ひとすじの想い

月夜野 すみれ

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第五章

第五章 第六話

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 桐崎と小川は騒々しい店に入っていた。
 水緒が働いている店の客もお喋りはしているがここまでの喧噪けんそうではない。
 こんなうるさい店によく平気で入れるものだ。

「いらっしゃい」
 そう言って女が近付いてきた。
 離れた場所からでもキツい臭いがする。

「あら、こちらは初めて見……」
 女が隣に座ろうとする前に流は椅子から立ち上がって後ろに飛び退いた。
「流、どうした」
 桐崎と小川が目を丸くする。
「臭い」
「え……」
「何か臭うか?」
 桐崎達と女が臭いを嗅ぐように辺りを見回す。

「その女、すごく臭い」
 流がそう言った瞬間、桐崎と小川が愕然とした表情になり、女は目を吊り上げて物凄ものすごい形相になった。
「ここはうるさいし、臭い。俺は帰る」
 流はそう言うと呆気に取られている桐崎達を残して店を出た。

 店を後にして歩き出してから帰り道が分からない事に気付いた。
 記憶を失う前は道を知っていたのだろうが江戸に来る前のことは忘れてしまったのだから道も分からない。
 道も水緒に教わった方がいいようだ。

 散々迷って家に辿り着いたのは大分遅くなってからだった。
 戸を開けると、奥から足音が近付いてきた。

「お帰りなさい」
「え、起きてた待ってのか? 師匠が先に寝てろって言ってただろ」
 待っていると分かっていたらあんな店には行かなかったのに。
「あ、もしかしてお店に寄ってきた?」
「分かるのか? もしかしていつも行ってたのか?」
「そうじゃなくて、白粉おしろいの匂いがするから」
「白粉?」
 流が首を傾げると水緒が化粧と言って顔を白くしたり唇や頬を赤くしたりするために色を塗ることだと教えてくれた。
 やけに白い顔をしていると思ったら、あれは白い粉を塗り付けていたらしい。
 あの白い粉が臭いの元だったようだ。

「あんな臭いもの、よく付けられるな」
 流が顔をしかめると、
「お化粧、好きじゃない?」
 水緒が訊ねた。
「臭くて我慢出来なかったから先に帰ってきた」
「そうなんだ」
 水緒が少し安心したような表情になる。

「じゃあ、何も食べてないの? お腹いてない?」
 化物討伐自体は疲れるようなことではなかったが夜遅いから腹は減っていた。
「食い物があるのか?」
「今、作るから待ってて」
 水緒はそう言って台所へ向かったので流もいていった。

「足りた?」
 流が夜食を食い終わると水緒が訊ねた。
「ああ」
「良かった。疲れたでしょ。私はここを片付けるから先に休んで」
 別に疲れてはいなかったが水緒がそう言うので部屋に戻った。

 翌朝、いつもより遅い時間になってから慌てた様子で水緒がやってきた。

「遅くなってごめんなさい。朝餉が出来ました」
 水緒が謝る。
「寝坊なんて珍しいな」
 桐崎が笑いながらそう言った。

 そうか、夕辺は遅かったから……。

 今までは早く寝ていたが昨日は流の帰りを待っていたから夜更かししたので寝坊したのだ。

 けど……。

 討伐の仕事はずっと前からしていたと聞いている。

 それなのに寝坊が珍しいという事は今までは遅くまで起きていたことはなかったと言う事なのか?

 流が物忘れになったのをまだ自分のせいかもしれないと気にしているのかと思い掛けてから夕辺帰ってきたときのことを思い出した。

 そうか……。

 今までは水緒が起きて待っていると分かっていたから流はすぐに帰っていたのだ。
 だから水緒は夜更かしをすることもなく、寝坊もしなかったのだ。

 しかし桐崎もそれは知っていたはずだ。
 それなのに何故桐崎達は流をあんな店に連れていったのだろうか。
 水緒に嫌がらせをしようとしたわけではなさそうだが。
 人間の考えることは理解に苦しむ。
 流は首を傾げた。

 稽古の後の勉強は水緒ではこれ以上は教えられないというので終わった。
 水緒は水茶屋に行くまでの間、つくろい物をするようになった。
 今までは流に教えるために後回しにしていたらしく大分まってしまったているようだ。
 繕い物をしながらでも話は出来るというので水茶屋に行くまでの時間も続きを聞いた。

 夕方、水緒の水茶屋に行くと、あの鬼の女が水緒に話し掛けているところだった。
 女の方は親しげな態度だが水緒は困ったような表情を浮かべている。

「水緒」
「流ちゃん」
 水緒がホッとした表情を浮かべたのを見て二人の間に割って入ると鬼の方を向いた。

「何をしている」
「何ってお塩を借りに来ただけだよ。あたしの店はそこだから」
 鬼の女は数軒先の店を指した。
 女はかすかに身構えている。
 流の反応を窺っているようだ。

「本当か?」
 水緒の方を向いて訊ねた。
「ホントに忘れちまったんだね」
 その言葉に流は僅かに眉をしかめた。
 出来れば知られたくなかったのだが。
「塩は渡したのか?」
 水緒に聞くと頷いた。
「だったら用は済んだだろ。水緒、仕事中だろ。早く戻れ」
「うん」
 水緒は逃げるように店内に戻っていった。

「お前も働いてるんなら仕事中じゃないのか。なんでこんなところで油を売ってるんだ」
「あたしはこれからさ。仕事前に借りに来ただけだよ」
 女は肩をすくめると、
「あ~、忙しい、忙しい」
 とわざとらしく言いながら踵を返した。
 流が見ていると女は数軒先の店に入っていった。
 店の入口付近にいた客が、
「お団子一つ」
 と注文すると、
「あいよ」
 と答えていた。

 あの店で働いているのは本当らしい。
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