ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第一章

2. 贖罪の鎖

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 ────カルラは、聡明で思慮深い女性であった。
 淑やかで柔らかな面持ちと、その母ゆずりの美貌とも相まって、トルイデア領下でも騎士団長の長女カルラといえば崇敬と憧れの対象ともなっていた。

 メドゥルは、亡き妻の面影を持つカルラを心底から愛し、慈しんでいた。
 弟思いの姉を慕うヴァルスも、その寡黙さを姉の前でだけは緩ませる。
 ガルドにとっても、彼女は姉のような存在だった。
 ヴァルスを兄弟のように思うのと同じように。


 不幸は一年前、突然訪れた。

 それは、陽光の差し込む静かな昼下がりだった。
 フィレアル城の学習室で、子どもたちへ読み書きを教えていたカルラは、柔らかな声で物語を読み上げ、生徒たちが真似て声を合わせる。
 誰もが微笑む穏やかな時間────

 その時。
 ひとりの少年が唐突にガタリ、と机を跳ね除けた。
 床に伏せ、肩を震わせる。

「どうしたの?」

 カルラが尋ねると、少年はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、虹彩というものがなかった。
 黒い濁流のような紋が瞳孔の奥で蠢き──
 カルラは、胸の奥が急に冷たくなるのを感じた。
 その瞳は、完全に

 そして少年の口が、人間にはあり得ない角度までぱっくりと開いた。

「……」

 空気が凍りつく。
 次の瞬間、少年の口から黒いもやが吹き上がる。
 それは瞬く間に凝縮し、形を持つことを忘れた何か──黒い影の塊となり、床を弾むように飛び出した。

「下がって……!」

 カルラは近くの子どもを庇うように腕を広げて後ずさる。
 子どもたちの悲鳴が一斉に上がり、穏やかな学習室は瞬く間に混乱の渦に呑まれた。
 護衛の騎士たちが剣を抜いて飛び込んだが、『異形』の動きは人のそれより遥かに速い。
「どういうことだ! 『異形いぎょう』が城内に……!」

〈見つけた……美しい魂……〉

 カルラは脳裏に不気味な声が響いたように感じた。

 突如、『異形』の身体から触手のようなものがカルラへと伸び——
 胸に触れた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。

「カルラ様!!」

「いかん! 魂を喰われるぞ!!」

 『異形』が動きを止めたその一瞬を狙い、護衛の一人がその黒い粘土の塊のような身体を剣で貫く。
 それは床に転がり、しばらく蠢いていたが、やがて黒い瘴気を上げながら跡形もなく消えた。

 だが、床に倒れたカルラは、かすかに震えるのみで言葉を発さない。
 駆けつけたヴァルスは姉の両肩を抱きしめて必死に呼びかける。

「姉さん! 俺だ、ヴァルスだ! 返事をしてくれ……!」

 カルラは薄く瞼を開いたが、虚ろな瞳が宙を見つめるばかりだった。
 弟の声にも、父の叫びにも反応しない。
 呼吸だけが虚しく上下し、彼女の世界から色が失われたようだった。

 その日から。
 カルラの感情は──完全に沈黙した。


 ————


 ガルドは、頬の冷たさで意識を引き戻された。
 固い石畳の感触が、後頭部の痛みをさらに刺すように強めた。

 短く息を飲む。
 ——紫黒の光。轟音。そして、友の苦悶の瞳。 

「……ヴァルス」

 重い瞼をこじ開けたガルドは、自分が地下の古い物置のような一室にいることに気づいた。身体は縄こそかけられていないものの、剣も鎧も剥ぎ取られていた。

「ガルド様!」

 声の主は、先ほど廊下で魔導士たちを食い止めていた配下の剣士の一人、カイルだった。彼は安堵の表情を見せる。

「カイル……無事だったか。儀式は、終わったのか?」

 カイルはその青ざめた顔を伏せた。

「はい……儀式の直後、メドゥル団長は扉を閉ざしてガルド様の連行を下命しました。
 廊下で術士らを抑えていた我々は、近衛隊に拘束され……ジャクスだけは隙を突いて逃れたようですが、今はどうしているか……」

「父上への伝令は発ったか?」

「それが……メドゥル団長は、この騒動はガルド様の誤解によるものだと……」

「どういう事だ……」

ガルドは訝しげに目を細めた。

「ナルバ殿の、『異形』を滅する術の研究の暴発であると」

 ガルドは唇を噛んだ。メドゥルは偽りを騙り、カルラに対するあの儀式そのものを隠蔽したのだ。


「ナルバは?」

「変わらず団長の側近として、城内を自由に歩いています。〝術の暴発〟の咎は受けるでしょうが…
 団長は、彼を『活発化している魔境エヴィラへの対処法を知る唯一の魔導士』として重用を続けるものかと」

 ガルドの胸中に、戦慄が走った。
 メドゥルは、娘の魂を救うという執着ゆえに、『玉』──ヴィリド神を宿したであろうカルラを、そしてナルバの企みを、自ら城内に閉じ込めた────


 やがて、扉が静かに開いた。そこに立っていたのは、私服に着替えたヴァルスだった。彼の深い青緑の瞳は沈み、昨夜の苦痛の痕が色濃く残っている。
 カイルは警戒して立ち上がろうとしたが、ガルドは手を差し出し制した。

