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3 父の確認
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お父様は私の話を最後まで聞き終えると、しばらく何も言わなかった。
ただ、机の上に置いた手だけが、ゆっくりと握られていく。
怒りを表に出す前に、まず飲み込もうとする時の癖だと、私は知っていた。
「……エーディア、もう一度確認する」
低い声でお父様が言う。
「カレル殿は、自分の血を引く子が欲しい、そのためには愛人も認めろと、そう言ったのだな」
「はい」
「しかも婚約解消を、自分の口で先に告げてきた」
「ええ」
「お前に非があるとは言わなかったのだな」
「言いませんでした。むしろ、私のことは賢く申し分ないと」
「そのうえで祝福してやる、と」
「そう仰いました」
お父様はとうとう片手で額を押さえた。
「救いようのない馬鹿だな……」
その一言に、私もつい「ええ」と小さく同意してしまった。
感情としては腹立たしい。
だがそれ以上に、呆れが勝つ。
国境領の婚約を何だと思っているのか。
それも、こちらへ婿入りする立場で、愛人云々を真顔で口にするとは。
私は執務机の前に立ったまま、お父様が顔を上げるのを待った。
やがてお父様は椅子を引き、壁に掛けられた大きな地図の前へ移った。
私もその横へ立つ。
見慣れた地図だった。
ルーヴェン伯爵領は西から中央にかけて広く伸び、森と河川、そして二つの鉱山を抱えている。
対してヴァンゼ侯爵領は東に張り出し、三つの国に接していた。北東にオルセア、南東にエゼル、南にメルダン。どの国も近年穏やかとは言い難い。
「ここだ」
お父様の指が、ヴァンゼ領の細くくびれた南東の一帯を叩いた。
「この街道沿いは、人も物も集まりやすい。商いにはよいが、その分、妙な者も入る。旅芸人、傭兵崩れ、流民、言葉の怪しい行商人……あの家が代々“文化の発展”だ何だと称して出入りに寛大なのは今さらだが、それでもこれまでは、こちらとの連携があるから抑えが利いた」
「はい」
ヴァンゼ侯爵家は外向きには華やかな家だ。
交易で富み、珍しい品も音楽も芝居も集まる。社交好きには魅力的だろう。
だが国境において、出入りが多いというのはそれだけで危うい。
噂も、金も、人も、密やかな企ても流れ込む。
だからこそ我が家との婚約には意味があった。
ルーヴェン領の兵站と兵力、鉱山と備蓄、慎重な監視と記録。
華やかさの裏の緩さを補うために。
「カレルは、それを理解しておらんのだろうな」
「理解していても、己の気分の方が上だったのでしょう」
私が答えると、お父様は苦い顔で頷いた。
「そうだろうな。理解したうえで軽んじたのだとしても、それはそれで終わっている」
お父様は地図から手を離し、今度は窓際へ歩いた。
夕方の光が執務室に傾いている。重い帳簿棚の影が、床に長く落ちていた。
「エーディア」
「はい」
「お前は悔しいか」
思いがけない問いだった。
私は少し考えた。
悔しくないと言えば嘘になる。
女として選ばれなかった、と見なされれば、社交界ではそういう受け取り方もされるだろう。
姉たちのような華やかさを持たぬ私にとって、それはまったく刺さらぬ言葉ではない。
けれど。
「……悔しい、というより」
「うむ」
「冷めましたわ」
お父様の眉がわずかに動く。
「傷ついた、というより、ああこの方は駄目なのだと。そう思った瞬間に、何かがすっと冷めてしまったのです」
するとお父様は、ふっと小さく息を吐いた。
「それならよい」
「よい、ですか?」
「少なくとも、判断を曇らせずに済む」
それは父らしい言い方だった。
慰めるより先に、現実の足場を確認する。
だが今の私には、その方がありがたかった。
「泣きたいなら泣いてもよいが」
「今はそんな気分ではありません」
「そうか」
短いやり取りののち、お父様は再び地図の前に戻った。
「まず、お前の姉たちに急ぎ文を出す。王都でどう受け取られるか、どこが嗅ぎつけるかを見ておきたい」
「はい」
「それと、周辺領にも打診をかける。今さら婚約破棄となれば、こちらが困っていると見て足元を見る家もあるだろうが、それでも動かぬわけにはいかん」
「一つ、ございます」
「何だ」
「先方に“破棄された娘”として哀れまれるのは、さほど気になりませんわ」
お父様は黙って私を見た。
「エーディア」
お父様が呼ぶ。
「ですが、“国境の取り決めが揺らいだ”と見られるのは困ります。ですから、文面はその点を強く出してくださいませ。感情ではなく、安全保障の再編として」
「……そうだな」
お父様の口元に、ほんのわずかだが笑みが浮かんだ。
娘が泣き伏すより先に、こういうことを言い出したのが可笑しいのかもしれない。
「お前は本当に、地図の上で物を考えるな」
