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第一章 天満夕輝
第七話
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「あの、俺も何か手伝います」
「そうかい、それじゃあ、小助に聞いてみとくれ」
お峰の了解を取ると、夕輝は湯屋の裏に回った。
仙吉が薪を割り、小助が湯を沸かしている。
由吉は薪の調達に行っていた。
番頭の亥之助は番台にいるらしい。
「小助さん、俺も手伝います」
夕輝はそう言うと、薪を小助のところへ運んでくるようにと指示してくれた。
抱えられるだけの薪を抱えて小助の元へ持っていく。
袖や裾が邪魔だな、と思って仙吉達をよく見ると、上半身は腕まくりをし、下は裾をまくり上げて帯に挟んでいる。
足はもちろん、褌まで見える。
夕輝は迷った。
仙吉達と同じ格好をするべきか。
しかし、足どころか褌まで見えるような格好をする勇気はなかった。
夕輝が迷っていると、
「夕ちゃん、どうしたんだい?」
お峰がやってきた。
「あ、あの、俺もあの格好した方がいいんでしょうか?」
夕輝はちらっと仙吉に目を走らせた。
「尻っぱしょりしたくないのかい?」
「その……足を見せるって言うのに慣れてなくて……」
正確には足ではなくて褌を見せたくなかったのだ。
現代でも腰パンなんてしたことなかったし。
「そうだねぇ。お侍さんなら確かに尻っぱしょりはしないねぇ」
お峰は考え込むように言った。
「そうだ、いいものがあるからこっちおいで」
そう言って家の中に入っていくお峰の後をついていった。
お峰が出してきたのはスラックスのようなものだった。
股引というのだそうだ。
腰と足首の所を紐で結ぶようになっている。
「これを履けば尻っぱしょりしても恥ずかしくないだろ」
「はい」
夕輝は着物の下に股引を穿くと、着物を尻っぱしょりした。
「上はこれを使うといいよ」
と言って峰湯の半纏と襷を貸してくれた。
「有難うございます」
夕輝は襷掛けをすると薪運びを始めた。
薪運びは思いの外きつかった。何往復かすると息が切れてきた。
身体中汗だくだ。
この程度でへばるとは思わなかった。
剣道も習ってるし、運動はそこそこやっているつもりだったが、まだまだ足りないようだ。
へたっていると、仙吉が湯屋の二階で客の相手をしてくれないか、と言ってきた。
夕輝のことを気遣ってくれたらしい。
有難くその言葉に甘えて湯屋の二階に上がった。
二階では湯から上がった男達が将棋や囲碁などをしていた。
その片隅に、若い男達が集まっていた。
覗いてみると三十代くらいの男が本を開いていた。
「なぁ、これが読めるかい」
男が本を周りの男達に回した。
夕輝のところに回ってきた本を手に取った。
表紙に「論語」と書いてあった。
子曰、弟子入則孝、出則悌。
謹而信、汎愛衆而親仁。
行有余力、則以学文
(学而篇六)
「子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌たれ。謹みて信、汎く衆を愛して仁に親づけ。行いて余力有らば、則ち以て文を学べ」
「お、じゃあ、意味は分かるかい」
「えっと……親孝行をして、目上の人に従い、言動を慎み、言行を一致させて、人を愛することに勤め、他の人を愛するあり方に近づけ。それでもまだ余裕があるなら古文を学べ……だったかな?」
周りの男達から歓声が沸いた。
「あんた、すげぇな。読み方知ってるなら教えてくれよ」
男が尊敬の眼差しで夕輝を見た。
「え?」
「頼む!」
男が夕輝に拝みながら頭を下げた。
「俺ぁ大工なんだけどよ、近所のご隠居がこれを読めたら大きな仕事紹介してやるって言うんだよ。俺ぁこんなの読めねぇし、でも、今度子供が生まれるから仕事が必要だし、困ってんだよ」
「俺も詳しくは……この部分は学校で習ったことがあるから知ってただけで……」
「学問所に行ってたのかい?」
学問所?
