赤月-AKATSUKI-

月夜野 すみれ

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第五章 桐生祥三郞

第四話

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 最初の相手は石川だった。
 礼をして木刀を構えた瞬間、夕輝の頭から雑念が一切消えた。
 夕輝が青眼に、石川が八相に構えた。
 石川が足裏をするようにしてじりじりと間を詰めだした。
 一足一刀の間境の手前で石川が止まった。
 夕輝と石川は睨み合った。

 どれくらいの時間がたったのだろうか。

 不意に夕輝の剣先が沈んだ。
 誘いだった。
 石川が八相から振り下ろした。
 夕輝はそれを弾くと同時に二の太刀で小手を放った。
 石川はそれを弾くと鋭く突いてきた。
 夕輝は体を開いてよけると石川の胴の直前で木刀を止めた。
 二人の動きが止まった。

 次の瞬間、見ていた門弟達の間からわっと言う歓声が上がった。

「浅い!」
「まだだ!」
 谷垣と石川が声を上げるのが同時だった。
 門弟達が静まる。
「天満! 今のは浅い! 一本取ったうちに入らん! もう一回だ!」
「谷が……!」
 祥三郞が声を上げかけたのを夕輝が手を上げて遮った。

 あれじゃ駄目か。

 確かに椛を襲った相手には通用しなかった。

 それなら……。

 夕輝の頭からは谷垣のことも試合のことも消えていた。
 どうすればあのときの敵を倒せるかだけで頭の中は一杯だった。

 夕輝は再び稽古場の中程に立ち、石川と礼を交わすと木刀を下段に構えた。
 石川が上段に構える。
 今度は夕輝から距離を詰めていく。
 一足一刀の間境の半歩手前で止まると、石川の斬撃の起こりを待った。
 二人はそのまま睨み合った。
 石川の額から頬にかけて汗が伝った。
 その汗が落ちたとき、二人は同時に技を放った。
 夕輝は下段から逆袈裟に、石川は上段から真っ向へ。
 二人の木刀が弾き合う。
 夕輝は更に一歩踏み込んで突きを放った。石川の喉の寸前で止める。
 石川の木刀は夕輝の胴を払おうとしたところで止まっていた。

「浅い! もう一度!」
 谷垣が悔しそうに叫んだ!
 夕輝は再び木刀を構えた。
 夕輝は脇構えに、石川は上段に。
 タァッ!
 一足一刀の間境を越えると同時に石川が裂帛の気合いを発して真っ向に振り下ろしてきた。
 夕輝はそれを弾くと、そのまま石川の懐に飛び込んで小手の寸前で止めた。
 石川の動きも止まる。

 谷垣は悔しそうに夕輝を睨むと、
「お前達もいけ!」
 後ろを振り返って残りの二人に命じた。

「谷垣殿!」
 祥三郞が叫んだが、頭に血が上っている石川達は構わず夕輝に向かってきた。

 石川が脇構えから胴へ。
 奥野が上段から真っ向へ。
 麻生が青眼から突きを。
 夕輝は胴に来た木刀を払って小手を打つと、石川は木刀を取り落とした。
 そのまま身体を回し、頭を下げて突きをかわしながら一歩踏み込んで胴を打った。
 奥野が腹を抱えて蹲る。
 反転して麻生が二の太刀を繰り出す前に面を放った。
 頭を殴るのはまずいので右肩を叩く。
 麻生が右肩を押さえて膝を突いた。

「くっ! 天満!」
 谷垣が木刀を振りかぶって突っ込んできたとき、
「何をしておる!」
 師匠の声が響き渡った。

 外出先から帰ってきたのだ。
 谷垣が慌てて木刀を下ろした。
 稽古場へ入ってくると、
「当稽古場では他流試合は禁じてるはず」
 夕輝や谷垣達を睨みながら言った。

「師匠、これは……」
「申し訳ありません。俺が稽古をつけてくれるように頼みました」
 夕輝は祥三郞の言葉を遮って頭を下げた。
「お前達、ちょっとこっちに来なさい」
 夕輝と谷垣達は母屋に連れて行かれた。

 五人は母屋で師匠の前に座らされた。

「当稽古場では他流試合は禁じている事は知っているな?」
 師匠の大久保源斎が夕輝達を睨んだ。
 夕輝が畳に手をついて頭を下げた。
「申し訳ありません。高田稽古場の先生は師匠と同じ中野稽古場で修行をされた方と聞き、それなら他流試合にはならないかと思い、稽古をつけて欲しいとお願いしました」
「試合ではなく稽古だったと?」
「はい」
 大久保はしばらく黙って夕輝達を見ていた。

「勝負でなかったのなら勝敗もないと言うことだな」
「は、はい」
 谷垣が答えた。
「石川殿、うちの弟子に稽古をつけてくれたことには礼を言おう。しかし、二度とそれがしに無断でこんな事はしないでいただきたい」
「はっ」
 石川達が頭を下げた。

「もう行きなさい」
 大久保の言葉に夕輝達が礼をして立ち上がりかけたとき、
「天満は残りなさい」
 大久保が声をかけてきた。
 谷垣は一瞬、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 夕輝が再び大久保の前に座る。

 四人が行ってしまうと、
「何か得るものはあったか」
 と訊ねられた。

「はい」
「これからも精進しなさい」
「はい」
「行きなさい」
 夕輝は手をついて師匠に頭を下げた。

 夕輝が稽古場へ戻ると祥三郞が駆け寄ってきた。

「夕輝殿だけ叱られたのですか? 拙者が師匠に申し上げて……」
「師匠は言わなくてもお見通しだったよ」
「では、叱られなかったのですか?」
「これからも精進しなさいって言われた」
「では、破門にはならないのですね」
 祥三郞が安心したように言った。
「うん。心配してくれて有難う」

「祥三郞君、今日うちに来る?」
 稽古場の雑巾がけが終わると祥三郞に声をかけた。
「あ、申し訳ありません。今日は……」
 祥三郞が申し訳なさそうに謝った。
「そう、じゃ、また今度ね」

 夕輝はそう言うと稽古場を後にした。

 最近、祥三郞君来ないな。

 夕輝は稽古場の方を振り返りながら思った。
 学問指南所を開きたいと言っていた程の祥三郞が教えるのに飽きたとは考えづらかった。

 何か事情があるのかな。

 それ以上深く考えずに峰湯に戻った。

「兄貴、最近桐生様、来やせんね」
 太一が薪を抱えながら言った。
「忙しいんだろ」
 夕輝も薪を持って立ち上がった。

「なんに忙しいんでやしょうかねぇ」
 太一が意味深に笑った。
「なんだよ」
「この前見たんでやすよ」
「見たって祥三郞君を?」
「女将さんの使いに行ったときに、桐生様が可愛いお嬢さんと一緒に歩いてたんでやすよ」
「祥三郞君が?」
「女と遊ぶ方がこんなところでむさ苦しい男に学問教えるよりよっぽど楽しいでやすからね」
「下世話なこと言うなよ」
 夕輝は呆れたように言った。

「ほんとでやすよ」
「いいから仕事しろ」
 夕輝はそう言うと薪運びを始めた。

 祥三郞君が女の子と?

 太一にはああ言ったものの気にならないと言えば嘘になる。
 確かに、祥三郞の年なら勉強より女の子の方に興味を持って当然だろう。

 太一が嘘をつくわけないし。

 しかし、祥三郞が学問を放り出して女の子と遊び歩くとも考えづらかった。

 ま、気にしてもしょうがないか。

 夕輝は薪運びを始めた。
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