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2 この男は駄目だ
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カレルの肩がびくりと揺れた。
「当然でしょう。認める理由がございませんもの」
「だが僕にも事情が……」
「皆、事情はありますわ」
思ったより声が冷えていた。
けれど抑える気にはならなかった。
「お姉様方は宮廷に近い家へ嫁ぎ、それぞれに気苦労を抱えております。お父様は国境の備えのため、毎年頭を悩ませておいでです。私もまた、この領地を継ぐために学んでまいりました」
「エーディア!」
「そのうえで申し上げますけれど、貴方の“その気になれない”は、我が家にも国境にも何の益もございません」
カレルの顔が青ざめた。
「そこまで言わなくてもいいだろう」
「では、どこまでならよろしいのですか?」
私が問い返すと、彼は黙った。
たぶん彼は、私が傷つき、取り乱し、それでもなお彼に縋るとでも思っていたのだろう。
あるいは、困った婚約者を気遣うように、秘密を共有して穏便に済ませてやると。
だが無理だった。
この男は、自分の弱さを告白しているのではない。
その弱さの始末を、私に押しつけようとしている。
私は立ち上がった。
「よろしいですわ。お父様には私から申し上げます」
「待ってくれ、エーディア」
彼も慌てて立ち上がる。
「本当に君に恨みがあるわけじゃないんだ。君は賢いし、伯爵家の娘として申し分ないと思っている」
「それはどうも」
「だから、良い縁談があれば僕は祝福する。心から」
その言葉に、私は一瞬だけ目を細めた。
祝福。
この期に及んで、まだそんな言葉を自分が口にしてよい立場だと思っているのか。
「結構ですわ」
私は一礼した。
「今までありがとうございました。ごきげんよう」
彼が何か言いかけたが、もう聞く必要はなかった。
私は応接間を出て、そのまま侯爵家の廊下を早足に進んだ。
磨き込まれた床に、自分の靴音だけが妙に高く響く。
窓の外では風が枝を鳴らしていた。
馬車に乗り込んでから、ようやく私は深く息を吐いた。
怒っているのか、呆れているのか、自分でもまだよくわからない。
ただひとつはっきりしているのは、これは単なる若い男女の行き違いではないということだった。
ヴァンゼ領は、豊かだが危うい。
三つの国に接し、言葉も訛りも文化も入り混じる。
旅人の往来が多いということは、噂も密約も流れ込みやすいということだ。
あの領地で何かが起これば、隣接する我がルーヴェン領が支える――その前提で、この婚約は成り立っていた。
それを、彼は自分の気分で切ろうとした。
家と家の取り決めを破るだけではない。
下手をすれば、国境の均衡そのものにひびを入れる。
◇
館へ戻ると、父はまだ執務室にいた。
「お父様、少しよろしいでしょうか」
扉を開けると、父は机の上の書類から顔を上げた。
私の顔色を見て、すぐに表情を改める。
「どうした、エーディア」
「ヴァンゼ侯爵家のカレル様より、婚約解消を望むと告げられました」
父は数秒、言葉を失った。
それから静かに、しかし確かに怒りを含んだ声で言った。
「……何だと?」
私は応接間で交わした会話を、できるだけそのまま父に伝えた。
父の顔は聞くほどに険しくなっていく。
「愛人を認めろだと?」
「ええ」
「この国境の情勢で、そのような寝言を抜かしたのか、あの男は」
父は立ち上がると、壁に掛けられた地図の前に歩み寄った。
我が領地、ヴァンゼ領、その向こうに広がる三国。
いずれもここ数年、決して穏やかではない。
「馬鹿なことをしたものだ」
「本当に」
私が答えると、父は頷いた。
「エーディア、お前はどうしたい」
「急ぎ、他の隣接領との話を進めるべきかと存じます。お姉様方にも知らせて、王都の反応も見ておきたいですわ」
父の目に、わずかに安堵がよぎった。
娘が泣き崩れるより先に次の手を口にしたことを、喜んでいるのだろう。
「そうだな。すぐに使者を出す」
「お願いします」
父は地図を見たまま、低く言った。
「貴族の務めを、己の気分ほどにも思っていない男に、国境領は任せられん」
その言葉に、私は無言で頷いた。
婚約を破棄された。
女としては屈辱なのかもしれない。
けれど今の私の胸にあるのは、傷ついた乙女らしい悲しみよりも、もっと冷えた感情だった。