江戸時代の学校は寺子屋じゃないのか?
「えっと、そう……です」
「知ってることだけでいいからさ、俺に教えてくれよ」
「兄ちゃん、長八もこう言ってんだから教えてやれよ」
野次馬の一人が言った。他の野次馬も、そうだそうだと相鎚を打った。
どうやらこの男は大工で長八と言うらしい。
「字は読めますか?」
「学問は出来ねぇが読み書きくらいなら出来るぜ」
「それなら、俺に字を教えてもらえませんか?」
「漢文が読めるのに字が読めねぇのかい」
「はい」
「じゃあ、これどうやって読んだんだい」
「これは楷書だから……すみません」
「いや、いいけどよ。じゃ、俺が字を教えるから、あんたは漢文を教える、それでいいな」
「はい、よろしくお願いします」
夕輝は頭を下げた。
「夕輝、漢文が読めたんだってな」
夕餉の席で平助が言った。
「やっぱ二本差しじゃないのかい」
お峰が言った。
「でなきゃ、漢文は読めるのに普通の字が読めないって事は清から来たんじゃないのかね?」
「清?」
今の中国は清なのか。
「……中国人じゃないです」
「なんだい中国人ってな」
「……清の人じゃありません」
「だろうなぁ。清から来たならこんなに流暢に言葉が出来るわけねぇやな」
「それもそうだねぇ。あ、でも、通事とかってことはないかね」
「『つうじ』ってなんですか?」
夕輝の問いに、平助とお峰は顔を見合わせた。
「違うみてぇだな」
「そうらしいねぇ」
訊いてみると通事というのは中国語を通訳する人のことらしい。
中国以外の国の言葉を通訳する人は通詞というそうだ。
どちらも読みは『つうじ』だが。
その晩は疲れていたからか、夕餉を食べて横になるとすぐに眠りに落ちた。
「夕輝、今夜ちょっと手伝ってくれるか」
翌朝、朝餉を食べてると平助に言われた。
「はい。いいですよ」
「捕り物かい? 危ないんじゃないかい。あんたはともかく、夕ちゃんはまだ子供なんだし……」
「何言ってんでぇ。夕輝は俺なんかより強ぇんだぞ」
「それにしても……」
「捕り物の人足が足りねぇんだよ! しょうがねぇだろ!」
「あ、俺なら平気です」
斬り合いが怖くないわけではない。
しかし、この前相手にした男が大した腕ではなかったことで、夕輝の頭には自分が斬ってしまう心配はあっても、斬られてしまうかもしれないと言うことは思い浮かばなかった。
「すまねぇな」
「ただ木刀か何かを貸してもらえますか?」
「木刀? 刀持ってんのに使わねぇのかい」
「え? 俺、刀なんて持ってませんよ」
「お前ぇの部屋にある刀。ありゃ、お前ぇが持ってたヤツじゃねぇか」
そういえば、繊月丸があったんだっけ。
いや、繊月丸の場合、いるなのだろうか。
一日中刀の姿のまま壁に立てかけてあるから、「ある」がふさわしい気がするが、女の子の姿を取ったところを思い浮かべると、「いる」と言わなければならない気もする。
「でも、人を斬りたくないんです」
「確かに斬られちゃ困るな。捕り物は生け捕りにしねぇとなんねぇし。よし、東様に刃引きの刀貸してしてくれるように頼んでやるよ」
「東様ってのはこの人に手札を渡してる北の御番所の定廻り同心なんだよ」
お峰が説明した。
「北の御番所?」
「北町奉行所って言えば分かるかい?」
「ああ、遠山の金さんの」
いや、遠山の金さんは南町奉行所だっけ?
「なんだい、遠山の金さんってな」
「なんでもないです」
夕輝は手を振ってから、首を傾げた。
遠山の金さんって実在の人物じゃなかったのか?