「カイル、外を見張っていてくれ」

 カイルが去り、二人だけが残された。部屋には重い沈黙が満ちる。


「……ガルド。体は動くか?」

 ヴァルスは、壁に寄りかかりながら、絞り出すように言った。

「父上が、お前はこの部屋で一晩休ませてから、クレド様へ報告の伝令を出す、と」

 ガルドは、感情を抑え、静かに問うた。

「なぜ、俺を打った?……なぜ、儀式を止めなかった?」

 ヴァルスはその俯きがちの視線を背けた。

「あの時、俺は……父上を、そして姉さんを失うのが怖かった。儀式を中断すれば、姉さんの命までもが奪われかねないと」

 ガルドは眉をひそめた。
 確かに、そうだったかもしれない。
 しかし────

「ナルバの言ったように、あれが姉さんを救う唯一の機会かもしれない……姉さんを取り戻すためには、手段は選べない、と……」

「カルラが元に戻ると、本気で思っているのか……? お前なら、ナルバに操られたメドゥル殿を止められたはず」

 ヴァルスは視線を合わせない。
 ガルドは立ち上がり、ヴァルスの胸倉を掴んだ。

「お前の選択は……あの儀式は、禁忌に触れている!」

 友の目を見て低く叫んだが、胸の奥に逃れえぬ痛みが広がるのを感じた。
 ヴァルスは抵抗せず、その瞳には深い決意が宿っていた。

「わかっている。だからこそ、俺はここを離れられない。」

 ヴァルスは囁くように言った。

「……姉さんは、闇の奔流の中にいる。俺が離れれば、誰も止められない。父上も……きっと後を追ってしまう」

 ガルドは腕を緩め、俯く。

「だから俺はここに残る。二人を深淵から救い出すための、最後の鎖として」

「正気を失ったメドゥル殿を引き戻すというのか……」

「正気を失ってはいない……自分を見失っておられるだけだ。俺が必ず立ちなおらせる。
 ……だが、お前は違う。お前は領主の息子として、外の世界に真実を伝え、真相を探ることができる」

 ヴァルスは懐から、一通の羊皮紙の書状を取り出した。

「これを見ろ。クレド様がクレストル八司祭議会へ発たれる前夜、異変があればお前に渡すよう託されていた」

 ガルドは書状を見て驚きを隠せない。
 レシャンク王家の真の意図、そしてナルバの正体を探るよう命ずる書状だった。

「クレド様は、ナルバを疑い案じていたんだ。
 正義感の強いお前には、冷静で居られるようあえて伏せたのだろう。ここまでの自体は予測されなかったろうが……」

 ガルドは羊皮紙を握りしめた。それが、彼に託された新たな責務の重さを物語っていた。

「ガルド、すぐにここを発て。まだ何も知らぬ騎士団はまだお前を『水竜中隊』の長として見ている……今なら、追手がかかるまで猶予がある」

 ここを、発つ──忍んで、自分の国から。
 その重みが、胸にのしかかる。

「先ずは首府クレストルへ向かい、クレド様に事を伝えろ。議長シリス様の助言も乞えるだろう。真実を世界に届けろ──レシャンクやナルバについてはその後だ」

 ガルドは低く息をつき、友を見据えた。

「お前を残して旅立てというのか……」

 ヴァルスは顔を伏せ、目を閉じた。

「……それが、俺の贖罪だ。
 さあ、行け、ガルド。俺の顔など、もう二度と見たくないだろう?」

 友の眼を見た。
 そこには、裏切り者の汚名を受け入れ、最も愛する者たちと共に地獄に留まろうとする、騎士としての崇高な覚悟が宿っていた。

「……必ず、戻る。
 お前と、カルラを救う手がかりを持って」

 ガルドは、意を決して部屋を出た。


 ————


 ガルドとカイルは、ヴァルスが事前に手引きした裏口への隠し通路を使い、城壁へと急いだ。
 裏口を抜けると、そこにはジャクスが居た。

「ガルド様……! ご無事で! 私を見つけたヴァルス様がここに居るようにと」

 その手には旅装束と、兵士向けの剣と盾、革の鞄を抱えていた。

「粗末なものしか手に入りませんでしたが……どうかご容赦を!」

 ジャクスは目を瞑って俯き、それを差し出した。

「助かるよ、ジャクス」

 ふと。その後ろからもう一人、皺深く長い白髭を蓄えた老神官が現れた。

「このサルフェンもお供致しますぞ。老いたこの身でも、術はお役に立ちましょう」

 知と術に長けた頼もしい老人を見て、ガルドは深く頷いた。


 領都は厳戒の空気に包まれていたが、まだ城内の異変は漏れていない。
 ヴァルスが仕込んだ『ガルド中隊長の巡察』という偽情報により、四人は辛うじて城門をすり抜ける。

 夜明け前の闇の中、月光を浴びて青く浮かび上がるトルイデア領の古城が、今夜は不気味に感じられた。
 ガルドは立ち止まり、背後の城を見つめた。あの美しい城の奥深く、親友ヴァルスは、闇と化した姉と、狂気に囚われた父と共に残った。

 ヴァルスの言葉が、冷たい海風に乗って蘇る。

「それが、俺の贖罪だ」

 ガルドは、握りしめた領主クレドの手紙と、友から託された真実の重みを胸に刻み、静かに歩き出した。
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