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第六章
1. 最後の戦線
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竜の背から、クレストルを見下ろす。
北方、巨城遺跡ヘルドゥラの上空に、紫黒の光芒が垂直に突き刺さっていた。
空そのものが裂け、その亀裂の奥から吐き出されるように、『異形』が降り注いでいる。数は測れなかった。途切れがない。雨のように、いや、雨よりも執拗に、止むことなく。
それでも──街は、まだ生きていた。
城壁の内側に瓦礫はなく、屋根も崩れていない。
旗は降ろされ、鐘楼は沈黙していたが、祈祷所の白い煙だけが細く立ち昇っていた。
まだ、守られている。
北の道沿いには、黒い影の帯が伸びていた。踏み固められた大地が脈打つように揺れ、異形の群れが蠢きながら前進している。
その動きは無秩序に見えて、しかし確実に街へと向かっている。黒き波の上げる湿った音が、風に千切れて届いた。
街との間に、トルイデア軍の防御線があった。
盾が並び、槍が林立し、その背後に弓兵と術者が控える。布陣としては整っていた。だが、黒き群れに対してその列は薄く、ところどころ歪んでいた。
「我は、あの城には近づけぬ」
竜の声は重く、低い。空気そのものを震わせる響きだった。
「神域が近い。ここから先は、我の領分ではない」
「……分かった。陣にも助力しなければ」
ガルドが応じると同時に、竜は旋回し、防御線の背後へと降下した。
地鳴り。土煙。兵たちが思わず身を竦める。
どよめきが広がったが、歓声は上がらなかった。
竜皇の到来は救いであるはずなのに、それを喜ぶ余裕すら、彼らには残っていなかったのだ。
ガルドは地に降り立ち、周囲を見渡した。
剣を握る手が震えている者。
座り込み、俯いたまま動かない者。
鎧の隙間から覗く目は赤く充血し、焦点が定まっていない。
恐怖と疲労が、皮膚の下にまで染み込んでいた。
「指揮官はどこに!」
叫ぶと同時に、三騎が駆け寄ってきた。
「ガルド様!」
先頭は、カイルだった。
馬上で背筋を伸ばしてはいるが、顔色は青白く、息も荒い。それでも、その眼はまだ折れず、主君であるガルドを見据えていた。
その後ろに、シリスが控える。凛とした佇まいに変わりはなかったが、杖を握る手には、わずかな震えがあった。
その隣には、ミリアとアディルの姉──シリスの長女フィリオがいた。
滅多と人前に姿を現さない娘だった。
──それが今、前線にいる。それだけで、事態の深刻さが知れた。
黄金色の髪、白い肌。
その整った風貌は母や妹達に似ていたが、瞳だけが違った。奈落のように深い。
「そなた、我らの────」
竜が呟くように言いかけたが、そこで言葉を切った。
フィリオの瞳を見た瞬間、何かを確かめたように。
その沈黙だけが、場違いなほど重い。
竜が、鼻先をわずかに動かす。
血に紛れた〝何か〟──人ではない、古い匂い。
竜は目を細めた。
フィリオはミリアへ、そしてアディルへ視線を向ける。
戦場の喧噪のなかで、フィリオの眼差しだけが不思議なほど澄んでいた。
アディルが姉を見上げて言う。
「……お姉様。来てくださって、ありがとう」
返す微笑みは、かすかだった。
それでも、確かに家族のものだった。
カイルが口を開く。
「軍は士気低下が著しく、騎士団長は姿を消し……今は私が指揮を」
その言葉が放たれた瞬間、辺りの空気が目に見えて重くなった。
メドゥルが消えた。
カルラ──女王と共にこの先に居ることは、竜の言葉から推測できた。
「……シリス様と共に、動ける者をかき集めました。今は、これが限界です」
ガルドは声を上げなかった。
