ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

文字の大きさ
11 / 32
第二章

V. 僭主の確信

しおりを挟む
 トルイデア領フィレアルを出陣した翌晩────メドゥル率いる軍勢は陣幕を整えていた。

 夜営の火が、点々と野に浮かぶ。
 兵たちは鎧を解きながらも、剣を手の届く位置から離そうとしない。
 誰かが『異形』の噂を口にすれば、別の誰かがそれを遮るように咳払いをした。
 明るい声はなく、あるのは低く抑えた囁きと、薪の爆ぜる音だけだった。

 陣幕の奥、ひときわ静かな場所に、カルラは腰掛けている。
 衛兵たちの視線は、無意識のうちに、そこを避けていた。

 ヴァルスは唇を噛みしめる。
 父の決断が、常に正しかったわけではない。だが、間違いだと口にする勇気も、これまで持てなかった。

 それでも──今回は違う。
 この軍は、勝利のために集められたのではない。〝何かに追い立てられるように〟動かされている。

 その中心に、父がいる。
 そして、父の視線の先には、姉がいた。

「父上……! 今ならまだ止められます。
 サリスファに軍で圧力をかけるなど……。交渉し『盾』を借り受けるなどの方法は──」

 ヴァルスの言葉にメドゥルは鼻で笑った。

「かの城塞都市は閉じこもって久しい。守護神と崇める『盾』をそう易々とは渡さぬだろう」

「盾……を……サリス……」

 背後からカルラが呟く。
 その虚ろな瞳を見据え、ヴァルスは続ける。

「しかし! 『異形』が日を追って増える中フィレアルを発つとは……特に、変異したものは侮れません……!」

「例の『人型』とて、残してきた副団長と魔剣士隊がおれば問題はなかろう」

「しかし! この軍とていつ襲われるやも──」

 その言葉は、父の冷たい視線に切り捨てられた。


 その時、一騎の早馬がメドゥルの陣幕へ到着した。先日サリスファへ向かわせた使者が戻ったのだ。

 使者は陣幕に入りメドゥルたちに一礼すると、書面を読み上げた。

「五神器で『魔境』を退けるなど信じるに値せず。貴国の狂言に我々の至宝を渡すことはない。
 我らは『盾』に護られている」

 ヴァルスは拳を握りしめ、震えた。
 それを見た父は低く応える。

「……軍をもって圧をかけるよりあるまい。それでも聞かぬ様であれば──」

 父の鬼気迫る眼差しに空気が張り詰めた。

 ナルバが歩み出る。

「古の神の封印が揺らいでいます。急がねば、機を失いましょう」


 その時だった。篝火が、風もないのに揺れた。
 兵の一人が胸元を押さえ、息苦しそうに呻く。

 ヴァルスは、背筋に冷たいものを感じた。
 空気が、重い。
 まるで夜そのものが、陣を包み込もうとしているかのようだった。

 陣幕の外では、兵たちの気配がざわめいていた。鎧を打つ金属音、剣帯を締め直す音。
 誰もが平静を装っているが、その動きはどこか硬い。

 ヴァルスは、使者の言葉がまだ耳に残っているのを感じていた。
 ──『盾』に護られている。
 その一文が、父の中で何かを決定づけてしまったのだ。

 父は理解したのだ。
 かの城塞都市は、話し合いでは動かぬと。

 その理解が、恐ろしかった。

 ふと視線を向けると、カルラは静かに座したまま、焚き火の揺らぎを見つめていた。
 ──見ているのかどうかも、分からない。
 紅い瞳は火を映しているようで、どこか遠くを透かしているようでもあった。

