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第五章 桐生祥三郞
第五話
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「帰ぇれ!」
夕輝が稽古場から帰ってくると、太一が十歳くらいの女の子に怒鳴っていた。
「太一」
「あ、兄貴。お帰りなさいやし」
「なに子供に怒鳴ってるんだよ」
「すいやせん」
太一は夕輝に頭を下げると、
「とにかく帰ぇれ」
と言って女の子を追い返した。
「今の誰?」
「なんでもありやせん」
太一はそう言うと湯屋の手伝いに戻っていった。
数日後、お峰の使いでお花の長屋に向かう途中だった。
向こうから祥三郞が歩いてきた。
同い年くらいの女の子を連れている。
「祥三郞君」
夕輝は立ち止まって声をかけた。
「あ、夕輝殿」
祥三郞も夕輝に気付いて止まった。
「葵殿。こちら同じ稽古場に通っている天満夕輝殿です。夕輝殿、こちら立花葵様です」
祥三郞はばつの悪そうな顔で二人を紹介した。
「桐生様、天満様というと……」
「はい、拙者が学問を教えに行っている湯屋の方です」
「天満様、桐生様をお借りしてしまっていて申し訳ありません」
葵が頭を下げた。
「え、いえ、その……」
夕輝は訳が分からず祥三郞の方を見た。
話した感じだと恋人同士ではないようだがどういう知り合いなんだろう。
「桐生様には暴漢に襲われているところを助けていただき、それ以来、警護をしていただいています」
「あ、そうなん……ですか」
「そういう訳故、夕輝殿、申し訳ありませんが長八殿にも詫びておいてください」
祥三郞は頭を下げた。
「分かった。そう言うことなら気を付けて」
暴漢に付け狙われてるのならあまり引き留めるのも悪いだろうと思い、夕輝は早々に会話を切り上げて二人と別れた。
恋人という感じではなかったが、祥三郞は葵が好きなようだ。
祥三郞君が葵さんと上手くいくといいな。
峰湯に戻って小助に仕事があるか聞くと、ないというので太一とシジミ捕りに行くことにした。
太一がどこにいるか聞こうと台所へ行くと、お峰の前で土下座していた。
「お願いしやす!」
「太一、どうしたんだ?」
夕輝が驚いて声をかけると、太一とお峰が振り返った。
「あ、夕ちゃん」
お峰が困った顔で夕輝の方を見た。
「太一がね、お金貸してくれって言うんだよ」
「お袋を医者に診せる為に金が必要なんです。お願いしやす!」
「お母さんの病気、重いのか?」
て言うか、お母さんいたのか。
以前、太一は家族はいないと言っていたが。
「へい」
太一はうなだれた。
「そうか。お峰さん、前に橋本屋さんから貰ったお金……」
「いいのかい?」
「はい。食費にと言っておいてすみません」
「それはいいんだけど……」
お峰はそう言うと部屋の隅にある小さな箪笥の引き出しを開けた。
白い紙に包まれたものを取り出すと、太一に差し出した。
「これは夕ちゃんからだよ」
「兄貴、女将さん、すいやせん! 必ず返しやすので……」
「返さなくていいよ。それより早くお母さんのところへ持っていってやれ」
「しばらく休んでいいから、おっかさんについてておやり」
「すいやせん!」
太一は何度も頭を下げると駆け出していった。
夕輝が一人でシジミを捕りに行こうとしたとき、橋本屋から使いの者が来た。
お里の送り迎えをして帰ってくると太一がいた。
「太一、何してるんだよ」
「峰湯の手伝いを……」
「お母さんについててやらなくていいのかよ。お峰さんだってしばらく休んでいいって言ってただろ」
「いえ、金を借りた上に仕事まで休むわけにはいきやせん」
妙なところで律儀なヤツだな。
「この前来てた女の子、お前の妹?」
「へい」
太一が働いてるなら夕輝も休んでいるわけにはいかない。
夕輝は太一と一緒に働き始めた。
「夕輝、明日の夜いいか?」
夕餉の席で平助が訊ねてきた。
「また捕り物かい?」
お峰が顔をしかめた。
「東様のご指名なんだよ。夕輝は頼りになるからな」
「俺ならいいですよ」
