9 / 42
第二章 太一
第一話
しおりを挟む
稽古場からの帰り道。
浅草橋を渡っているとき、神田川を覗き込んでいる赤い華やかな着物を着た娘が気になって足を止めた。
ちょっと身を乗り出し過ぎなんじゃないか?
声をかけるべきか迷っていると、向こうからお花がやって来た。
「あれ、夕ちゃん」
「あ、お花さん。こんにちは」
そう言って頭を下げたとき、娘の身体が欄干を乗り越えた。
娘が水面に落ちる前に、夕輝も荷物を放り出すと欄干から飛び降りた。
「夕ちゃん!」
お花が叫んで欄干から身を乗り出した。
夕輝は泳いで近付くと、娘を後ろから抱きかかえ、顎を上げさせながら立ち泳ぎで辺りを見回した。
娘はもがいていて、気を抜くと水に引き込まれそうになる。
ただでさえ、着物が纏わり付いて泳ぎづらいのだ。
前から近付いていたら道連れにされて溺れていただろう。
水はかなり冷たかった。
どんどん体温を奪われていく。
あまり長く泳いでいるのは無理だ。
川を行き交っていた船が何艘か近づいてきた。
夕輝はそのうちの一番近い一艘に娘の身体を差し出した。
船頭が娘を引き上げる。
続いて夕輝の身体も引っ張り上げられた。
船頭は二人を引き上げると川岸の小さな桟橋に送ってくれた。
桟橋ではお花が夕輝の荷物を持って待っていた。
その後ろに沢山の野次馬がいる。
上を見ると、欄干からも大勢が覗き込んでいた。
「船頭さん、有難うございました」
夕輝が頭を下げると、船頭は頷いて船を出した。
「夕ちゃん、大丈夫かい」
「はい。心配かけてすみません」
「あんたは大丈夫かい?」
お花が娘に声をかけた。
「死なせてください!」
そう言って娘が川に身を乗り出そうとする。
「ちょ、ちょっと!」
夕輝とお花が慌てて娘の身体を押さえる。
「とにかく、着物を乾かさなきゃね。二人ともずぶ濡れだよ。夕ちゃんも髪を何とかしないと」
夕輝ははっとして頭に手をやった。
「あ! 付け鬢!」
その言葉に、娘は夕輝に髷がないのに気付いたようだ。夕輝の頭をじっと見ている。
「お花さん、すみません!」
夕輝は慌てて頭を下げた。
「何とかしてお金を稼いで買って返しますので……」
「何言ってんだい。人助けして無くしたんだよ。甚兵衛さんだって怒りゃしないよ」
「でも……」
「いいからいいから。あたしに任せときな」
「すみません。有難うございます」
夕輝はますます恐縮して再び頭を下げた。
「とにかく、着替えないと……」
「あなた、無宿者なの?」
「え?」
娘の言葉に振り返った。
「いや、違うよ……多分」
「何言ってんだい! 多分じゃないだろ! あんたのうちは峰湯じゃないか! ちゃんとそう言わなきゃお峰さんや平助さんが悲しむよ!」
「すみません」
夕輝は三度頭を下げた。
お花は夕輝の腕を掴んで娘の方を向くと、
「この人は無宿者なんかじゃないよ! うちの人を助けてくれたし、あんたのことも助けた、立派な人だよ!」
と、まくし立てた。
「すみません」
娘は震えながら頭を下げた。
震えているのは寒いからだろう。
唇が青くなっている。
夕輝も寒くて震えていた。
まだこの季節は水が冷たい。
二人が震えてるのに気付いたお花は、
「とにかく早く着物を乾かさなきゃね」
と言った。
「ここからなら峰湯が近いから……」
言いかけた夕輝の言葉を、
「峰湯って、馬喰町の親分さんがやってるところですか?」
娘が遮った。
「そうだけど」
「お上に知られるわけにはいきません。このまま死なせてください!」
「待った待った!」
夕輝は困り切ってお花と目を見合わせた。
「何か困ってるなら話を聞くから、まずは落ち着いて」
「じゃあ、ちょっと歩くけど、うちの長屋に来るといいよ」
「すみません」
夕輝は頭を下げた。
娘は俯いていた。
長屋に着くと、すでに知らせが来ていたらしく、女達が乾いた着物を持って待ち構えていた。
野次馬をしていた誰かが知らせてくれたのだろう。
夕輝と娘は別々の部屋に連れて行かれ、着替えさせられた。
付け鬢もちゃんと用意されていた。
「夕輝は大丈夫か!」
夕輝が付け鬢を付けたとき、外で大きな声がした。
平助さんだ!