――ああ、この男は駄目だ。
それだけが、はっきりしていた。
「当然でしょう。認める理由がございませんもの」
「だが僕にも事情が……」
「皆、事情はありますわ」
思ったより声が冷えていた。
けれど抑える気にはならなかった。
「お姉様方は宮廷に近い家へ嫁ぎ、それぞれに気苦労を抱えております。お父様は国境の備えのため、毎年頭を悩ませておいでです。私もまた、この領地を継ぐために学んでまいりました」
「エーディア!」
「そのうえで申し上げますけれど、貴方の“その気になれない”は、我が家にも国境にも何の益もございません」
カレルの顔が青ざめた。
「そこまで言わなくてもいいだろう」
「では、どこまでならよろしいのですか?」
私が問い返すと、彼は黙った。
たぶん彼は、私が傷つき、取り乱し、それでもなお彼に縋るとでも思っていたのだろう。
あるいは、困った婚約者を気遣うように、秘密を共有して穏便に済ませてやると。
だが無理だった。
この男は、自分の弱さを告白しているのではない。
その弱さの始末を、私に押しつけようとしている。
私は立ち上がった。
「よろしいですわ。お父様には私から申し上げます」
「待ってくれ、エーディア」
彼も慌てて立ち上がる。
「本当に君に恨みがあるわけじゃないんだ。君は賢いし、伯爵家の娘として申し分ないと思っている」
「それはどうも」
「だから、良い縁談があれば僕は祝福する。心から」
その言葉に、私は一瞬だけ目を細めた。
祝福。
この期に及んで、まだそんな言葉を自分が口にしてよい立場だと思っているのか。
「結構ですわ」
私は一礼した。
「今までありがとうございました。ごきげんよう」
彼が何か言いかけたが、もう聞く必要はなかった。
私は応接間を出て、そのまま侯爵家の廊下を早足に進んだ。
磨き込まれた床に、自分の靴音だけが妙に高く響く。
窓の外では風が枝を鳴らしていた。
馬車に乗り込んでから、ようやく私は深く息を吐いた。
怒っているのか、呆れているのか、自分でもまだよくわからない。
ただひとつはっきりしているのは、これは単なる若い男女の行き違いではないということだった。
ヴァンゼ領は、豊かだが危うい。
三つの国に接し、言葉も訛りも文化も入り混じる。
旅人の往来が多いということは、噂も密約も流れ込みやすいということだ。
あの領地で何かが起これば、隣接する我がルーヴェン領が支える――その前提で、この婚約は成り立っていた。
それを、彼は自分の気分で切ろうとした。
家と家の取り決めを破るだけではない。
下手をすれば、国境の均衡そのものにひびを入れる。
◇
館へ戻ると、父はまだ執務室にいた。
「お父様、少しよろしいでしょうか」
扉を開けると、父は机の上の書類から顔を上げた。
私の顔色を見て、すぐに表情を改める。
「どうした、エーディア」
「ヴァンゼ侯爵家のカレル様より、婚約解消を望むと告げられました」
父は数秒、言葉を失った。
それから静かに、しかし確かに怒りを含んだ声で言った。
「……何だと?」
私は応接間で交わした会話を、できるだけそのまま父に伝えた。
父の顔は聞くほどに険しくなっていく。
「愛人を認めろだと?」
「ええ」
「この国境の情勢で、そのような寝言を抜かしたのか、あの男は」
父は立ち上がると、壁に掛けられた地図の前に歩み寄った。
我が領地、ヴァンゼ領、その向こうに広がる三国。
いずれもここ数年、決して穏やかではない。
「馬鹿なことをしたものだ」
「本当に」
私が答えると、父は頷いた。
「エーディア、お前はどうしたい」
「急ぎ、他の隣接領との話を進めるべきかと存じます。お姉様方にも知らせて、王都の反応も見ておきたいですわ」
父の目に、わずかに安堵がよぎった。
娘が泣き崩れるより先に次の手を口にしたことを、喜んでいるのだろう。
「そうだな。すぐに使者を出す」
「お願いします」
父は地図を見たまま、低く言った。
「貴族の務めを、己の気分ほどにも思っていない男に、国境領は任せられん」
その言葉に、私は無言で頷いた。
婚約を破棄された。
女としては屈辱なのかもしれない。
けれど今の私の胸にあるのは、傷ついた乙女らしい悲しみよりも、もっと冷えた感情だった。
――ああ、この男は駄目だ。
それだけが、はっきりしていた。
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