名を呼ばれた日

渡弥和志

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アディル

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 アデル=イリア〝アディリア〟・ラルス──通称アディル。

 彼女は、剣を握っている時だけ、自分が誰でもない存在になれる気がしていた。
 議長の娘でも、ラルス家の次女でもない。ただの剣士として。

 だから今夜も、屋敷を抜け出していた。
 フードを深くかぶり、名も告げず、傭兵ギルドで依頼板から仕事を拾う。

〝エデルテ村近郊、大型魔獣『魔豹・キーヴルドー』出没。犠牲者二名〟
 目の前で〝傭兵団依頼済〟の印が押された。

「こりゃ、到着までまだ犠牲が増えそうだな」

 その声に、意志は固まった。
 エデルテ村には早足で進んで半日──
 夜明けまで走り続ければ、夕刻には着ける。
 傭兵団を待たせるという選択肢は、なかった。


 ────


 村に着いた時、空気は張りつめていた。
 家々の戸は閉ざされ、祈祷所の脇には白布をかけられた遺体が二つ置かれている。

 アディルは無意識に剣の柄を握りしめた──
 ──その時。
 背後で枝の折れる音がした。

 振り向くと、短剣を携えた少年が立っていた。年の頃は十ニ、三。手の震えを必死に押し殺し、立っている。
 怯えと期待が入り混じった目で、必死に言う。

「……傭兵、だよな? 一人、か?」

 少年は、剣を帯びたその姿を見て、思わず目を見開いた。

 村の大人たちが怯えて家に閉じこもっている中で、ただ一人、迷いなく立っているその背中が、ひどくまぶしく見えた。

 声は震えていたが、それでも少年は必死に背筋を伸ばしていた。
 自ら進んで番をしていたのだろう。
 本当なら、木剣を振っているだけの年頃だ。

 少年は、強がるように唇を噛みしめて言った。声は震えている。

 「……もう、誰も死んでほしくなくて……」

「そんな剣じゃ、魔豹とは戦えない」

「でも! おれだって……」

 言い終わるより早く、アディルの表情が変わった。
 森の気配が、明らかに歪んだ。

「──下がって」

 次の瞬間、地鳴りが走った。

 草むらを割って、黒い巨影が躍り出る。
 魔豹キーヴルドー……それもかなり大型の。

 短剣を抜く少年の手は震えている。

「伏せて!」

 アディルは少年を突き飛ばし、前へ出た。
 魔獣の爪が地面を裂き、土と小石が跳ねる。

 速い。
 巨体に似合わぬ速度だ。

 横薙ぎの爪をかわし、斬りつけるが刃は弾かれた。
 魔獣はアディルを無視し、少年へ向き直る。
 足がすくみ、短剣が手から離れ、乾いた音を立てた。

「させるか!」

 体当たりで進路を逸らす。

「家に入って! 絶対に振り返らないで!」

「で、でも……!」

「行って!」

 少年は歯を食いしばり、走り出した。
 魔獣は低い唸りを上げながらアディルへ向き直る。

 そして咆哮と共に、濁った灰の眼がこちらを射抜いた。

 彼女は森へ誘導するように走った。人のいる方へ行かせないために。
 倒木を越え、岩場へ追い込み、跳躍して背へ斬りつける。

 だがどれも決定打にはならない。
 尾の一撃を受け流しきれず、数歩よろめく。
 だが、体勢は崩していない。

 ──手強い。
 しかし動きは単調。
 速度に頼る分、踏み込みが甘い。

 剣を構え直した、その時。
 背後で、草を踏む音がした。
 聞き覚えのある、軽い足音。

「……っ」

 振り向く余裕はない。それでも、嫌な予感だけが背筋を走る。

 案の定、次の瞬間、聞こえてきたのは──

「こ、こっちだ!」

 あの、震える声だった。

「なぜいるの!」

 思わず叫ぶアディルの声は、怒鳴り声に近かった。

「だって……!」

 少年は息を切らし、震える手で短剣を握りしめていた。

 逃げ帰ったはずなのに、息を整える間もなく、引き返してきたのが一目で分かる。

「一人で……あんなの……!」

 少年は、恐怖で足がすくみそうになりながらも、視線だけは逸らせなかった。
 もし目を離したら、この人が本当に消えてしまう気がして。

 言葉にならず、少年は唇を噛みしめた。
 魔獣が、ゆっくりと方向を変える。
 濁った灰の眼が、今度は二人を同時に捉えた。

 短く唸ったかと思うと、駆け出す。
 アディルは歯を食いしばり、剣を水平に構えた。

 突進に合わせて剣を突き入れる。

(入った……!)