夕輝がそう答えると、
「親分、あっしにも手伝わせてくだせぇ」
太一も名乗りを上げた。
「じゃあ、二人とも頼むぜ」
翌日、稽古場から帰ってくると、お峰に呼ばれた。
「すまないけど、これ、お花さんに届けてくれるかい?」
「はい」
「太一も一緒に連れてってやっておくれ」
「太一、どうかしたんですか?」
「元気がないんだよ。夕ちゃんなら年も近いから話も合うだろ。励ましてやっとくれよ」
「分かりました」
夕輝は太一を誘うと、お花の長屋に向かった。
確かに太一は元気がなかった。
きっとお母さんが心配なんだろうな。
お峰には「分かった」等と言ってしまったが、どうすれば励ませるのか分からなかった。
自分の親が重病だったら、何を言われても元気になどなれない。
しかも、江戸時代の医療なんて、どう考えても当てにならない。
聞くところによると、江戸時代は医師になるのに資格は必要なく、誰でもなれるのだそうだ。
江戸時代の医学では勉強していたとしても心許ないのに、ましてや碌に学びもしないまま医師の看板を掲げているような人間が信用できる訳がない。
まぁ、太一の母親がかかっているのが藪医者なのかどうかは分からないが。
「なぁ」
せめて気を紛らわせようと、太一に話しかけた。
「へい」
「あれ、泥鰌って読むんだろ」
夕輝は『どぜう』と書かれた看板を指した。
「そうでやすよ」
「あれも泥鰌だよな」
今度は『どぢやう』と書かれている看板を指した。
「へい」
「なんで字が違うんだ?」
「あっち――どぜう――は泥鰌鍋で、あれ――どぢやう――は泥鰌汁なんでやすよ」
「なるほど」
「『どぢやう』だとどっちなのか区別がつかないから書き分けてるんでやす」
「ふぅん」
どぢやうの後に『鍋』とか『汁』とか書けば、わざわざ書き分ける必要もないと思うのだが、それは野暮なんだろうか。
夕輝は『ふなぎ』と書かれた看板を見た。あれは『うなぎ』なのだとこの前教わった。
平仮名は必ずしも一字だけではなく、『う』一つとっても色々な字がある。
どうやら明治維新後に一つに統一されたようだ。
そうだよな。一つの方が分かり易いもんな。
夕輝が稽古場から帰ってくると、太一が十歳くらいの女の子に怒鳴っていた。
「太一」
「あ、兄貴。お帰りなさいやし」
「なに子供に怒鳴ってるんだよ」
「すいやせん」
太一は夕輝に頭を下げると、
「とにかく帰ぇれ」
と言って女の子を追い返した。
「今の誰?」
「なんでもありやせん」
太一はそう言うと湯屋の手伝いに戻っていった。
数日後、お峰の使いでお花の長屋に向かう途中だった。
向こうから祥三郞が歩いてきた。
同い年くらいの女の子を連れている。
「祥三郞君」
夕輝は立ち止まって声をかけた。
「あ、夕輝殿」
祥三郞も夕輝に気付いて止まった。
「葵殿。こちら同じ稽古場に通っている天満夕輝殿です。夕輝殿、こちら立花葵様です」
祥三郞はばつの悪そうな顔で二人を紹介した。
「桐生様、天満様というと……」
「はい、拙者が学問を教えに行っている湯屋の方です」
「天満様、桐生様をお借りしてしまっていて申し訳ありません」
葵が頭を下げた。
「え、いえ、その……」
夕輝は訳が分からず祥三郞の方を見た。
話した感じだと恋人同士ではないようだがどういう知り合いなんだろう。
「桐生様には暴漢に襲われているところを助けていただき、それ以来、警護をしていただいています」
「あ、そうなん……ですか」
「そういう訳故、夕輝殿、申し訳ありませんが長八殿にも詫びておいてください」
祥三郞は頭を下げた。
「分かった。そう言うことなら気を付けて」
暴漢に付け狙われてるのならあまり引き留めるのも悪いだろうと思い、夕輝は早々に会話を切り上げて二人と別れた。
恋人という感じではなかったが、祥三郞は葵が好きなようだ。
祥三郞君が葵さんと上手くいくといいな。
峰湯に戻って小助に仕事があるか聞くと、ないというので太一とシジミ捕りに行くことにした。
太一がどこにいるか聞こうと台所へ行くと、お峰の前で土下座していた。
「お願いしやす!」
「太一、どうしたんだ?」