「そうかい、それじゃあ、小助に聞いてみとくれ」
お峰の了解を取ると、夕輝は湯屋の裏に回った。
仙吉が薪を割り、小助が湯を沸かしている。
由吉は薪の調達に行っていた。
番頭の亥之助は番台にいるらしい。
「小助さん、俺も手伝います」
夕輝はそう言うと、薪を小助のところへ運んでくるようにと指示してくれた。
抱えられるだけの薪を抱えて小助の元へ持っていく。
袖や裾が邪魔だな、と思って仙吉達をよく見ると、上半身は腕まくりをし、下は裾をまくり上げて帯に挟んでいる。
足はもちろん、褌まで見える。
夕輝は迷った。
仙吉達と同じ格好をするべきか。
しかし、足どころか褌まで見えるような格好をする勇気はなかった。
夕輝が迷っていると、
「夕ちゃん、どうしたんだい?」
お峰がやってきた。
「あ、あの、俺もあの格好した方がいいんでしょうか?」
夕輝はちらっと仙吉に目を走らせた。
「尻っぱしょりしたくないのかい?」
「その……足を見せるって言うのに慣れてなくて……」
正確には足ではなくて褌を見せたくなかったのだ。
現代でも腰パンなんてしたことなかったし。
「そうだねぇ。お侍さんなら確かに尻っぱしょりはしないねぇ」
お峰は考え込むように言った。
「そうだ、いいものがあるからこっちおいで」
そう言って家の中に入っていくお峰の後をついていった。
お峰が出してきたのはスラックスのようなものだった。
股引というのだそうだ。
腰と足首の所を紐で結ぶようになっている。
「これを履けば尻っぱしょりしても恥ずかしくないだろ」
「はい」
夕輝は着物の下に股引を穿くと、着物を尻っぱしょりした。
「上はこれを使うといいよ」
と言って峰湯の半纏と襷を貸してくれた。
「有難うございます」
夕輝は襷掛けをすると薪運びを始めた。
薪運びは思いの外きつかった。何往復かすると息が切れてきた。
身体中汗だくだ。
この程度でへばるとは思わなかった。
剣道も習ってるし、運動はそこそこやっているつもりだったが、まだまだ足りないようだ。
へたっていると、仙吉が湯屋の二階で客の相手をしてくれないか、と言ってきた。
夕輝のことを気遣ってくれたらしい。
有難くその言葉に甘えて湯屋の二階に上がった。
二階では湯から上がった男達が将棋や囲碁などをしていた。
その片隅に、若い男達が集まっていた。
覗いてみると三十代くらいの男が本を開いていた。
「なぁ、これが読めるかい」
男が本を周りの男達に回した。
夕輝のところに回ってきた本を手に取った。
表紙に「論語」と書いてあった。
子曰、弟子入則孝、出則悌。
謹而信、汎愛衆而親仁。
行有余力、則以学文
(学而篇六)
「子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌たれ。謹みて信、汎く衆を愛して仁に親づけ。行いて余力有らば、則ち以て文を学べ」
「お、じゃあ、意味は分かるかい」
「えっと……親孝行をして、目上の人に従い、言動を慎み、言行を一致させて、人を愛することに勤め、他の人を愛するあり方に近づけ。それでもまだ余裕があるなら古文を学べ……だったかな?」
周りの男達から歓声が沸いた。
「あんた、すげぇな。読み方知ってるなら教えてくれよ」
男が尊敬の眼差しで夕輝を見た。
「え?」
「頼む!」
男が夕輝に拝みながら頭を下げた。
「俺ぁ大工なんだけどよ、近所のご隠居がこれを読めたら大きな仕事紹介してやるって言うんだよ。俺ぁこんなの読めねぇし、でも、今度子供が生まれるから仕事が必要だし、困ってんだよ」
「俺も詳しくは……この部分は学校で習ったことがあるから知ってただけで……」
「学問所に行ってたのかい?」
学問所?