ただ、深く息を吸い、吐いた。
「……カイル。持ちこたえられるか」
「この期に及んで、寝ている訳にはまいりません」
苦笑とも覚悟ともつかぬ表情で、カイルは言い切る。蒼白なその口角を、わずかに上げた。
シリスが一歩前に出る。
視線は、ミリアたちが携える三つの光──神器へと向けられていた。
「三都市の光芒が消えるのを見ました。神器を目覚めさせ、影の王を倒したのですね」
「はい……しかし」
短く答えたガルドの声には、疲労が滲んでいた。
「被害は甚大です。影の王は……完全には滅びていない」
「……やはり」
シリスは唇を噛む。
「『ヘルドゥラの座』で、封印を修復せねば終わらぬのでしょう……」
竜が首をもたげて答える。
「残る神器二つは門前にある。『剣』フィルクレトゥが目覚めれば開かれるであろう」
その時、カイルが北を睨み、声を張り上げた。
「来ます!」
大地が、揺れた。
黒い波が、視界の奥で盛り上がる。
異形の第一群だ。
「盾を構えろ!」
号令と共に、前列の兵が盾を打ち合わせる。金属音が連なり、即席の壁を成した。
「矢をつがえよ! 一体たりとも通すな!」
弓兵たちが一斉に弦を引き絞る。
シリスとフィリオが杖を掲げた。
詠唱が重なる。
「エルケス・ディエアル・サトスレドゥア!」
詠唱が終わると同時に、淡い光の膜が展開した。盾の前面を覆い、地面に固定される。巨大な結界だった。
次の瞬間、異形の群れが衝突した。
矢が放たれ、小型の異形が次々と地に倒れる。
だが、その勢いは衰えない。
影の中から、人型の異形が跳躍する。盾に叩きつけられ、結界が軋む。
「押さえろ!」
「離れるな!」
悲鳴。
骨の折れる音。
竜皇が深く息を吸い込み、吐きだした。群れの一角が焼き払われる。
激しい炎が黒い影を飲み込み、消滅する。
────それでも、止まらない。
第二波が来る。
今度は、動きが違った。
互いを踏み台にし、結界の弱い箇所を狙って跳ぶ。知性の欠片が、そこにはあった。
「結界が削られています!」
シリスの声が張り詰める。
アディルが前に出て盾を構え、衝突を受け止める。衝撃に歯を食いしばる。
「ミリア!」
「うん!」
『杖』が、眩い輝きを放つ。
「バウル・ロウルジア!」
ミリアの術が『盾』に反応し、凄まじい爆風が群れを吹き飛ばす。
兵たちの士気は徐々に上がり、皆が歯を食いしばった。
────だが、防御線は確実に押されていた。
盾の縁が、わずかにずれる。それだけで、異形は逃さなかった。
隙間に爪が差し込まれ、兵の腕を裂く。
異形に入り込まれ、変異する者。
悲鳴が上がり、盾が揺れ、その揺れが列全体に伝播する。一箇所の歪みが、他の歪みを呼ぶ。
「持ちこたえろ! 下がるな!」
叫びは飛ぶが、足は思うように動かない。
疲労が、恐怖が、鎧の内側で重く沈殿していた。
倒れた兵を、すぐには引き上げられない。
屍が障害物になり、足場を奪う。
踏み外した一瞬に、影が喉元まで迫る。
「くそ……!」
誰かが剣を振るい、誰かが噛みつかれ、誰かが声を上げる間もなく地に伏す。
変異してしまった仲間を斬る剣の重みが、深くのしかかる。
それでも、列はまだ崩れなかった。
背後に、街がある。
逃げ遅れた者たち。
祈祷所に集まる老いた者と子供たち。扉を閉ざし、息を潜めている家々。
それを知っているから、前列の兵は盾を握る手を緩めなかった。自分が死ねば、その先が死ぬと分かっているからだ。
ガルドは、その光景を見渡していた。
兵の剣筋。盾の角度。一人一人の呼吸の乱れ。どれもが限界に近い。だが、まだ折れてはいない。
(……まだ、間に合う)
だが同時に、確信もあった。
(このままでは、押し切られる)
異形の数は減っていない。
