ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第二章

V. 僭主の確信

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 トルイデア領フィレアルを出陣した翌晩────メドゥル率いる軍勢は陣幕を整えていた。

 夜営の火が、点々と野に浮かぶ。
 兵たちは鎧を解きながらも、剣を手の届く位置から離そうとしない。
 誰かが『異形』の噂を口にすれば、別の誰かがそれを遮るように咳払いをした。
 明るい声はなく、あるのは低く抑えた囁きと、薪の爆ぜる音だけだった。

 陣幕の奥、ひときわ静かな場所に、カルラは腰掛けている。
 衛兵たちの視線は、無意識のうちに、そこを避けていた。

 ヴァルスは唇を噛みしめる。
 父の決断が、常に正しかったわけではない。だが、間違いだと口にする勇気も、これまで持てなかった。

 それでも──今回は違う。
 この軍は、勝利のために集められたのではない。〝何かに追い立てられるように〟動かされている。

 その中心に、父がいる。
 そして、父の視線の先には、姉がいた。

「父上……! 今ならまだ止められます。
 サリスファに軍で圧力をかけるなど……。交渉し『盾』を借り受けるなどの方法は──」

 ヴァルスの言葉にメドゥルは鼻で笑った。

「かの城塞都市は閉じこもって久しい。守護神と崇める『盾』をそう易々とは渡さぬだろう」

「盾……を……サリス……」

 背後からカルラが呟く。
 その虚ろな瞳を見据え、ヴァルスは続ける。

「しかし! 『異形』が日を追って増える中フィレアルを発つとは……特に、変異したものは侮れません……!」

「例の『人型』とて、残してきた副団長と魔剣士隊がおれば問題はなかろう」

「しかし! この軍とていつ襲われるやも──」

 その言葉は、父の冷たい視線に切り捨てられた。


 その時、一騎の早馬がメドゥルの陣幕へ到着した。先日サリスファへ向かわせた使者が戻ったのだ。

 使者は陣幕に入りメドゥルたちに一礼すると、書面を読み上げた。

「五神器で『魔境』を退けるなど信じるに値せず。貴国の狂言に我々の至宝を渡すことはない。
 我らは『盾』に護られている」

 ヴァルスは拳を握りしめ、震えた。
 それを見た父は低く応える。

「……軍をもって圧をかけるよりあるまい。それでも聞かぬ様であれば──」

 父の鬼気迫る眼差しに空気が張り詰めた。

 ナルバが歩み出る。

「古の神の封印が揺らいでいます。急がねば、機を失いましょう」


 その時だった。篝火が、風もないのに揺れた。
 兵の一人が胸元を押さえ、息苦しそうに呻く。

 ヴァルスは、背筋に冷たいものを感じた。
 空気が、重い。
 まるで夜そのものが、陣を包み込もうとしているかのようだった。

 陣幕の外では、兵たちの気配がざわめいていた。鎧を打つ金属音、剣帯を締め直す音。
 誰もが平静を装っているが、その動きはどこか硬い。

 ヴァルスは、使者の言葉がまだ耳に残っているのを感じていた。
 ──『盾』に護られている。
 その一文が、父の中で何かを決定づけてしまったのだ。

 父は理解したのだ。
 かの城塞都市は、話し合いでは動かぬと。

 その理解が、恐ろしかった。

 ふと視線を向けると、カルラは静かに座したまま、焚き火の揺らぎを見つめていた。
 ──見ているのかどうかも、分からない。
 紅い瞳は火を映しているようで、どこか遠くを透かしているようでもあった。

 かつて、あの瞳はもっと柔らかかった。
 子供に教えるときも、自分やガルドと話すときも、相手を優しく見つめていた。

 今は違う。
 まるで、人の世ならぬ空間を見ているようだ。

「……」

 思わず呼びかけそうになり、言葉を飲み込んだ。応えが返る気がしなかった。

 メドゥルもまた、カルラを見据えた。
 その視線は、父が娘に向けるものではない。聖遺物を見るような、確信と期待に満ちた眼差しだった。

 ――父は、もう迷っていない。

 ヴァルスの胸に、冷たい理解が落ちる。
 軍を動かす理由は、神器や『異形』ではない。

 カルラが求める。
 それだけで、父にとっては十分なのだ。


 その時、遠くで金属が擦れる音がした。
 見張りの兵の声が、一拍遅れて震えを帯びる。

 空気が、変わった。

 焚き火の炎が、息を詰めたように揺らぐ。
 夜が、陣地へと滲み込んでくる。

 カルラが、伏せた顔を僅かに上げ、その唇が動いた。

「……来る」

 兵の叫びが聞こえる。

「人型だ! 人型が表れたぞ!」

 最初に倒れたのは、歳若い兵だった。
 剣を抜く暇もなく、胸を裂かれ、地に伏す。
 血の匂いが広がり、兵たちの悲鳴が夜を裂いた。

 外へ飛び出すヴァルス。
 人の形をした影が三体。魔剣兵たちが駆け寄るが、その間にも兵を切り倒しながら真っ直ぐ陣幕へ向かってくる。

「一度に三体だと……!」

 慄きながらも剣を構えた。

 迫りくる三つの刃が、間合いに入る直前──
 突如、『異形』はその動きを止めた。

「なにっ──!?」

「カルラ……!」

 父の声に振り返ると、そこには姉の姿があった。あの日以来、立ち上がることも無かったその足で、歩み出ていた。
 陣幕の前に立ち、『異形』に向かってその右手をかざす。薄く開いた瞼の奥にある紅い瞳は、『異形』たちを見つめていた。

 空気が凍ったかのように音が消えた。

「退き……なさい……」

 カルラがゆっくりと歩み出ると、三体の影は低い唸り声を出しながら後ずさった。
 中央の一体が、抗うように刃を振りかざすが、振り下ろされることは無かった。

 しばらく沈黙が続いたかと思うと、『異形』は踵を返し、人の形を崩して軟体となり、地を滑るように夜の闇の中へと消えた。

 兵たちは、陣幕の前に立つカルラを見つめていた。祈る者、膝をつく者、ただ呆然とする者。
 畏れ、不安。言葉に出来ぬ感情が渦巻く。

「……サリス……レドゥア。盾を……早く」

 先程までとは違う、芯のある声色。
 それは確かに、姉の声だった。
 メドゥルがヴァルスの背に呟く。

「カルラが目覚めつつある……この力があれば……!
 『異形』すら恐るるに足りぬ……!」

 父の声は喜びに打ち震えていた。
 娘の目覚めと、その力に。

「──軍を進める。盾を出さぬなら戦も厭わぬ。カルラを通して神が示したのだ」

 ヴァルスは姉を見た。
 紅い瞳に映る月明かりが一瞬、揺れたように感じた。
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