ヘルドゥラの神々:漆黒の女王

渡弥和志

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第五章

4. 愚癡の王

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 息が、荒い。

 喉の奥が焼け、鉄の味が張り付いている。
 刃を払うたび、黒い体液が線を引き、地面で泡立った。
 倒しても、倒しても、間を埋めるように『異形』が迫ってくる。

 踏みしめた足元には、すでに屍と破片が幾層にも積み重なり、
 立っているのか、沈んでいるのかさえ分からない。
 靴底に伝わる柔らかさが、どれが土でどれが肉なのか、次第に判別できなくなる。

 叫び声と金属音と、どこかで上がる泣き声。
 それらが遠くも近くも聞こえ、世界の距離感が崩れていく。


 トルイデアの上空に、巨大な黒い輪が現れてから──
 影は尽きることなく落ちてきた。
 ばらばらと、雨のように。

 だが雨とは違う。
 その一粒一粒が牙と爪を持ち、呻き、噛みついてくる。
 落ちた瞬間、地を這い、すぐさまこちらを見つける。
 生まれたばかりのものたちが、殺すことだけは知っている。

 輪は、静かだった。
 ただ、音もなく空を塞ぎ、町ごと呑み込もうとしている。
 静かであることが、何よりも恐ろしかった。
 耳を澄ませたくなるほど静かなのに、胸の奥で何かがずっと鳴っている。
 しかも、降るほどに勢いは増し、
 戦列の奥へ奥へと侵食しようとしていた。

「前を割るな! 前列、詰めろ! 盾は縁を重ねろ!」

 ガルドは叫んだ。
 喉はすでに潰れかけているのに、声はまだ絞り出される。
 血と汗にまみれた手で指揮を示す。
 指の関節は腫れ、握りしめるたび悲鳴を上げていた。

 左側では、水竜中隊が陣形を組み直していた。
 乱れた呼吸。傷を布で押さえながら踏み止まる兵。
 それでもジャクスは声を張り上げる。

「寄れ! 肩で支えろ! 隙間を作るな! 一体も通すな……!」

 盾が、押された。
 個々の重さではない。数の圧力だ。
 波に呑まれそうになる船のように、列全体がきしむ。
 板金が悲鳴を上げ、指の骨が軋んだ。
 喉に溜まった血の味がもう一度こみ上げる。
 何歩か下がった者の踵が、屍に滑る。

「押し戻せ! ここが崩れたら、全部持っていかれるぞ!」

 盾の裏から槍が突き出された。
 肉を裂き、骨を貫き、引き抜かれるたびに黒い液が弧を描く。
 その臭いは、血とも腐臭とも違い、喉の奥を刺した。
 目が痛む。吐き気が込み上げる。
 だが、それを踏み越える影が、また次の影を押し出してくる。

(きりがない……! しかしここで止めるしか……!)

 息が合わなければ、本陣が割られる。
 一箇所でも穴が空けば、そこから一気に崩壊する。
 それを、全員が分かっていた。
 誰一人、退くという言葉を口にしない。
 それがどれほど愚かでも、ここで退けばすべてが終わる。

 背後では、ミリアが『杖』ラルスアトスを握り締めていた。
 振り返らない。
 しかし、誰よりも強く、そこに立っていると分かる。
 その背中が、薄い衣一枚でも、城壁より頼もしく見えた。

エルケス・出でよ、サトスヴァラ爆ぜる光!」

 光の玉が群れの中で炸裂し、影を焼いた。
 しかし、それはすぐに埋め尽くされる。
 焼け残った影が、焦げた殻を脱ぐように形を取り戻し、再び迫る。

 トルイデア魔剣士隊が、円を描くように前へ出た。
 剣がうなり、青白く光る。
 斬撃が空に走り、線となって異形を斬り裂いた。
 しかし、その剣士もまた、別個体からの斬撃を受け、倒れる。

 ほとばしる血の臭い。
 魔力の焦げる匂い。
 世界が騒音と光で満たされる。
 それでも闇は明けない。ただ持ちこたえているだけだ。

「これ以上、近づけるな!」

 魔剣士の一人が歯を食いしばる。
 腕が震え、柄を握る指が開きそうになる。
 それでも剣は落ちない。
 自分の足が震えていることに、本人だけが気づいていない。

エルケス・出でよ、サトスメトゥ光の矢!」

 ミリアの喚ぶ八本の光の矢が、影を射る。
 しかし、数が多すぎた。

(この『杖』があっても、私の力では——)

 その背後で守られる人々は、口々に祈っていた。
 震える声で名前を呼び、空を仰ぎ、両手を組む。
 泣き声。嗚咽。誰かの叫び。

 それを嘲笑うかのように、『異形』は増え続けた。

 ——違う。

 祈りが、吸われていた。
 ミリアは、はっきりと悟る。

 人々の声は空へではなく、頭上の輪へと引き寄せられていく。

(あれは、奪うための口……)

 神官たちが、人々が、子供が──なお天を仰ぎ祈りを続ける。
 罪をお許しください────
 苦しみから解放してください────
 救いをください──── 
 だが、その響きは途中で折れ、影の奥へ沈み、消えた。

 胸が冷える。
 怒りでも恐怖でもない、もっと深い寒さ。

「やめて」

 ミリアは静かに言った。
 叱るようでも、慰めるようでもなかった。
 ただ、迷子に声をかけるように。

「空の上じゃない。悔いでも救いでもない──
 ────今を見て」

 高い場所。人々の視線。祈りの向き。
 そこでなら、届く。

 はっとしたように息を吸い込み、振り返る。

「ガルド! 私を城の一番高い塔へ!」

 意図は分からなかった。
 だが、その声に迷いはなかった。
 ガルドは短く頷く。

「ジャクス! ここは頼む!」

「任されました!」

 ミリアの手を取り、二人は城へ駆け出す。
 瓦礫を飛び越え、血の跡を踏み、かつて二人が出会った場所──中庭を通り抜ける。

 日だまりの中、笑い声が響いていた。
 幼き日の暖かな思い出、小さな約束────
 記憶と現実がぶつかり、胸の奥がきしむ。

(守らなければ、二度と笑い合えない)