あの子はお上に知られたくないと言っていた。
今、平助に会わせるのはまずい。
夕輝は慌てて飛び出した。
外に出ると平助と伍助がいた。
「平助さん、伍助さん」
夕輝は小声で呼びかけた。
「おう、大丈夫だったか」
「はい」
「川に飛び込んだんだって? 泳げたのかい」
「はい」
「すげぇなぁ。剣術は出来るわ、泳げるわ」
伍助が感心したように言った。
「普通は泳げないものなんですか?」
「川並とかなら水練もするけど、普通はな。水辺で育ったんなら別だろうけどな」
川並ってなんだろう。
訊いてみると、深川の木場にいる筏師のことらしい。
「てこたぁ生国は海がある国かね」
海……。
確かに東京は東京湾に面してはいる。
東京都に面している東京湾の浅瀬で泳げるかは疑問だが。
「川かもしれねぇじゃねぇか」
川もあるな。
現代の隅田川や神田川で泳げるのか知らないけど。
「見事だったんだよ! 娘さんが飛び込んだと思ったらすぐにこの子も飛び込んでさ、近くにいた船の船頭より先に助けちゃって」
お花が身振り手振りで興奮したように喋った。
「ほう。で、その娘ってなどこだい」
「あ、平助さん、その娘さんなんですけど、お上には知られたくないって言うんで、とりあえず事情を聞くまでは顔を見せない方がいいんじゃないかと」
「話ならお加代さんが聞いてるよ。こっちこっち」
お花はお加代の部屋の前に連れて行った。
浅草橋を渡っているとき、神田川を覗き込んでいる赤い華やかな着物を着た娘が気になって足を止めた。
ちょっと身を乗り出し過ぎなんじゃないか?
声をかけるべきか迷っていると、向こうからお花がやって来た。
「あれ、夕ちゃん」
「あ、お花さん。こんにちは」
そう言って頭を下げたとき、娘の身体が欄干を乗り越えた。
娘が水面に落ちる前に、夕輝も荷物を放り出すと欄干から飛び降りた。
「夕ちゃん!」
お花が叫んで欄干から身を乗り出した。
夕輝は泳いで近付くと、娘を後ろから抱きかかえ、顎を上げさせながら立ち泳ぎで辺りを見回した。
娘はもがいていて、気を抜くと水に引き込まれそうになる。
ただでさえ、着物が纏わり付いて泳ぎづらいのだ。
前から近付いていたら道連れにされて溺れていただろう。
水はかなり冷たかった。
どんどん体温を奪われていく。
あまり長く泳いでいるのは無理だ。
川を行き交っていた船が何艘か近づいてきた。
夕輝はそのうちの一番近い一艘に娘の身体を差し出した。
船頭が娘を引き上げる。
続いて夕輝の身体も引っ張り上げられた。
船頭は二人を引き上げると川岸の小さな桟橋に送ってくれた。
桟橋ではお花が夕輝の荷物を持って待っていた。
その後ろに沢山の野次馬がいる。
上を見ると、欄干からも大勢が覗き込んでいた。
「船頭さん、有難うございました」
夕輝が頭を下げると、船頭は頷いて船を出した。
「夕ちゃん、大丈夫かい」
「はい。心配かけてすみません」
「あんたは大丈夫かい?」
お花が娘に声をかけた。
「死なせてください!」
そう言って娘が川に身を乗り出そうとする。
「ちょ、ちょっと!」
夕輝とお花が慌てて娘の身体を押さえる。
「とにかく、着物を乾かさなきゃね。二人ともずぶ濡れだよ。夕ちゃんも髪を何とかしないと」
夕輝ははっとして頭に手をやった。
「あ! 付け鬢!」
その言葉に、娘は夕輝に髷がないのに気付いたようだ。夕輝の頭をじっと見ている。
「お花さん、すみません!」
夕輝は慌てて頭を下げた。
「何とかしてお金を稼いで買って返しますので……」
