ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第六章

4. 選択の境界

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 ガルドは、ヴァルスを見た。
 膝を折った父の姿を、まだ視界の端で捉えているようだった。

 その姿から目を逸らすように、しかし逃げることなく、ヴァルスは背の大剣へと手を伸ばした。

 その指が、柄に触れる直前で、ほんのわずか止まった。
 迷いではない。だが、過去を振り払うには十分な一瞬だった。
 次の瞬間、剣は強く握り込まれる。
 それは決意というより、引き返せない地点を越えた者の動きだった。

「ヴァルス、もう、やめよう」

 ガルドの声は、静かだった。

「俺たちが戦う必要は無いはずだ」

 返事は、なかった。
 ヴァルスの魔剣『ヘルマトゥ』──父から継いだもの。
 黒い刀身が、まるで世界を拒むように鈍い光を帯びる。その光は反射ではない。剣そのものが、内側から滲ませるような暗さだった。

「……だまれ」

 低い声。
 感情を抑え込もうとする声音ですらない。ただ、切り捨てるための言葉。

 剣が構えられた瞬間、空気が歪む。
 圧に押され、ガルドは反射的に目を伏せた。

 次の瞬間、真横から薙がれる斬撃。
 咄嗟にフィルクレトゥを両手で構え、受ける。

 激しい衝撃が走り、腕の奥で骨が鳴った。
 火花が散る。

 黒と光がぶつかり合い、広間に鋭い音が反響した。
 ヴァルスの剣は重い。
 だが、父のそれ以上に──速い。

 横薙ぎで終わらない。
 刃は軌道を変え、角度を殺し、間合いを詰める。
 叩き潰す剣ではない。削り、追い込み、逃げ場を奪う剣。

(……殺しにきている)

 理解した瞬間、ガルドは後退をやめた。

 距離を取れば、大剣の間合いが勝る。受ければ、押し潰される。

 受けず、詰める。
 踏み込む。

 フィルクレトゥの光が強まる。

 黒刃と擦れ合い、火花が散り、視界を焼いた。
 一歩、半歩。

 間合いの内側で、互いの呼吸がぶつかる。

 ヴァルスの踏み込みが、わずかに深い。

 それは焦りではない。
 迷いごと、自分を断ち切るための一歩だった。

「……っ!」

 ガルドは剣を立て、身体を捻る。
 刃が鎧をかすめ、熱が走った。

 その瞬間──すきが見えた。
 ヴァルスの剣が、戻りきらない。

 ほんの一瞬。
 致命的になるには十分な、隙。

 考えるより早く、身体が動いた。
 フィルクレトゥが一直線に閃く。

 黒刃を弾き、踏み込み、刃を返す。

(外せ。殺すな────)

 願いのような思考が、刃に乗る。
 『剣』が、眩く光を放った。

 狙いは急所から外れた。
 止めるための一太刀。
 しかし鈍い感触が、確かにあった。

「……ぐっ」

 ヴァルスの身体が揺れ、血が石畳に散る。
 深手ではない。だが、確実に──届いた。

 側頭部から血を流すヴァルス。

 二人の距離が、わずかに開く。

 ヴァルスは一瞬、何が起きたのか分からない顔をした。
 そして遅れて、血の温度を自覚したように、眉が寄る。
 それが、止められた一撃だと悟った瞬間。
 その目に走ったのは、怒りと、拒絶だった。

 ガルドは剣先を下げず、ヴァルスを見据えた。

 息を整えながら、視界の端でメドゥルの姿を捉える。
 膝を折ったまま、こちらをただ見ていた。
 石に触れた手が、わずかに震えている。
 その指先の動きが、息子に向けた感情のようで、胸に刺さる。

「……なぜだ。なぜそこまで……」

 ガルドは、ヴァルスに向けて言った。
 自分に言い聞かせるようでもあった。

 ヴァルスは答えない。
 その目は、憎悪に震えている。

 だが、それだけではなかった。
 迷いを焼き切ろうとする、必死さがあった。

 二人を見るカルラの目が、ふと、僅かに揺れた。
 まるで、何かを思い出したかのように。
 だがその気配は、次の瞬間には、神のような静けさに塗り潰されていた。


 その背後で──
 空気が、微かに歪んだ。

 最初に異変に気づいたのは、ミリアだった。

「……動く……流れが変わった」

 神器を握る手に、思わず力がこもる。
 次の瞬間、ムゥがクリスの肩の上で低く鳴いた。
 羽毛が逆立ち、身体が強張っている。

 扉が、開き始めた。音もなく──

 空気が引き延ばされるような感覚に、ガルドは思わず歯を食いしばった。

 耳鳴りのような低い振動が、床から足裏を伝ってくる。
 まるで城そのものが、息を吸い込んでいるかのようだった。

 アディルがすぐに一歩、前へ出る。

「ミリア、後ろへ」

 盾を構えながら、ヴァルスとカルラ、そして開き始めた扉へと視線を走らせる。

 クリスは唇を噛みしめ、額に手を添えた。

「……静かすぎる。嵐の前みたい……」

 その言葉に応えるように。
 闇へと続く回廊が、ゆっくりと姿を現す。

 その前に立つ、カルラ。
 だが、その背中は先ほどまでよりも、どこか脆く見えた。

「……時間ときが、来たわ」

 感情を削ぎ落としたような声。
 ヴァルスの剣先が、わずかに揺れる。

「……まだ、終わってない」

 絞り出すような声だった。

 ガルドは、その横顔を見た。
 血に濡れ、歯を食いしばり、それでも前を向こうとする友の姿を。

 だが、扉の奥から流れ出す圧迫感が、否応なく告げていた。
 ここから先は、剣で決まる場所ではない。
 選択だけが、残されている。

「……封印の座が、あの奥に……」

 ミリアが、かすれた声で言った。

 カルラは、振り返らない。
 ただ、最奥へ向かって歩き出す。
 その背中が、闇に溶けていく。

 アディルが、ガルドの横に並ぶ。

「……止めるなら、今しかないわ」

 それはヴァルスに向けた言葉でもあり、自分自身に言い聞かせる声でもあった。

 ムゥが、小さく羽を震わせる。
 クリスはそれを一度見てから、強く頷いた。

「……行かなきゃ。ここで終わらせるために」

 誰も否定しなかった。

 ヴァルスはこちらを横目に一瞥し、カルラを追う。
 ガルドは、剣を握り締める。

 決着は、まだ先だ。
 そしてその先に、待っているものが何なのか──
 この時、まだ誰も知らなかった。
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