ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第六章

3. 終の老騎士

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 メドゥルが静かに歩み出た。
 その眼は空虚だったが、衰えを見せない剣の気迫が立ち上がった。

「ガルド……よくここまで生き延びたものだ」

 そして、腰に佩いた剣を投げ渡した。
 ガルドの前で乾いた音を立てる。
 『剣』フィルクレトゥだった。
 神器であり、父の形見────

 ガルドがそれを手に取ると、それは吸い付くように手に収まり、脈動が伝わった。


 メドゥルは大剣を振りかざし、構える。
 空気が震えた。

「……お前の父を殺させたのは、私だ」

 疑いようのない事だった。
 それでも、耳から聞いた瞬間、その事実は改めて重く落ちた。

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
 怒りと同時に、逃げ場のない事実が押し寄せる。
 目の前に立つ男は、仇であり──
 ──それでも、かつて父と並んで剣を振るっていた騎士だった。


「その憎しみで、私を斬るがいい」

 一息に、間合いが詰められた。

 老いたはずの身体から放たれた踏み込みは鋭く、床石を叩く音が遅れて響いた。
 振り下ろされる大剣は、単純な力任せではない。軌道が研ぎ澄まされている。
 避ければ追撃、半端に受ければ圧殺。そう理解した瞬間、ガルドは剣を両手で構えた。

 激突。

 鈍い衝撃が、腕を通じて骨へと伝わる。
 神器でなければ、受け止めた瞬間に剣ごと潰されていただろう。

 メドゥルの剣は、止まらない。
 振り下ろしから即座に返し、横薙ぎ、踏み込みと同時に突き。
 一つ一つが、剣士として磨かれてきた動きだった。

(……衰えていない)

 ──否。
 衰えを認めない意志が、身体を動かしている。
 だが、その意志は、勝つためのものではない。


 メドゥルは剣を振るたび、かつての戦場が脳に過った。

 隣で剣を振るっていた友クレド。
 背を預け、何度も命を救い合った日々。

 ──それでも、最後に彼を殺すと決めたのは、自分だった。
 そして、その報いを、二人の息子に背負わせた。

 ならばせめて。
 この手で終わらせるしかない。
 仇として斬られることでしか、償えぬものがあるのだと、彼自身が誰よりも理解していた。

 だから踏み込む。
 だから剣を振るう。
 勝つためではなく、斬られる資格を得るために。

 その覚悟が、老いた身体を突き動かしていた。


 ガルドは剣を斜めに滑らせ、力を逃がす。
 正面から受ければ、衝撃に身体が耐えられない。
 受け流し、角度をずらし、踏み込みを外す。

 石畳を擦る音が、剣戟に混じる。
 一歩、半歩、わずかな距離のやり取り。
 互いの呼吸が、間合いを決めていた。

 大剣が縦に振りかぶられた瞬間、ガルドは気付く。わずかな一瞬、踏み込みが浅い。

 殺しにくる斬撃なら、もう半歩深いはずだ。
 迫る刃を、ガルドは斜めに叩き落とす。
 剣を合わせた感触が、奇妙に軽い。
 ──牽制。
 次の瞬間、メドゥルの大剣が、横一文字に薙いだ。

 受けた。
 左腕に剣を添えて。

 骨が軋む音が、耳の奥で響いた。
 激痛が走り、視界が一瞬白む。

 それでも、ガルドは踏みとどまった。

 後退しながら受け身を取り、剣を立て直す。
 その隙を逃さず、斬り上げが迫る。
 切っ先が石畳を擦る。

 ──ヴァルスと同じ太刀筋。
 記憶が、刃と共に蘇る。
 稽古場。汗と埃の匂い。
 何度も叩き伏せられ、何度も立ち上がった日々。

(力で受けるな……)

 教えたのは、誰だったか。

 ガルドは腰を落とし、剣を身体に近づける。
 衝撃を、身体全体で受け、流す。

 刃が、上へ逸れた。

 ──隙。

 喉元へ、切っ先を添える。

 それ以上、踏み込まなかったのは、ガルドの意志だった。

 メドゥルの目が、わずかに見開かれる。
 次いで、その肩から力が抜けた。

 振り上げていた大剣が、手から滑り落ちる。
 乾いた音が、広間に反響した。

 喉元に触れている剣先を、メドゥルは見つめた。そして、ゆっくりと視線を上げる。

「殺さぬつもりか」

 大剣が床に落ちた音は、やけに軽く聞こえた。
 それが終わりの音だと、メドゥル自身が最初に理解した。

 腕から、力が抜けていく。
 長年、剣を握り続けてきた感触が、指先から静かに剥がれ落ちていく。
 握ろうとしたが、もう応えなかった。

「……」

 喉が鳴る。
 言葉にならない息が、かすれて漏れた。

 一歩、下がろうとして、足が動かない。
 視界が揺れ、床石が傾いたように見える。

 ────老いたのだな。

 そんな考えが、妙に穏やかに浮かんだ。

 力尽きたわけではない。
 斬られたわけでもない。
 それでも、もう立ち続ける理由が、身体から抜け落ちていた。

 膝から、崩れ落ちる。

 手が石に触れる感触が、ひどく冷たかった。
 その冷たさが、ようやく現実を伝えてくる。

 視線の先に、ガルドが立っている。

 剣を構えたまま、しかし踏み込まない。
 その姿が、かつて見知った少年と重なった。

 ────あの男の息子だ。

 誇りに思うべきなのか。
 憎むべきなのか。
 それとも、ただ……赦されたいのか。
 あの娘に────
 最後まで、父でいられなかった自分を。

 胸の奥が、わずかに震えた。

「……殺さぬのか」

 問いは、責める声音ではなかった。
 確認するような、あるいは落胆か、安堵か。

 メドゥルは小さく息を吐く。

 長い間、胸に積もっていた重みが、吐息と共に抜けていく。

 ガルドはメドゥルを見据える。

「……お前は……」

 憎悪は消えなかった。
 だが赦したい光も、そこにはあった。

「ヴァルスの、そしてカルラの父だ」

 その肩が震えた。

「最後まで、見届けてくれ」


 メドゥルが膝を折った、その奥で──
 ガルドは、気配の変化を感じ取った。

 音ではない。
 殺気でもない。

 決意が、立ち上がる気配だった。

 視線を上げると、ヴァルスがいた。

 先ほどまでと、立ち方は変わらない。
 剣も、まだ鞘にある。

 だが、違う。

 目が、見開いていた。
 無意識に剣の柄を握る指に力が入る。

 それは迷いを探す目ではない。
 答えを見つけた者の目だった────
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