「何言ってんだい。人助けして無くしたんだよ。甚兵衛さんだって怒りゃしないよ」
「でも……」
「いいからいいから。あたしに任せときな」
「すみません。有難うございます」
夕輝はますます恐縮して再び頭を下げた。
「とにかく、着替えないと……」
「あなた、無宿者なの?」
「え?」
娘の言葉に振り返った。
「いや、違うよ……多分」
「何言ってんだい! 多分じゃないだろ! あんたのうちは峰湯じゃないか! ちゃんとそう言わなきゃお峰さんや平助さんが悲しむよ!」
「すみません」
夕輝は三度頭を下げた。
お花は夕輝の腕を掴んで娘の方を向くと、
「この人は無宿者なんかじゃないよ! うちの人を助けてくれたし、あんたのことも助けた、立派な人だよ!」
と、まくし立てた。
「すみません」
娘は震えながら頭を下げた。
震えているのは寒いからだろう。
唇が青くなっている。
夕輝も寒くて震えていた。
まだこの季節は水が冷たい。
二人が震えてるのに気付いたお花は、
「とにかく早く着物を乾かさなきゃね」
と言った。
「ここからなら峰湯が近いから……」
言いかけた夕輝の言葉を、
「峰湯って、馬喰町の親分さんがやってるところですか?」
娘が遮った。
「そうだけど」
「お上に知られるわけにはいきません。このまま死なせてください!」
「待った待った!」
夕輝は困り切ってお花と目を見合わせた。
「何か困ってるなら話を聞くから、まずは落ち着いて」
「じゃあ、ちょっと歩くけど、うちの長屋に来るといいよ」
「すみません」
夕輝は頭を下げた。
娘は俯いていた。
長屋に着くと、すでに知らせが来ていたらしく、女達が乾いた着物を持って待ち構えていた。
野次馬をしていた誰かが知らせてくれたのだろう。
夕輝と娘は別々の部屋に連れて行かれ、着替えさせられた。
付け鬢もちゃんと用意されていた。
「夕輝は大丈夫か!」
夕輝が付け鬢を付けたとき、外で大きな声がした。
平助さんだ!
あの子はお上に知られたくないと言っていた。
今、平助に会わせるのはまずい。
夕輝は慌てて飛び出した。
外に出ると平助と伍助がいた。
「平助さん、伍助さん」
夕輝は小声で呼びかけた。
「おう、大丈夫だったか」
「はい」
「川に飛び込んだんだって? 泳げたのかい」
「はい」
「すげぇなぁ。剣術は出来るわ、泳げるわ」
伍助が感心したように言った。
「普通は泳げないものなんですか?」
「川並とかなら水練もするけど、普通はな。水辺で育ったんなら別だろうけどな」
川並ってなんだろう。
訊いてみると、深川の木場にいる筏師のことらしい。
「てこたぁ生国は海がある国かね」
海……。
確かに東京は東京湾に面してはいる。
東京都に面している東京湾の浅瀬で泳げるかは疑問だが。
「川かもしれねぇじゃねぇか」
川もあるな。
現代の隅田川や神田川で泳げるのか知らないけど。
「見事だったんだよ! 娘さんが飛び込んだと思ったらすぐにこの子も飛び込んでさ、近くにいた船の船頭より先に助けちゃって」
お花が身振り手振りで興奮したように喋った。
「ほう。で、その娘ってなどこだい」
「あ、平助さん、その娘さんなんですけど、お上には知られたくないって言うんで、とりあえず事情を聞くまでは顔を見せない方がいいんじゃないかと」
「話ならお加代さんが聞いてるよ。こっちこっち」
お花はお加代の部屋の前に連れて行った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる