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第二章 太一
第二話
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娘が着替えていることもあってお加代の部屋の腰高障子は閉められていた。
その障子の前に長屋の連中が集まっていた。
八つを過ぎているせいか、女性だけではなく働き盛りの男性も混ざっていた。
棒手振りなどは昼過ぎには仕事が終わる場合もあるのだそうだ。
ちなみに棒手振りというのは、天秤棒につるした磐台という木桶に、売り物を入れて売って歩く職業だそうだ。
売り物は色々あるらしい。
魚や野菜などの生物を扱っている棒手振りは帰りが早いとのことだった。
子供達も大人の真似をして聞き耳を立てているが、お互い突き合ったりしてくすくす笑っている。
女性達の中には井戸端で夕輝や娘の着物を乾かしている者もいた。
大人の女性に混ざって可愛い少女が手伝いをしていた。
可憐な、と言う言葉がぴったりの少女だった。
夕輝の視線に気付いたのか、少女は顔を上げた。
目が合うと少女は恥ずかしそうな表情を浮かべてすぐに俯いてしまった。
夕輝も急いで目を逸らす。
さすがに高校生が小学生くらいの女の子に見とれるのはヤバすぎる。
お花は野次馬をかき分けて障子の前に屈んだ。
平助と伍助がその隣にしゃがみ込む。
自分も一緒に盗み聞きするべきかどうか迷っていると障子が開いた。
「わっ!」
しゃがんでいた平助と伍助が後ろに転がった。
「あ、夕ちゃんだっけ? ちょっと入っとくれ」
お加代と思われる女性に呼ばれ、彼女の後について部屋に入った。
お花も当然のような顔をしてついてきた。
後ろの野次馬達が娘を一目見ようと中を覗き込んだ。
お加代は夕輝とお花が入ると障子を閉めた。
「悪いね、お茶がなくて」
お加代が娘に言った。
相手が長屋の連中だったらそんなことをいちいち断ったりしないが、娘の着ていた着物等でいいところのお嬢さんらしいと判断したのだろう。
お加代は夕輝、娘、お花、そして自分の前に、白湯の入った欠けた湯飲みを置いた。
「あんた、名前は?」
お花が訊ねた。
「里です」
「あたしは花、こっちはお加代さんであんたを助けてくれたのが天満夕輝さん」
娘は頭を下げた。
「で、どうしてあんなことしたんだい?」
娘は答えなかった。
「黙ってちゃ分からないだろ」
「悪いようにはしないからさ、言うだけ言ってみなよ」
お加代とお花が優しい声で慰めるように言った。
長い沈黙の後、「実は」と、ようやく話し始めた。
「昨年、お裁縫を習いに行った帰りに柄の悪い人達に絡まれて……」
お里はお供の女中お米と二人で歩いていた。
お里とお米がならず者達に、あわや木の陰に連れ込まれそうになった、というときに、その男が現れて助けてくれた。
「ありがちな話だな」
夕輝が思わず呟くと、お里はわっと泣き出した。
お加代とお花が慌てて娘を慰めた。
「あ、ごめん。その……」
言いかけた夕輝を、お花が黙っていろ、と目顔で言った。
夕輝は口をつぐんだ。
お花とお加代が優しく話しかけてようやく泣き止んだお里が再び話し始めた。
その男は役者だと言っても通るようないい男で吉次と名乗った。
お里は礼をしたいからと言って強引に吉次と会う約束を取り付けた。
お米には止められたがお里は聞かなかった。
お米は、お里と吉次が合うのを家の者には黙っていた。
こんな目に遭ったと知られたら主人に叱られるかもしれないと思ったのだ。
まして、吉次と二人で会うのを許したことを知られたら暇を出されてしまうかもしれない。
だから言えなかったのだ。
吉次は最初、自分は堅気の人間ではないから関わらない方がいい、と言ったがそれでも次に会う約束をするとちゃんとやってきた。
あるとき、吉次は自分の身の上を、「両親に早くに死なれて、幼い頃から奉公に出ていたけれど、あまりにもきつい仕事でとうとう十五の時に店を飛び出し、その後はいろんな事をした」と言った。
だから自分のようなものには関わらない方がいい、と言う吉次に対して、お里はそれでもかまわない、と答えた。
すると、
「起請文を貰えたら、それを支えに堅気の仕事を頑張れるかもしれねぇ」
と言った。
吉次にのぼせ上がっていたお里は一も二もなく承諾し、起請文を書いた。
「それが手だったんです」
お里は袖で目頭を押さえた。
一月前、お里に縁談が持ち上がった。