「お父様譲りですわ」
するとお父様は「それは否定できん」と言って、執務机へ戻った。
ただ、机の上に置いた手だけが、ゆっくりと握られていく。
怒りを表に出す前に、まず飲み込もうとする時の癖だと、私は知っていた。
「……エーディア、もう一度確認する」
低い声でお父様が言う。
「カレル殿は、自分の血を引く子が欲しい、そのためには愛人も認めろと、そう言ったのだな」
「はい」
「しかも婚約解消を、自分の口で先に告げてきた」
「ええ」
「お前に非があるとは言わなかったのだな」
「言いませんでした。むしろ、私のことは賢く申し分ないと」
「そのうえで祝福してやる、と」
「そう仰いました」
お父様はとうとう片手で額を押さえた。
「救いようのない馬鹿だな……」
その一言に、私もつい「ええ」と小さく同意してしまった。
感情としては腹立たしい。
だがそれ以上に、呆れが勝つ。
国境領の婚約を何だと思っているのか。
それも、こちらへ婿入りする立場で、愛人云々を真顔で口にするとは。
私は執務机の前に立ったまま、お父様が顔を上げるのを待った。
やがてお父様は椅子を引き、壁に掛けられた大きな地図の前へ移った。
私もその横へ立つ。
見慣れた地図だった。
ルーヴェン伯爵領は西から中央にかけて広く伸び、森と河川、そして二つの鉱山を抱えている。
対してヴァンゼ侯爵領は東に張り出し、三つの国に接していた。北東にオルセア、南東にエゼル、南にメルダン。どの国も近年穏やかとは言い難い。
「ここだ」
お父様の指が、ヴァンゼ領の細くくびれた南東の一帯を叩いた。
「この街道沿いは、人も物も集まりやすい。商いにはよいが、その分、妙な者も入る。旅芸人、傭兵崩れ、流民、言葉の怪しい行商人……あの家が代々“文化の発展”だ何だと称して出入りに寛大なのは今さらだが、それでもこれまでは、こちらとの連携があるから抑えが利いた」
「はい」
ヴァンゼ侯爵家は外向きには華やかな家だ。
交易で富み、珍しい品も音楽も芝居も集まる。社交好きには魅力的だろう。
だが国境において、出入りが多いというのはそれだけで危うい。
噂も、金も、人も、密やかな企ても流れ込む。
だからこそ我が家との婚約には意味があった。
ルーヴェン領の兵站と兵力、鉱山と備蓄、慎重な監視と記録。
華やかさの裏の緩さを補うために。
「カレルは、それを理解しておらんのだろうな」
「理解していても、己の気分の方が上だったのでしょう」
私が答えると、お父様は苦い顔で頷いた。
「そうだろうな。理解したうえで軽んじたのだとしても、それはそれで終わっている」
お父様は地図から手を離し、今度は窓際へ歩いた。
夕方の光が執務室に傾いている。重い帳簿棚の影が、床に長く落ちていた。
「エーディア」
「はい」
「お前は悔しいか」
思いがけない問いだった。
私は少し考えた。
悔しくないと言えば嘘になる。
女として選ばれなかった、と見なされれば、社交界ではそういう受け取り方もされるだろう。
姉たちのような華やかさを持たぬ私にとって、それはまったく刺さらぬ言葉ではない。
けれど。
「……悔しい、というより」
「うむ」
「冷めましたわ」
お父様の眉がわずかに動く。
「傷ついた、というより、ああこの方は駄目なのだと。そう思った瞬間に、何かがすっと冷めてしまったのです」
するとお父様は、ふっと小さく息を吐いた。
「それならよい」
「よい、ですか?」
「少なくとも、判断を曇らせずに済む」
それは父らしい言い方だった。
慰めるより先に、現実の足場を確認する。
だが今の私には、その方がありがたかった。
「泣きたいなら泣いてもよいが」
「今はそんな気分ではありません」
「そうか」
短いやり取りののち、お父様は再び地図の前に戻った。
「まず、お前の姉たちに急ぎ文を出す。王都でどう受け取られるか、どこが嗅ぎつけるかを見ておきたい」
「はい」
「それと、周辺領にも打診をかける。今さら婚約破棄となれば、こちらが困っていると見て足元を見る家もあるだろうが、それでも動かぬわけにはいかん」
「一つ、ございます」
「何だ」
「先方に“破棄された娘”として哀れまれるのは、さほど気になりませんわ」
お父様は黙って私を見た。
「エーディア」
お父様が呼ぶ。
「ですが、“国境の取り決めが揺らいだ”と見られるのは困ります。ですから、文面はその点を強く出してくださいませ。感情ではなく、安全保障の再編として」
「……そうだな」
お父様の口元に、ほんのわずかだが笑みが浮かんだ。
娘が泣き伏すより先に、こういうことを言い出したのが可笑しいのかもしれない。
「お前は本当に、地図の上で物を考えるな」
「お父様譲りですわ」
するとお父様は「それは否定できん」と言って、執務机へ戻った。
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