むしろ、動きが洗練されつつある。
無秩序な群れではない。試すように、探るように、防御線を削っている。
──誰かが、見ている。
ガルドの背筋を、冷たいものが走った。
その直感を裏付けるように、戦場の空気が、ふっと変わった。
異形たちの動きが、一瞬だけ揃う。ざわめきが止み、黒い波が割れた。
その中央に、影が立っていた。
防御線の中央に、異様に大きな人型の影。
周囲の異形が、自然と道を開く。
「……指揮個体か」
ガルドが呟く。
次の瞬間、盾列が大きく弾かれた。
その一度の斬撃で、兵たちの身が宙を舞った。
「このままじゃ──!」
誰かの叫びが、悲鳴に変わる、その前に。
ガルドは前に出た。
その古びた剣は、名もなきものだった──しかし、三人の祈りと共に神器からの光が寄り集まり、刃に宿った。
振り下ろされた斬撃は、風を裂き、地を割り、黒い影を斬り裂いた。
続けて返す斬り上げが更に深く入り、その身体を両断する。
衝撃が、波のように広がった。
指揮個体は、声を上げる暇もなく霧散した。
──ほんの一瞬、戦場が静まった。
群れの動きが、鈍った。
「……今だ!」
ガルドが叫び、その隙を逃さずクリスが号令を出す。
「ムゥ! おねがい!」
額の『冠』が輝き、一直線に炎の翼が飛び立つ。
それは群れを切り裂き、道を開いた。
「ここは我らが防ぎます!」
カイルが叫ぶ。
「ヘルドゥラへ……!」
四人は走り出した。
背後で、再び盾が軋む音が響く。
ガルドは一度だけ、振り返った。
そこにあるのは、逃げなかった者たちの背中だった。
────必ず戻る。
その誓いを、誰に向けたのか、ガルド自身にも分からなかった。
防御線に残る兵たちか。
祈祷所に身を寄せる人々か。
それとも、この街そのものか。
背後で、再び異形の咆哮が上がる。
盾がぶつかり合い、槍が折れ、血の落ちる音が混じる。
それでも、防御線は持ちこたえていた。
カイルは前線に立ち、剣を振るう。
肩口は裂け、鎧の一部が歪んでいる。
それでも退かない。退けない。
「後ろを見るな! 前だけ見ろ!」
声が掠れ、喉から血が滲む。
それでも叫ぶ。
ここに立つ者たちの視線が、今、唯一向くべき場所を示すために。
隣で戦う若い兵が、顔の血を拭いながら問う。
「……団長は……戻ってきますよね」
一瞬、言葉に詰まる。
だが、カイルは即座に頷いた。
「戻る。必ずだ」
根拠などない。
だが、それでよかった。
希望は、捨てない。
別の場所では、シリスが力なく馬に寄りかかっていた。
その肩を、フィリオが無言で支える。
倒れることだけは、許さないという手。
結界の維持を続け、魔力は底をつきかけていた。
(……まだ、終わらせてはならない)
城へ向かった四人の背中が、脳裏をよぎる。 あの先にあるものを、彼らは知っている。 それでも進んだ。
ならば、自分が倒れるわけにはいかない。
シリスは再び杖を握り直し、強く掲げる。
フィリオもそれに倣う。
「……光は、まだ尽きていません」
淡く、しかし確かな光が、盾列の上に広がった。
防御線のさらに後方。
祈祷所の扉の隙間から、誰かが外を覗いていた。
老いた神官。
母親に抱かれた子供。
剣を持てない者たち。
彼らは戦場を見ていた。
恐怖で目を逸らすのではなく、必死に、今起きていることを焼き付けるように。
「……行った……」
誰かが呟く。
「城へ……」
巨城遺跡ヘルドゥラ。
神々の座。
終わらせるために向かった者たち。
彼らは知らない。
名も知らぬ兵が、今この瞬間にも盾を構え、命を削っていることを。
だが、信じていた。
剣を持って走り出した者たちが、この戦いに意味を与えてくれると。
祈りは、もう天だけに向かわなかった。
地に立つ者たちへ。
前へ進んだ者たちへ。
生きて戻れ。