起請文を書いたと言っても、そこらの庶民と違ってお里はそこそこ大きな見世の娘である。
もとより吉次と一緒になろうなんて気はなかった。
吉次も分かってるものだと思い込んでいたが、縁談のことを聞きつけると起請文を手にやってきて金を要求した。
十両という金を要求されたが、それで手を切れるなら、と親に内緒で着物や簪等をお米にこっそり売りに行ってもらい、何とか工面して渡した。
ところが、それからしばらくするとまた十両要求してきた。
もう親に知られずに売れるようなものは残ってない。
困っていると、お米が親や親戚から借り回ってお金を作ってくれた。
お米としても主人に黙っていたことを知られると困るのだ。
だが、吉次は更に要求してきて、これ以上は無理だと言うと、縁談相手にその起請文を見せると言って脅してきたのだ。
親に話して五百両用意しろ、そうすればこの起請文は返してやる、と言ってきたがそんなことを親に言えるわけがない。
思い余って思わず川に飛び込んでしまったというのだ。
お里の話を聞くとお花とお加代は黙り込んだ。
五百両が現代でいくらになるのかは分からなかったが、それでも相当な額だと言うことは想像が付いた。
貧乏長屋のお花やお加代にとって五百両なんて別世界の話だ。
当然、長屋中の金を集めても五百両どころか一両になるかさえ怪しい。
「それはやっぱり親分さんに話した方が……」
「駄目です!」
お里は激しく首を振った。
「親に知られてしまいます! それだけは困るんです!」
「そうは言っても、五百両なんて用意できないだろ」
「ねぇ」
お加代が夕輝に同意を求めてきた。
それまで黙って聞いていた夕輝がおもむろに口を開いた。
「起請文ってなんですか?」
起請文とは、熊野神社の牛王宝印という、烏の絵が刷られた紙に「誰某様に惚れています」と書き、刷られている烏の目を塗りつぶしたものだそうである。
「それってそんなに大事なものなんですか?」
「大事って言うか……普通は遊女との遊びでやりとりするものだからねぇ」
「親に知られると困るんですか?」
「裏店に住んでるような連中ならともかく、お里ちゃんはいいとこのお嬢さんだろ。それが堅気でもない男に起請文を贈ったとなると、ねぇ」
「縁談も破談になるかもしれないね」
お花はそう言ってお加代と顔を見合わせると頷きあった。
その障子の前に長屋の連中が集まっていた。
八つを過ぎているせいか、女性だけではなく働き盛りの男性も混ざっていた。
棒手振りなどは昼過ぎには仕事が終わる場合もあるのだそうだ。
ちなみに棒手振りというのは、天秤棒につるした磐台という木桶に、売り物を入れて売って歩く職業だそうだ。
売り物は色々あるらしい。
魚や野菜などの生物を扱っている棒手振りは帰りが早いとのことだった。
子供達も大人の真似をして聞き耳を立てているが、お互い突き合ったりしてくすくす笑っている。
女性達の中には井戸端で夕輝や娘の着物を乾かしている者もいた。
大人の女性に混ざって可愛い少女が手伝いをしていた。
可憐な、と言う言葉がぴったりの少女だった。
夕輝の視線に気付いたのか、少女は顔を上げた。
目が合うと少女は恥ずかしそうな表情を浮かべてすぐに俯いてしまった。
夕輝も急いで目を逸らす。
さすがに高校生が小学生くらいの女の子に見とれるのはヤバすぎる。
お花は野次馬をかき分けて障子の前に屈んだ。
平助と伍助がその隣にしゃがみ込む。
自分も一緒に盗み聞きするべきかどうか迷っていると障子が開いた。
「わっ!」
しゃがんでいた平助と伍助が後ろに転がった。
「あ、夕ちゃんだっけ? ちょっと入っとくれ」
お加代と思われる女性に呼ばれ、彼女の後について部屋に入った。
お花も当然のような顔をしてついてきた。
後ろの野次馬達が娘を一目見ようと中を覗き込んだ。
お加代は夕輝とお花が入ると障子を閉めた。
「悪いね、お茶がなくて」
お加代が娘に言った。
相手が長屋の連中だったらそんなことをいちいち断ったりしないが、娘の着ていた着物等でいいところのお嬢さんらしいと判断したのだろう。
お加代は夕輝、娘、お花、そして自分の前に、白湯の入った欠けた湯飲みを置いた。
「あんた、名前は?」
お花が訊ねた。
「里です」
「あたしは花、こっちはお加代さんであんたを助けてくれたのが天満夕輝さん」
娘は頭を下げた。
「で、どうしてあんなことしたんだい?」
娘は答えなかった。
「黙ってちゃ分からないだろ」
