ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第五章

V. 断裂の鎖

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 ヴァルスは、呆然と立ちつくしていた。

 何もかも、分からなくなった。

 滅びの宣言、街の混乱、絶望。
 父はあの瞬間から、覇気を失い、姉──女王の言うがままとなった。
 それは恐れからなのか、それともまだ娘として想うあまりなのか。
 空洞のような目で、ただ前を見ていた。

 虚な議場に据えられた玉座。
 議論する者も、抗議する者も、もうここにはいない。

 何かを間違えたのか。
 抱いていた疑念の全てを、訴えるべきだったのか。父を裏切って。
 しかし父を、姉を否定する言葉を、自分は持っていなかった。


「ヴァルス、これは神意。ヒトへの試練なのよ。
 私が代わりに伝えているの」

 姉の姿をしたものは饒舌だったが、その言葉は姉のものとは思えない。
 その沈んだ紅の瞳が、ヴァルスを見つめる。

「ヒトはどちらを選ぶのかしら。
 滅びによる救済か────縛めによる緩慢な自滅か」


 陽光が暗雲に遮られ、昼間にも関わらず薄暗かった。
 城下では市場の賑わいが消え、祈祷所だけが明かりを灯している。

 ────人の滅び。世界の終焉。

 誰もが嘆き、やり場のない叫びを静かに抱えていた。
 泣き声を止められない子供と、膝をついて祈る母。
 酒に溺れる者。不行跡ふぎょうせきをはたらく者。
 兵舎では行き場を失った鎧の音が、寒気の中で細く響いていた。


 空が落ち窪み、遠く三つの方角に紫黒の光芒が現れてから三日後。南の光が消えた。

「試練を超え、神器がひとつ目覚めたわ」

 カルラは窓から赤黒い瞳を見据える。

「あの者たちならきっと、残りも」

 そしてヴァルスに向き直った。

「最後の試練は────あなたよ」


 言葉が胸の奥に沈んだ瞬間、足元が消えた。

 色も音も剥がれ落ち、世界が裏返る。

 落ちているはずなのに、風は感じなかった。
 上下の感覚が曖昧になり、どこまでが自分で、どこからが世界なのかも分からなくなる。
 衣服を纏っている感触すら、いつの間にか消えていた。
 これは夢なのか、と理解しようとするよりも先に、抗う意味がないと、心のどこかが悟っていた。

 脳裏に響く姉の声。

「ヴァルス……私のヴァルス」

(姉さん)


 幼い頃の記憶が、滲むように浮かび上がる。
 夜泣きをした自分を、カルラが抱き上げていた。
 父は執務で不在。母の姿は、思い出せない。
 あの頃から、自分を見てくれていたのは、姉だけだった。

 姉であり、母でもあった──
 それはガルドにとっても。


「────ガルド」

 胸の奥が、僅かに震えた。


「あなたは、ガルドをどう思ってた?」

(──友だ)


「羨ましかった?」

(嫡流と庶流、生まれが違うだけ)


「疎ましかった?」

(そんな事はない)


「憎かった……?」

(そんな事は、ない……!)


「ヴァルス。あなたは一度も選ばれなかった」

 声はひどく優しかった。

 胸の奥に沈殿していた感情が、ゆっくりと攪拌される。
 怒りでも、悲しみでもない。
 しまい込んでいた感情。

(どうしてだ。剣は俺の方が上だ)


「選ばれるのはいつもガルド」

(学も、礼法も──
 領主として必要なものは──
 全部俺が持っているのに)


「父からも。国からも。誰からも」

(それでも、人はガルドを見る)


「だから今度は、私が選ぶ」

(俺には姉さんだけが)


 縋るような思考を、
 カルラは抱きしめるように受け止めた。

「小さい頃、泣き虫だったあなたを抱きしめたの、覚えてる?」

 素肌の温もりが触れた。
 頬に、首に、胸に、熱が伝わる。
 冷えた心の奥底を癒すように。

 その指はやさしかった。
 安心が、広がる。
 その代わりに──胸の奥で、何かが静かに削れていった。

 思考が、緩む。
 正しさや誇りが、どうでもよくなる。


 祝宴の記憶がよみがえった。
 父は最初にガルドを称え、臣下は皆、その名を口にした。
 ヴァルスの椅子の前には、冷めた料理だけが残っていた。

 功績があればそれはガルドのものに。
 失態があればそれは自分のものになった。



「選ばれるのは、いつもガルド」

 囁きは、真実の形をしていた。

(なら────正すだけだ。
 俺のものを、俺の場所を)


「私はあなたが好きよ」

(姉さんだけが────)


「でも、ガルドも好き」

(……)


「ガルドを愛してる」

 ──何かが、ひび割れた。


「ガルドが、試練に破れたら──」

 ──奥底にしまい込んでいた闇が、染み出るように心を支配し始めた。


「私は、あなただけのものに」

(ガルドさえ────)


 思考の先で、何かが静かに形を取った。

(奪うんじゃない。取り戻すだけだ。
 本来、俺が持つはずだったものを)



 視界が開ける。
 そこには姉の姿があった。

 微笑んでいた。
 あの日、幼いヴァルスを労ったときと、同じ笑みで。
 今は、疑いようもなく、愛する姉────

 ヴァルスはゆっくりと立ち上がった。
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