そして、この街を救え、と。
戦場の喧騒を背に、ガルドたちは巨城へと向かっていった。
北方、巨城遺跡ヘルドゥラの上空に、紫黒の光芒が垂直に突き刺さっていた。
空そのものが裂け、その亀裂の奥から吐き出されるように、『異形』が降り注いでいる。数は測れなかった。途切れがない。雨のように、いや、雨よりも執拗に、止むことなく。
それでも──街は、まだ生きていた。
城壁の内側に瓦礫はなく、屋根も崩れていない。
旗は降ろされ、鐘楼は沈黙していたが、祈祷所の白い煙だけが細く立ち昇っていた。
まだ、守られている。
北の道沿いには、黒い影の帯が伸びていた。踏み固められた大地が脈打つように揺れ、異形の群れが蠢きながら前進している。
その動きは無秩序に見えて、しかし確実に街へと向かっている。黒き波の上げる湿った音が、風に千切れて届いた。
街との間に、トルイデア軍の防御線があった。
盾が並び、槍が林立し、その背後に弓兵と術者が控える。布陣としては整っていた。だが、黒き群れに対してその列は薄く、ところどころ歪んでいた。
「我は、あの城には近づけぬ」
竜の声は重く、低い。空気そのものを震わせる響きだった。
「神域が近い。ここから先は、我の領分ではない」
「……分かった。陣にも助力しなければ」
ガルドが応じると同時に、竜は旋回し、防御線の背後へと降下した。
地鳴り。土煙。兵たちが思わず身を竦める。
どよめきが広がったが、歓声は上がらなかった。
竜皇の到来は救いであるはずなのに、それを喜ぶ余裕すら、彼らには残っていなかったのだ。
ガルドは地に降り立ち、周囲を見渡した。
剣を握る手が震えている者。
座り込み、俯いたまま動かない者。
鎧の隙間から覗く目は赤く充血し、焦点が定まっていない。
恐怖と疲労が、皮膚の下にまで染み込んでいた。
「指揮官はどこに!」
叫ぶと同時に、三騎が駆け寄ってきた。
「ガルド様!」
先頭は、カイルだった。
馬上で背筋を伸ばしてはいるが、顔色は青白く、息も荒い。それでも、その眼はまだ折れず、主君であるガルドを見据えていた。
その後ろに、シリスが控える。凛とした佇まいに変わりはなかったが、杖を握る手には、わずかな震えがあった。
その隣には、ミリアとアディルの姉──シリスの長女フィリオがいた。
滅多と人前に姿を現さない娘だった。
──それが今、前線にいる。それだけで、事態の深刻さが知れた。
黄金色の髪、白い肌。
その整った風貌は母や妹達に似ていたが、瞳だけが違った。奈落のように深い。
「そなた、我らの────」
竜が呟くように言いかけたが、そこで言葉を切った。
フィリオの瞳を見た瞬間、何かを確かめたように。
その沈黙だけが、場違いなほど重い。
竜が、鼻先をわずかに動かす。
血に紛れた〝何か〟──人ではない、古い匂い。
竜は目を細めた。
フィリオはミリアへ、そしてアディルへ視線を向ける。
戦場の喧噪のなかで、フィリオの眼差しだけが不思議なほど澄んでいた。
アディルが姉を見上げて言う。
「……お姉様。来てくださって、ありがとう」
返す微笑みは、かすかだった。
それでも、確かに家族のものだった。
カイルが口を開く。
「軍は士気低下が著しく、騎士団長は姿を消し……今は私が指揮を」
その言葉が放たれた瞬間、辺りの空気が目に見えて重くなった。
メドゥルが消えた。
カルラ──女王と共にこの先に居ることは、竜の言葉から推測できた。
「……シリス様と共に、動ける者をかき集めました。今は、これが限界です」
ガルドは声を上げなかった。
ただ、深く息を吸い、吐いた。
「……カイル。持ちこたえられるか」
「この期に及んで、寝ている訳にはまいりません」
苦笑とも覚悟ともつかぬ表情で、カイルは言い切る。蒼白なその口角を、わずかに上げた。