 かつて、あの瞳はもっと柔らかかった。
 子供に教えるときも、自分やガルドと話すときも、相手を優しく見つめていた。

 今は違う。
 まるで、人の世ならぬ空間を見ているようだ。

「……」

 思わず呼びかけそうになり、言葉を飲み込んだ。応えが返る気がしなかった。

 メドゥルもまた、カルラを見据えた。
 その視線は、父が娘に向けるものではない。聖遺物を見るような、確信と期待に満ちた眼差しだった。

 ――父は、もう迷っていない。

 ヴァルスの胸に、冷たい理解が落ちる。
 軍を動かす理由は、神器や『異形』ではない。

 カルラが求める。
 それだけで、父にとっては十分なのだ。


 その時、遠くで金属が擦れる音がした。
 見張りの兵の声が、一拍遅れて震えを帯びる。

 空気が、変わった。

 焚き火の炎が、息を詰めたように揺らぐ。
 夜が、陣地へと滲み込んでくる。

 カルラが、伏せた顔を僅かに上げ、その唇が動いた。

「……来る」

 兵の叫びが聞こえる。

「人型だ! 人型が表れたぞ!」

 最初に倒れたのは、歳若い兵だった。
 剣を抜く暇もなく、胸を裂かれ、地に伏す。
 血の匂いが広がり、兵たちの悲鳴が夜を裂いた。

 外へ飛び出すヴァルス。
 人の形をした影が三体。魔剣兵たちが駆け寄るが、その間にも兵を切り倒しながら真っ直ぐ陣幕へ向かってくる。

「一度に三体だと……!」

 慄きながらも剣を構えた。

 迫りくる三つの刃が、間合いに入る直前──
 突如、『異形』はその動きを止めた。

「なにっ──!?」

「カルラ……!」

 父の声に振り返ると、そこには姉の姿があった。あの日以来、立ち上がることも無かったその足で、歩み出ていた。
 陣幕の前に立ち、『異形』に向かってその右手をかざす。薄く開いた瞼の奥にある紅い瞳は、『異形』たちを見つめていた。

 空気が凍ったかのように音が消えた。

「退き……なさい……」

 カルラがゆっくりと歩み出ると、三体の影は低い唸り声を出しながら後ずさった。
 中央の一体が、抗うように刃を振りかざすが、振り下ろされることは無かった。

 しばらく沈黙が続いたかと思うと、『異形』は踵を返し、人の形を崩して軟体となり、地を滑るように夜の闇の中へと消えた。

 兵たちは、陣幕の前に立つカルラを見つめていた。祈る者、膝をつく者、ただ呆然とする者。
 畏れ、不安。言葉に出来ぬ感情が渦巻く。

「……サリス……レドゥア。盾を……早く」

 先程までとは違う、芯のある声色。
 それは確かに、姉の声だった。
 メドゥルがヴァルスの背に呟く。

「カルラが目覚めつつある……この力があれば……!『異形』すら恐るるに足りぬ……!」

 父の声は喜びに打ち震えていた。
 娘の目覚めと、その力に。

「──軍を進める。盾を出さぬなら戦も厭わぬ。カルラを通して神が示したのだ」

 ヴァルスは姉を見た。
 紅い瞳に映る月明かりが一瞬、揺れたように感じた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

三歩先行くサンタさん ~トレジャーハンターは幼女にごまをする~

杵築しゅん
ファンタジー
 戦争で父を亡くしたサンタナリア2歳は、母や兄と一緒に父の家から追い出され、母の実家であるファイト子爵家に身を寄せる。でも、そこも安住の地ではなかった。  3歳の職業選別で【過去】という奇怪な職業を授かったサンタナリアは、失われた超古代高度文明紀に生きた守護霊である魔法使いの能力を受け継ぐ。  家族には内緒で魔法の練習をし、古代遺跡でトレジャーハンターとして活躍することを夢見る。  そして、新たな家門を興し母と兄を養うと決心し奮闘する。  こっそり古代遺跡に潜っては、ピンチになったトレジャーハンターを助けるサンタさん。  身分差も授かった能力の偏見も投げ飛ばし、今日も元気に三歩先を行く。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

妻が通う邸の中に

月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。

役立たずと言われダンジョンで殺されかけたが、実は最強で万能スキルでした !

本条蒼依
ファンタジー
地球とは違う異世界シンアースでの物語。  主人公マルクは神聖の儀で何にも反応しないスキルを貰い、絶望の淵へと叩き込まれる。 その役に立たないスキルで冒険者になるが、役立たずと言われダンジョンで殺されかけるが、そのスキルは唯一無二の万能スキルだった。  そのスキルで成り上がり、ダンジョンで裏切った人間は落ちぶれざまあ展開。 主人公マルクは、そのスキルで色んなことを解決し幸せになる。  ハーレム要素はしばらくありません。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

処理中です...