 深手を受けた魔獣は怒り狂い、飛びかかってくる。

 爪の一撃を剣で受けた。
 重い。
 後ろの樹木に叩きつけられる。
 それを見て、少年は息を呑んだ。

 衝撃で肺の息が押し出される。それでも、視界は澄んでいた。

 まだ間合いの外だ。

 息を吸う。
 剣の柄が、汗で滑りかけている。

 その爪が、再び襲い来る、その刹那。

 木を利用して跳躍した。

 天地が回る。
 宙を舞い、背後をとる。
 全体重をかけた斬撃が走った。

 大きく怯んだ魔獣の首元へ刃をねじ込む。
 骨を断つ感触。

 魔獣は崩れ落ち、動かなくなった。


 少年はその一部始終に目が釘付けになっていた。
 自分を守ろうとするその姿、たった一人で魔獣に立ち向かう勇気、舞うような剣技。

 ──心を、奪われた。


 少年が駆け寄り、数歩手前で足を止めた。

 ──あんなふうに、なりたい。
 その思いが、胸の奥で熱を持った。

 近づいていいのか分からず、ほんの一瞬、ためらってから──
 気づけば、アディルの袖を掴んでいた。

 触れていることに気づいて、慌てて手を離そうとして、けれど指が動かなかった。

「あの……! 名前を」

 フードの隙間から、黄金の頭髪がこぼれた。
 薄紅の唇が夕日に照らされる。

「……女の人、だったんだ」

 ようやく、気づいた。
 少年は唇を噛みしめ、視線を逸らした。

「……怖かった……でも……すごかった……」

 少年は呟くように続けた。

「あんなふうに……戦えるんだ……」

 やがて、村人たちが集まってきた。

 村長が進み出る。

「どうか、お名前を。あなたの名を、我々は忘れたくない」

 アディルは、フードを深くかぶり直し、目を伏せた。
 名を残す。
 それは、最も避けてきたことだった。
 偽名を名乗ることもできる。
 何も言わず、去ることもできる。
 でも——

 視界の端に映る少年の眼差しが、それを拒ませた。

 フードに手をかけ、静かに、それを外す。

 風が美しい髪を揺らし、ざわめきが広がった。
 女だと知った村人たちの顔に、驚きと戸惑いが浮かぶ。

「アデル=イリア・ラルス。クレストル八司祭議長、シリスの娘です」

 どよめきが走る。驚きと戸惑いが入り混じる。
 だが、沈黙は続かなかった。

「……アディリア様が、助けてくれたんだ!」

「ラルスの次女アディル様……!」

「命の恩人だ!」

 驚きざわめく。ひざまずこうとする人々。

「やめてください。今日は、ただの剣士として来ただけ」

 誰かの声をきっかけに、空気が一気に弾ける。

「アディル様……!」

 続いて、別の声。

「アディル様だ!」

「ありがとう、アディル様!」

「英雄アディル様!」

 名が、次々と呼ばれる。
 歓声のように、波のように。

 その声が、重く胸に積もっていく。
 誇らしさよりも先に、戸惑いが来た。

 英雄などではない。
 ただ、逃げなかっただけだ。
 剣を振るうしかなかっただけだ。

 それでも、人は名を与える。
 そうして、役割を与える。

 ──ラルス家の娘として生きることから逃げたつもりで、今度は〝救った者〟として見られる場所へ立たされている。

 それが、少しだけ怖かった。
 けれど同時に、背を向けてはいけないとも思った。
 あの少年が、ここに立っている限り。

 少年と目が合った。
 彼は、まだ膝をついていなかった。

 胸の前で指を握りしめてから、そっと息を吸った。

「……アディル、さん」

 その声は、祈るみたいに小さくて、でも真っ直ぐだった。

 その呼び方に、アディルは思わず息をのんだ。

 剣士として来ただけのはずだった。
 名を残すつもりなど、なかった。

 だが、人を救えば、名は残る。
 望まなくとも、背負うものは増えていく。

 それでも────

 少年がこちらを見て、ぎこちなく笑った。

 その笑顔に、アディルは小さく、ほんの少しだけ、笑い返した。
 それが、この日の唯一の救いだった。


 ────


 遅れて傭兵団が到着する。双剣を佩いた先頭の男は、状況を一目見て察した。

「……ちっ。なんだ、誰かに先を越されたか。
  しかも、よりにもよってラルスの次女とはな」

 村長が答える。

「ええ。我々は忘れません。あの方の名を」

 少年はまだ、身体に帯びた熱を冷ませずにいた。
 まだ袖を掴んだ指先が、熱いまま。
 それが恋だと知るには、少年はまだ幼く、けれど、その胸の高鳴りを忘れるには、少し大人すぎた────

 そして、その名を、きっと一生忘れない。
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