「悪いようにはしないからさ、言うだけ言ってみなよ」
お加代とお花が優しい声で慰めるように言った。
長い沈黙の後、「実は」と、ようやく話し始めた。
「昨年、お裁縫を習いに行った帰りに柄の悪い人達に絡まれて……」
お里はお供の女中お米と二人で歩いていた。
お里とお米がならず者達に、あわや木の陰に連れ込まれそうになった、というときに、その男が現れて助けてくれた。
「ありがちな話だな」
夕輝が思わず呟くと、お里はわっと泣き出した。
お加代とお花が慌てて娘を慰めた。
「あ、ごめん。その……」
言いかけた夕輝を、お花が黙っていろ、と目顔で言った。
夕輝は口をつぐんだ。
お花とお加代が優しく話しかけてようやく泣き止んだお里が再び話し始めた。
その男は役者だと言っても通るようないい男で吉次と名乗った。
お里は礼をしたいからと言って強引に吉次と会う約束を取り付けた。
お米には止められたがお里は聞かなかった。
お米は、お里と吉次が合うのを家の者には黙っていた。
こんな目に遭ったと知られたら主人に叱られるかもしれないと思ったのだ。
まして、吉次と二人で会うのを許したことを知られたら暇を出されてしまうかもしれない。
だから言えなかったのだ。
吉次は最初、自分は堅気の人間ではないから関わらない方がいい、と言ったがそれでも次に会う約束をするとちゃんとやってきた。
あるとき、吉次は自分の身の上を、「両親に早くに死なれて、幼い頃から奉公に出ていたけれど、あまりにもきつい仕事でとうとう十五の時に店を飛び出し、その後はいろんな事をした」と言った。
だから自分のようなものには関わらない方がいい、と言う吉次に対して、お里はそれでもかまわない、と答えた。
すると、
「起請文を貰えたら、それを支えに堅気の仕事を頑張れるかもしれねぇ」
と言った。
吉次にのぼせ上がっていたお里は一も二もなく承諾し、起請文を書いた。
「それが手だったんです」
お里は袖で目頭を押さえた。
一月前、お里に縁談が持ち上がった。
起請文を書いたと言っても、そこらの庶民と違ってお里はそこそこ大きな見世の娘である。
もとより吉次と一緒になろうなんて気はなかった。
吉次も分かってるものだと思い込んでいたが、縁談のことを聞きつけると起請文を手にやってきて金を要求した。
十両という金を要求されたが、それで手を切れるなら、と親に内緒で着物や簪等をお米にこっそり売りに行ってもらい、何とか工面して渡した。
ところが、それからしばらくするとまた十両要求してきた。
もう親に知られずに売れるようなものは残ってない。
困っていると、お米が親や親戚から借り回ってお金を作ってくれた。
お米としても主人に黙っていたことを知られると困るのだ。
だが、吉次は更に要求してきて、これ以上は無理だと言うと、縁談相手にその起請文を見せると言って脅してきたのだ。
親に話して五百両用意しろ、そうすればこの起請文は返してやる、と言ってきたがそんなことを親に言えるわけがない。
思い余って思わず川に飛び込んでしまったというのだ。
お里の話を聞くとお花とお加代は黙り込んだ。
五百両が現代でいくらになるのかは分からなかったが、それでも相当な額だと言うことは想像が付いた。
貧乏長屋のお花やお加代にとって五百両なんて別世界の話だ。
当然、長屋中の金を集めても五百両どころか一両になるかさえ怪しい。
「それはやっぱり親分さんに話した方が……」
「駄目です!」
お里は激しく首を振った。
「親に知られてしまいます! それだけは困るんです!」
「そうは言っても、五百両なんて用意できないだろ」
「ねぇ」
お加代が夕輝に同意を求めてきた。
それまで黙って聞いていた夕輝がおもむろに口を開いた。
「起請文ってなんですか?」
起請文とは、熊野神社の牛王宝印という、烏の絵が刷られた紙に「誰某様に惚れています」と書き、刷られている烏の目を塗りつぶしたものだそうである。
「それってそんなに大事なものなんですか?」
「大事って言うか……普通は遊女との遊びでやりとりするものだからねぇ」
「親に知られると困るんですか?」
「裏店に住んでるような連中ならともかく、お里ちゃんはいいとこのお嬢さんだろ。それが堅気でもない男に起請文を贈ったとなると、ねぇ」
「縁談も破談になるかもしれないね」
お花はそう言ってお加代と顔を見合わせると頷きあった。
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