 塔を駆け上がる。
 息が切れ、脚が悲鳴を上げる。
 だが、手だけは離さなかった。

 やがて、空がひらけた。
 巨大な輪の中心が、真正面にあった。
 ミリアは杖を高く掲げる。

エルケス・出でよ、サトス!」

 眩い光が地表を舐め、影を押し退ける。
 振り向いた人々の瞳に、その光が映る。

(祈りは、天へ手放す言葉じゃない。
 抱きしめて、歩く力にしなさい)

 母の声が胸の奥でよみがえった。

「私が、しるべになる」

 宣言とともに、彼女は目を閉じた。
 祈りの向きが変わる。
 崩れた家を抱く母、倒れた兵士、名もない嘆き。
 折れた指で神の証を握りしめる神官。
 壊れた玩具を抱えたまま泣く少年。
 叫び。後悔。赦しを乞う声。

 それらすべてが、糸のように彼女へ集まる。
 杖が眩い光を放ち、その重さを増した。
 だが、ミリアは杖を握り直す。

 重い。
 熱い。
 視界が白くはじける。
 膝が折れかける——が、踏み止まる。

「救済じゃない、後悔でもない……!
 ──生きたい。立ちたい。進みたい」

 言葉に、形が与えられる。

 母から受け継いだ杖が淡く震え、
 祈りが、術式へと変わる。
 頭上の輪が、軋んだ。
 不快な音。
 世界そのものが歪むような音。

エルケス・出でよ、サトスミラリアス光の裁き!」

 束ねられた光が影へ放たれた。

 静寂が裂け、輪の王が照らし出される。
 形の定まらぬ黒。
 その表面から、無数の腕と、口と、目。
 光の筋が広がり、輪を射抜く。
 叫び声が、空へ散った。

「もっと、祈って……!
 天ではなく、今ここに!
 生きたいと! 前に、進みたいと……!」

 『杖』は太陽と見紛うばかりに輝き、
 脈打つたび、影が剥がれ落ちる。


 やがて光が収まり、空に残された輪郭が軋むように震えたとき、戦場にいた者たちは、すぐにはそれを理解できなかった。

 ──止まった?

 最前線で盾を構えていた兵の一人が、思わず息を呑む。
 押し寄せていた圧力が、確かに弱まっている。
 波のようだった群れが、途切れたわけではない。だが、踏み込んでくる勢いが、明らかに鈍っていた。

「……押し返せる……」

 誰かが呟く。
 確信のない声だったが、その一言が連鎖した。

「影が……引いてるぞ……!」

 異形たちは消えてはいない。
 だが、先ほどまでの〝殺すためだけの勢い〟が失われ、動きに迷いのような間が生じていた。

 盾を打ち鳴らしていた圧力が緩み、前列の兵たちは、初めて一歩を踏みとどめる余裕を得る。

「押し返せ! 今だ!」

 ジャクスの声が、掠れながらも戦場を貫いた。
 槍が突き出され、剣が振るわれる。
 先ほどまでなら飲み込まれていたはずの反撃が、確かに〝届く〟。

 それを見て、誰かが笑った。
 笑い声とも、泣き声ともつかない、壊れたような音だった。

「……生きてる」

 自分の手を見る。
 震えているが、まだ握れる。
 隣を見る。
 倒れていない。立っている。

 戦場に、ざわめきが戻ってくる。
 絶望ではない。

 「まだ、やれる」

 その感覚だけが、確かに共有された。
 後方では、祈っていた人々が上を見上げたまま、言葉を失っていた。

 だが、その視線はもう、ただ天を仰ぐものではない。
 高い塔。
 そこから放たれた光。
 誰かが、あそこに立っている。

「あの光……」

「……城の上だ」

 神官の一人が、震える声で呟く。

「祈りが……返ってきた……」

 祈りは消えていない。
 ただ、奪われなくなっただけだ。
 誰かに吸われるものではなく、自分の胸に残るものとして。
 その変化に、言葉を失ったまま、人々は再び前を向いた。

 異形は、まだいる。
 戦いは、終わっていない。

 それでも──
 皆が、ほんのわずかに、息を吸い直した。
 その光の源が誰なのかを、彼らはまだ知らない。
 ただ、光が示した標だけを、今は信じていた。


 ミリアの膝が折れ、倒れ込む。
 ガルドが駆け寄り、抱きとめた。

「私……みんなの標になれたかな」

 潤む瞳で見つめてくる。

「……なったさ。影を押し返した」

「ほんとはね……少し、怖かったの」

 胸元に顔を隠すように、声が小さくなる。

「私の標は、あなた。
 ガルドの背があったから、立ち上がれた」

 ガルドは小さく息をのみ、照れ隠しのように視線を逸らした。

「……だったら、これからも、前に立つ。
 でも……無理はしないでくれ。
 君に何かあったら────」

 そのとき。
 空気が震えた。

 遠い空の向こうから、はばたく影が見える。
 燃えるような鱗。紅蓮の尾。

 赤き竜だった。
 その背には、二人の仲間の姿と、それぞれに輝く神器があった。

 それに呼応するように、『杖』もまた光を放つ。

 竜は言う。

「三つの神器は目覚めた。
 残りはヘルドゥラへ向かっている」

「行こう。終わらせる為に」

 漆黒の女王の元へ────
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