シリスが一歩前に出る。
視線は、ミリアたちが携える三つの光──神器へと向けられていた。
「三都市の光芒が消えるのを見ました。神器を目覚めさせ、影の王を倒したのですね」
「はい……しかし」
短く答えたガルドの声には、疲労が滲んでいた。
「被害は甚大です。影の王は……完全には滅びていない」
「……やはり」
シリスは唇を噛む。
「『ヘルドゥラの座』で、封印を修復せねば終わらぬのでしょう……」
竜が首をもたげて答える。
「残る神器二つは門前にある。『剣』フィルクレトゥが目覚めれば開かれるであろう」
その時、カイルが北を睨み、声を張り上げた。
「来ます!」
大地が、揺れた。
黒い波が、視界の奥で盛り上がる。
異形の第一群だ。
「盾を構えろ!」
号令と共に、前列の兵が盾を打ち合わせる。金属音が連なり、即席の壁を成した。
「矢をつがえよ! 一体たりとも通すな!」
弓兵たちが一斉に弦を引き絞る。
シリスとフィリオが杖を掲げた。
詠唱が重なる。
「エルケス・ディエアル・サトスレドゥア!」
詠唱が終わると同時に、淡い光の膜が展開した。盾の前面を覆い、地面に固定される。巨大な結界だった。
次の瞬間、異形の群れが衝突した。
矢が放たれ、小型の異形が次々と地に倒れる。
だが、その勢いは衰えない。
影の中から、人型の異形が跳躍する。盾に叩きつけられ、結界が軋む。
「押さえろ!」
「離れるな!」
悲鳴。
骨の折れる音。
竜皇が深く息を吸い込み、吐きだした。群れの一角が焼き払われる。
激しい炎が黒い影を飲み込み、消滅する。
────それでも、止まらない。
第二波が来る。
今度は、動きが違った。
互いを踏み台にし、結界の弱い箇所を狙って跳ぶ。知性の欠片が、そこにはあった。
「結界が削られています!」
シリスの声が張り詰める。
アディルが前に出て盾を構え、衝突を受け止める。衝撃に歯を食いしばる。
「ミリア!」
「うん!」
『杖』が、眩い輝きを放つ。
「バウル・ロウルジア!」
ミリアの術が『盾』に反応し、凄まじい爆風が群れを吹き飛ばす。
兵たちの士気は徐々に上がり、皆が歯を食いしばった。
────だが、防御線は確実に押されていた。
盾の縁が、わずかにずれる。それだけで、異形は逃さなかった。
隙間に爪が差し込まれ、兵の腕を裂く。
異形に入り込まれ、変異する者。
悲鳴が上がり、盾が揺れ、その揺れが列全体に伝播する。一箇所の歪みが、他の歪みを呼ぶ。
「持ちこたえろ! 下がるな!」
叫びは飛ぶが、足は思うように動かない。
疲労が、恐怖が、鎧の内側で重く沈殿していた。
倒れた兵を、すぐには引き上げられない。
屍が障害物になり、足場を奪う。
踏み外した一瞬に、影が喉元まで迫る。
「くそ……!」
誰かが剣を振るい、誰かが噛みつかれ、誰かが声を上げる間もなく地に伏す。
変異してしまった仲間を斬る剣の重みが、深くのしかかる。
それでも、列はまだ崩れなかった。
背後に、街がある。
逃げ遅れた者たち。
祈祷所に集まる老いた者と子供たち。扉を閉ざし、息を潜めている家々。
それを知っているから、前列の兵は盾を握る手を緩めなかった。自分が死ねば、その先が死ぬと分かっているからだ。
ガルドは、その光景を見渡していた。
兵の剣筋。盾の角度。一人一人の呼吸の乱れ。どれもが限界に近い。だが、まだ折れてはいない。
(……まだ、間に合う)
だが同時に、確信もあった。
(このままでは、押し切られる)
異形の数は減っていない。
むしろ、動きが洗練されつつある。
無秩序な群れではない。試すように、探るように、防御線を削っている。
──誰かが、見ている。
ガルドの背筋を、冷たいものが走った。
その直感を裏付けるように、戦場の空気が、ふっと変わった。