江戸時代の学校は寺子屋じゃないのか?
「えっと、そう……です」
「知ってることだけでいいからさ、俺に教えてくれよ」
「兄ちゃん、長八もこう言ってんだから教えてやれよ」
野次馬の一人が言った。他の野次馬も、そうだそうだと相鎚を打った。
どうやらこの男は大工で長八と言うらしい。
「字は読めますか?」
「学問は出来ねぇが読み書きくらいなら出来るぜ」
「それなら、俺に字を教えてもらえませんか?」
「漢文が読めるのに字が読めねぇのかい」
「はい」
「じゃあ、これどうやって読んだんだい」
「これは楷書だから……すみません」
「いや、いいけどよ。じゃ、俺が字を教えるから、あんたは漢文を教える、それでいいな」
「はい、よろしくお願いします」
夕輝は頭を下げた。
「夕輝、漢文が読めたんだってな」
夕餉の席で平助が言った。
「やっぱ二本差しじゃないのかい」
お峰が言った。
「でなきゃ、漢文は読めるのに普通の字が読めないって事は清から来たんじゃないのかね?」
「清?」
今の中国は清なのか。
「……中国人じゃないです」
「なんだい中国人ってな」
「……清の人じゃありません」
「だろうなぁ。清から来たならこんなに流暢に言葉が出来るわけねぇやな」
「それもそうだねぇ。あ、でも、通事とかってことはないかね」
「『つうじ』ってなんですか?」
夕輝の問いに、平助とお峰は顔を見合わせた。
「違うみてぇだな」
「そうらしいねぇ」
訊いてみると通事というのは中国語を通訳する人のことらしい。
中国以外の国の言葉を通訳する人は通詞というそうだ。
どちらも読みは『つうじ』だが。
その晩は疲れていたからか、夕餉を食べて横になるとすぐに眠りに落ちた。
「夕輝、今夜ちょっと手伝ってくれるか」
翌朝、朝餉を食べてると平助に言われた。
「はい。いいですよ」
「捕り物かい? 危ないんじゃないかい。あんたはともかく、夕ちゃんはまだ子供なんだし……」
「何言ってんでぇ。夕輝は俺なんかより強ぇんだぞ」
「それにしても……」
「捕り物の人足が足りねぇんだよ! しょうがねぇだろ!」
「あ、俺なら平気です」
斬り合いが怖くないわけではない。
しかし、この前相手にした男が大した腕ではなかったことで、夕輝の頭には自分が斬ってしまう心配はあっても、斬られてしまうかもしれないと言うことは思い浮かばなかった。
「すまねぇな」
「ただ木刀か何かを貸してもらえますか?」
「木刀? 刀持ってんのに使わねぇのかい」
「え? 俺、刀なんて持ってませんよ」
「お前ぇの部屋にある刀。ありゃ、お前ぇが持ってたヤツじゃねぇか」
そういえば、繊月丸があったんだっけ。
いや、繊月丸の場合、いるなのだろうか。
一日中刀の姿のまま壁に立てかけてあるから、「ある」がふさわしい気がするが、女の子の姿を取ったところを思い浮かべると、「いる」と言わなければならない気もする。
「でも、人を斬りたくないんです」
「確かに斬られちゃ困るな。捕り物は生け捕りにしねぇとなんねぇし。よし、東様に刃引きの刀貸してしてくれるように頼んでやるよ」
「東様ってのはこの人に手札を渡してる北の御番所の定廻り同心なんだよ」
お峰が説明した。
「北の御番所?」
「北町奉行所って言えば分かるかい?」
「ああ、遠山の金さんの」
いや、遠山の金さんは南町奉行所だっけ?
「なんだい、遠山の金さんってな」
「なんでもないです」
夕輝は手を振ってから、首を傾げた。
遠山の金さんって実在の人物じゃなかったのか?
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