ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第六章

2. 静止の遺跡

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 巨城遺跡ヘルドゥラの入り口は、山肌に穿たれた巨大な洞穴のようだった。

 人の手で作られた門ではない。山そのものが口を開け、何かを呑み込もうとしている──そんな錯覚を覚えさせる、闇の奥行きがあった。

 背後では、戦いが続いている。
 金属のぶつかる音。矢が放たれる乾いた風切り音。異形の断末魔。
 そして、それらをすべて押し潰すような竜の咆哮。

 だが、一歩。
 また一歩と闇の中へ踏み入れるにつれ、それらの音は不自然なほど急速に遠ざかっていった。
 まるで、音そのものが拒まれているかのように。

 『異形』が、いない。

 外ではあれほどまでに溢れていた影の群れが、ここには一体もいなかった。

 城の入り口付近にすら、近づいた形跡がない。
 降り注ぐ群れは、誰かに命じられたかのように、この巨城を避けている。

「……妙ね」

 アディルが低く呟いた。
 その声が、やけに大きく反響して聞こえる。

「静かすぎる」

「誘ってるわ」

 ミリアの声は、普段よりも硬かった。

「城の中へ……来い、って」

 否定できなかった。
 この感覚は、偶然ではないように思えた。

 足音が、やけに大きく響いた。
 自分たちの呼吸の音さえ、壁にぶつかって跳ね返ってくる。

 その反響のせいで、空気が澄んでいるはずなのに、胸の奥が重かった。
 息を吸うたび、肺の内側に冷たいものが溜まっていく。

 巨城遺跡ヘルドゥラは、人の歴史よりも古い────サルフェンの言葉。

 外観は風化した岩と崩落で覆われ、ただの廃墟にしか見えない。だが一歩内部に入れば、その印象は一変する。

 壁は、整然と積み上げられた巨大な石で構成されていた。
 隙間はなく、苔もなく、欠けもない。
 表面は磨かれたかのように平滑で、灯りを当てれば鈍い光を返す。

 時間が、止まっている。
 ここでは、老いも崩壊も、許されていない。


 やがて、回廊は大きく開けた。

 天井の高い広間。
 その中央に鎮座する巨大な門を見た瞬間、ガルドは無意識に呼吸を止めていた。

 石とも金属ともつかぬ質感。
 表面には五芒星が刻まれ、その周囲を取り囲むように、無数の古代文字が走っている。
 それが「邪神」と「封印」に関わるものであることだけは、肌で理解できた。

 門は、閉じている。
 だが──確かに、こちらを見ていた。
 目を逸らしても、意識だけが引き戻される。

 エテの坑道で見たものと、同じだ。

 あの時と同じ圧迫感が、胸の奥を締めつける。
 老神官の声が、脳裏をよぎる。

 ────邪神オーヴ。
 ────五柱の神による封印。

 ガルドは、そこで初めてはっきりと理解した。
 ここが、『ヘルドゥラの座』への門なのだと。

 そして。

 門の前に立つ、三つの人影を認めた瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。


 中央に立つのは────カルラ。

 白磁のような肌。
 真っ直ぐに伸びた漆黒の髪。
 黒に縁取られた紅い瞳。
 かつて姉同然と思ったその姿は、あまりにも冷たすぎた。

 人の温度が、ない。

 その視線は、人を見るものではなかった。
 世界を量り、秤にかける────神の目だった。


 その隣に立つメドゥルは、ひどく年老いて見えた。

 背筋は伸びている。
 突き立てられた剣を、確かに握っている。
 だが、かつて彼が放っていた〝騎士を率いる者の重み〟が、そこにはなかった。

 役目を終えた器。
 中身を失い、ただ立っているだけの存在に見えた。

 そして────ヴァルス。

 背に剣を帯び、戦場に立つ姿のままだ。
 だが、その気配は、ガルドの知る友のものとは明らかに違っていた。
 重い。
 暗い。
 胸の内側に闇を抱え込んだまま、無理に立っているような、不安定さ。

 ガルドの喉が鳴った。

 叫びたい衝動が喉までせり上がってきて、しかし声にはならなかった。
 ここで名を呼べば、何かが壊れてしまう気がした。

 友であるはずの姿が、あまりにも遠くに見えた。

 ヴァルスの視線が、わずかに揺れる。
 一瞬だけ、助けを求めるように。
 だが、次の瞬間、その表情は硬く閉ざされた。


 カルラが、口を開いた。

「来たのね」

 ほんの一瞬だけ、名を呼ばれた気がした。
 だが、その音は声になる前に消えた。

 声は、柔らかだった。
 幼い頃、夜毎に物語を語ってくれた、あの声音と同じ――
 けれど、そこには感情の芯がなく、空虚だった。

「やはり、あなたがここまで辿り着いた」

 一瞬、ガルドを見る視線が揺れた。
 ほんの僅か。だが、確かに。
 だが次の瞬間には、感情の色は完全に消えていた。

「世界の帳は下りた────
 神々は、あなた方を見ている」

 カルラは淡々と告げる。

「何を守り、何を捨てるのかを」

 その指が、ヴァルスの肩に触れた。
 所有を示す仕草。

「……ヴァルス」

 ガルドの声が、掠れる。
 ヴァルスは答えない。
 ただ、歯を食いしばり、視線を逸らした。


 メドゥルが、低く告げる。

「もう、引き返すことはできぬ」

 それは命令のようでいて、同時に、自分自身へ言い聞かせるような声音だった。
 剣が、石床に突き立てられる。

「カルラの意思を遂げさせる……
 それが、私に残された役目だ」


 カルラが、薄く微笑んだ。

「さあ、始めましょう」

 巨大な門の彫刻が、微かに光を帯びる。
 古の文字が脈動し、空間そのものが息を潜める。

 三つの神器と門が共鳴し、その重みを増した。
 神器は、彼女たちをその〝戦い〟から切り離していた。
 守るために──そして、立ち入らせないために。

 振り返れば、仲間たちの視線があると分かっていた。
 それでも、ガルドは振り返らなかった。

「これは……俺の戦いだ」

「だから頼む。見ていてくれ」


 その奥には、神々の座がある。
 世界のことわりを定める場所が。

 世界は、次の段階へ進もうとしている。
 その入口に、立っていた。

 逃げ場はない。
 選択だけが、残されていた。
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