異形たちの動きが、一瞬だけ揃う。ざわめきが止み、黒い波が割れた。
その中央に、影が立っていた。
防御線の中央に、異様に大きな人型の影。
周囲の異形が、自然と道を開く。
「……指揮個体か」
ガルドが呟く。
次の瞬間、盾列が大きく弾かれた。
その一度の斬撃で、兵たちの身が宙を舞った。
「このままじゃ──!」
誰かの叫びが、悲鳴に変わる、その前に。
ガルドは前に出た。
その古びた剣は、名もなきものだった──しかし、三人の祈りと共に神器からの光が寄り集まり、刃に宿った。
振り下ろされた斬撃は、風を裂き、地を割り、黒い影を斬り裂いた。
続けて返す斬り上げが更に深く入り、その身体を両断する。
衝撃が、波のように広がった。
指揮個体は、声を上げる暇もなく霧散した。
──ほんの一瞬、戦場が静まった。
群れの動きが、鈍った。
「……今だ!」
ガルドが叫び、その隙を逃さずクリスが号令を出す。
「ムゥ! おねがい!」
額の『冠』が輝き、一直線に炎の翼が飛び立つ。
それは群れを切り裂き、道を開いた。
「ここは我らが防ぎます!」
カイルが叫ぶ。
「ヘルドゥラへ……!」
四人は走り出した。
背後で、再び盾が軋む音が響く。
ガルドは一度だけ、振り返った。
そこにあるのは、逃げなかった者たちの背中だった。
────必ず戻る。
その誓いを、誰に向けたのか、ガルド自身にも分からなかった。
防御線に残る兵たちか。
祈祷所に身を寄せる人々か。
それとも、この街そのものか。
背後で、再び異形の咆哮が上がる。
盾がぶつかり合い、槍が折れ、血の落ちる音が混じる。
それでも、防御線は持ちこたえていた。
カイルは前線に立ち、剣を振るう。
肩口は裂け、鎧の一部が歪んでいる。
それでも退かない。退けない。
「後ろを見るな! 前だけ見ろ!」
声が掠れ、喉から血が滲む。
それでも叫ぶ。
ここに立つ者たちの視線が、今、唯一向くべき場所を示すために。
隣で戦う若い兵が、顔の血を拭いながら問う。
「……団長は……戻ってきますよね」
一瞬、言葉に詰まる。
だが、カイルは即座に頷いた。
「戻る。必ずだ」
根拠などない。
だが、それでよかった。
希望は、捨てない。
別の場所では、シリスが力なく馬に寄りかかっていた。
その肩を、フィリオが無言で支える。
倒れることだけは、許さないという手。
結界の維持を続け、魔力は底をつきかけていた。
(……まだ、終わらせてはならない)
城へ向かった四人の背中が、脳裏をよぎる。 あの先にあるものを、彼らは知っている。 それでも進んだ。
ならば、自分が倒れるわけにはいかない。
シリスは再び杖を握り直し、強く掲げる。
フィリオもそれに倣う。
「……光は、まだ尽きていません」
淡く、しかし確かな光が、盾列の上に広がった。
防御線のさらに後方。
祈祷所の扉の隙間から、誰かが外を覗いていた。
老いた神官。
母親に抱かれた子供。
剣を持てない者たち。
彼らは戦場を見ていた。
恐怖で目を逸らすのではなく、必死に、今起きていることを焼き付けるように。
「……行った……」
誰かが呟く。
「城へ……」
巨城遺跡ヘルドゥラ。
神々の座。
終わらせるために向かった者たち。
彼らは知らない。
名も知らぬ兵が、今この瞬間にも盾を構え、命を削っていることを。
だが、信じていた。
剣を持って走り出した者たちが、この戦いに意味を与えてくれると。
祈りは、もう天だけに向かわなかった。
地に立つ者たちへ。
前へ進んだ者たちへ。
生きて戻れ。
そして、この街を救え、と。
戦場の喧騒を背に、ガルドたちは巨城へと向かっていった。
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