夕輝が驚いて声をかけると、太一とお峰が振り返った。
「あ、夕ちゃん」
お峰が困った顔で夕輝の方を見た。
「太一がね、お金貸してくれって言うんだよ」
「お袋を医者に診せる為に金が必要なんです。お願いしやす!」
「お母さんの病気、重いのか?」
て言うか、お母さんいたのか。
以前、太一は家族はいないと言っていたが。
「へい」
太一はうなだれた。
「そうか。お峰さん、前に橋本屋さんから貰ったお金……」
「いいのかい?」
「はい。食費にと言っておいてすみません」
「それはいいんだけど……」
お峰はそう言うと部屋の隅にある小さな箪笥の引き出しを開けた。
白い紙に包まれたものを取り出すと、太一に差し出した。
「これは夕ちゃんからだよ」
「兄貴、女将さん、すいやせん! 必ず返しやすので……」
「返さなくていいよ。それより早くお母さんのところへ持っていってやれ」
「しばらく休んでいいから、おっかさんについてておやり」
「すいやせん!」
太一は何度も頭を下げると駆け出していった。
夕輝が一人でシジミを捕りに行こうとしたとき、橋本屋から使いの者が来た。
お里の送り迎えをして帰ってくると太一がいた。
「太一、何してるんだよ」
「峰湯の手伝いを……」
「お母さんについててやらなくていいのかよ。お峰さんだってしばらく休んでいいって言ってただろ」
「いえ、金を借りた上に仕事まで休むわけにはいきやせん」
妙なところで律儀なヤツだな。
「この前来てた女の子、お前の妹?」
「へい」
太一が働いてるなら夕輝も休んでいるわけにはいかない。
夕輝は太一と一緒に働き始めた。
「夕輝、明日の夜いいか?」
夕餉の席で平助が訊ねてきた。
「また捕り物かい?」
お峰が顔をしかめた。
「東様のご指名なんだよ。夕輝は頼りになるからな」
「俺ならいいですよ」
夕輝がそう答えると、
「親分、あっしにも手伝わせてくだせぇ」
太一も名乗りを上げた。
「じゃあ、二人とも頼むぜ」
翌日、稽古場から帰ってくると、お峰に呼ばれた。
「すまないけど、これ、お花さんに届けてくれるかい?」
「はい」
「太一も一緒に連れてってやっておくれ」
「太一、どうかしたんですか?」
「元気がないんだよ。夕ちゃんなら年も近いから話も合うだろ。励ましてやっとくれよ」
「分かりました」
夕輝は太一を誘うと、お花の長屋に向かった。
確かに太一は元気がなかった。
きっとお母さんが心配なんだろうな。
お峰には「分かった」等と言ってしまったが、どうすれば励ませるのか分からなかった。
自分の親が重病だったら、何を言われても元気になどなれない。
しかも、江戸時代の医療なんて、どう考えても当てにならない。
聞くところによると、江戸時代は医師になるのに資格は必要なく、誰でもなれるのだそうだ。
江戸時代の医学では勉強していたとしても心許ないのに、ましてや碌に学びもしないまま医師の看板を掲げているような人間が信用できる訳がない。
まぁ、太一の母親がかかっているのが藪医者なのかどうかは分からないが。
「なぁ」
せめて気を紛らわせようと、太一に話しかけた。
「へい」
「あれ、泥鰌って読むんだろ」
夕輝は『どぜう』と書かれた看板を指した。
「そうでやすよ」
「あれも泥鰌だよな」
今度は『どぢやう』と書かれている看板を指した。
「へい」
「なんで字が違うんだ?」
「あっち――どぜう――は泥鰌鍋で、あれ――どぢやう――は泥鰌汁なんでやすよ」
「なるほど」
「『どぢやう』だとどっちなのか区別がつかないから書き分けてるんでやす」
「ふぅん」
どぢやうの後に『鍋』とか『汁』とか書けば、わざわざ書き分ける必要もないと思うのだが、それは野暮なんだろうか。
夕輝は『ふなぎ』と書かれた看板を見た。あれは『うなぎ』なのだとこの前教わった。
平仮名は必ずしも一字だけではなく、『う』一つとっても色々な字がある。
どうやら明治維新後に一つに統一されたようだ。
そうだよな。一つの方が分かり易いもんな。
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