページをめくった。
問題の横に並ぶ記号や数式を指でなぞり、解説の載っているページを探す。どうせ分からないのなら解説をみながら解いた方が確実だ。
ぱらり、ぱらりと紙の音が部屋に響く。
やがて見つけた解説を目で追うが――そこに書かれているのは、淡々とした専門用語と数式ばかりだった。
「……は?」
眉間に皺を寄せ、じっと文字を追う。
だが、何度読んでも意味が頭に入ってこない。
文章はやたらと堅苦しく、例えもなく、ただ形式的に手順が並んでいるだけ。
「……全然わかんねぇ……。」
小さくぼやきながら、蓮はページを行き来させては首を傾げる。
真剣に読めば読むほど、頭の中で数字と記号がぐちゃぐちゃに絡まり、余計に意味不明になっていく感覚だけが残った。
真城が、低く落ち着いた声でぽつりと呟いた。
「……教えてあげよっか?」
その声音は妙に柔らかく、何でもない提案のように響いた。けれど、蓮には分かる。この男がこういう言い方をする時は――絶対に裏がある。
タバコの先が赤く瞬き、細く長い煙がふわりと揺れて天井へ昇っていく。
甘ったるい香りが畳の部屋いっぱいに漂い、どこか現実感を失わせるようだった。
蓮は眉をひそめたまま、テキストに視線を落とす。
数式の羅列が視界を埋め尽くし、ページの後ろの解説を見ても、そこに並ぶ専門用語と堅苦しい文章はまるで呪文のようで頭に入ってこない。
「……いいのか?丁度さっぱり分かんなかったから教えて欲しい」
考えるより先に、口が勝手に動いた。
ようやく難しい問題から解放される、そんな浅はかな期待が脳裏をよぎった。
――その刹那。
ぞわり、と背筋を冷たいものが走る。
この男が“対価なし”で何かをしてくれたことが、今まで一度でもあったか――そんな記憶は、当然ひとつもない。
気づいた瞬間、さーっと血の気が引いていく。
嫌な汗が背中を伝い、心臓が強く、重たく跳ねた。
真城は、膝の間で強張る蓮の体温を確かめるように、ゆっくりと腰へ手を回した。
指先が腰骨をなぞるたび、蓮の背筋にぞくりとした震えが走る。
すぐ耳元で、低く囁く。
「……もう遅いよ。」
吐息が肌に触れるたび、蓮の呼吸が乱れていく。
真城の目は、穏やかな笑みを保ったまま――その奥に冷たく鋭い光を宿していた。
まるで、抵抗する術を失った獲物を前にした捕食者。
この視線だけで、何が起きるか理解できてしまう。
真城は、ゆっくりと着流しの合わせに手を入れた。
布擦れの音がわずかに響き、指先が何か硬質なものを探り当てる。
次の瞬間、真城は細長いプラスチックの包みを引き抜き、蓮の目の前に掲げてみせた。
艶やかな表面が障子越しの光を反射し、嫌でも中身への期待と恐怖を煽る。
「……ほら、見える?」
わざと蓮の視線を誘導するように、その包みをくるりと回す。
「これ、なーんだ」
底には大きく、艶めかしいフォントでローターセットと印字されている。
パリ、と小気味よい音を立ててその封が破られた。
「…っ、ローター」
真城の手は迷いなく、丁寧に、しかしどこか楽しげに中身を取り出していく。
中から現れたのは、俗悪でけばけばしい、夜の店先を連想させる品々だった。
遠隔操作可と大きく書かれた艶消しのローターと、そのリモコン。
そして媚薬入りと、まるで風俗のチラシにありそうな下品なフォントで書かれた、ピンク色の使い捨て個包装ローション。
視界の端で、真城の指先がゆっくりとそれらを並べるたび、蓮の喉がごくりと鳴る。
理性では拒絶しようとしているのに、真城に調教されきった身体は、見た瞬間にぞくりと震え、どうしようもなく期待に反応してしまう。
――嫌なのに、怖いのに、奥底で待ち望んでしまっている。
その事実に、蓮自身が一番戸惑っていた。
「……これ入れてお勉強しよっか。」
真城が吐き出す声は、驚くほど穏やかで優しい。
だが、その瞳に宿るのは猛獣が獲物を品定めするような冷たい光と、底知れぬ支配欲。
彼がゆっくりとリモコンを手に取り、ローターを軽く撫でる仕草さえ、背筋を撫でられるような感覚を伴って、蓮の体を強張らせた。
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