「その気になれない」と婚約破棄したあなたの、話を聞く必要がありますか?

さんけい

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5 侯爵家の弁明

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 執務室へ通されたヴァンゼ侯爵家の家令は、入ってきた瞬間から、いかにも胃が痛そうな顔をしていた。
 年の頃は五十を越えているだろう。背筋は伸びているし礼も正しい。
 おそらく普段なら隙のない人物なのだろうが、今日ばかりは頬の強張りまで隠しきれていない。

「突然のご訪問、失礼いたします。ルーヴェン伯爵閣下、エーディア様」

 深々と頭を下げる。
 お父様は執務机の向こうに立ったまま、低い声で言った。

「用件を伺おう」
「は……我が主、ヴァンゼ侯爵より、まずは取り急ぎのお詫びをと」

 家令は胸元から封書を取り出し、両手で差し出した。
 執事が受け取ってお父様の前に置く。
 お父様は封を切り、中身に目を通した。
 私はその間、家令の様子を見ていた。目線は伏せているが、手元にわずかな震えがある。
 彼自身、ここへ来る前にどれほど叱責されたのか、想像に難くない。

 やがてお父様は書状を机に置いた。

「カレル殿の軽率な言動については、侯爵も把握されたらしいな」
「はい」
「そして“家としても遺憾であり、改めて正式に使者を立てる”とある」
「左様でございます」

 お父様はふん、と鼻で笑った。

「遺憾で済む話か」

 家令の喉仏がかすかに動いた。

「……まことに、面目次第もございません」

 その声音には、取り繕いではない疲労がにじんでいた。
 どうやら向こうの屋敷は今ごろ大騒ぎなのだろう。

「家令殿」

 私が口を開くと、彼ははっとしたように顔を上げた。

「エーディア様」
「一つ伺います。今回の件、侯爵様はいつお知りになったのですか」

 ほんの一瞬、彼は言葉を選んだ。

「……本日の夕刻でございます」

 つまり、カレルは侯爵に何の相談もなく、独断で私を呼び出し、婚約解消を申し入れたわけだ。
 まあ、そうだろうとは思っていた。
 父親に一言でも筋を通していれば、さすがにあの内容をそのまま口に出す前に止められたはずだ。

「では、侯爵様はご子息のご意思を後から知り、大急ぎで貴方を寄越されたと」
「……はい」

 家令は苦しげに答えた。
 お父様の視線が冷たく細まる。

「愚息の暴走、として切り離すおつもりか」
「そのような、僭越なことは――」
「だが実際そう書いてある」

 お父様が書状を指先で叩く。

「“未熟ゆえの軽挙、深くお詫び申し上げる”か。便利な言葉だな。未熟ならば、国境の婚約を壊してもよいと?」
「伯爵閣下……」

 家令の顔色がさらに悪くなる。
 私はお父様の怒りがどこへ向いているのか、よくわかっていた。
 カレル個人の愚かさもさることながら、侯爵家がまず“若さゆえの失敗”として処理しようとしている気配が気に食わないのだ。
 恋のもつれではない、家と家の取り決めだ。
 国境の均衡に関わる話なのだ。
 それを未熟の一語で薄められてたまるものか。

「家令殿」

 私はもう一度、なるべく平坦に問うた。

「侯爵様は、カレル様が何を理由に婚約解消を望んだか、正確に把握しておいでですか」

 家令は詰まった。
 その反応で十分だった。
 やはり、あの男は自分に都合の悪い部分をぼかして報告したのだろう。
 “気持ちの問題”だとか、“相性が”だとか、その程度に。

「申し上げにくいのですが……若様は、その……ご自身が結婚に向いておらぬのではないかと、お悩みで」
「悩んでいるのは存じています」

 私は言った。

「ですが、それだけではございませんでしょう」

 家令は完全に黙り込んだ。
 お父様が静かに口を開く。

「愛人を認めろと言ったそうだ」

 びくり、と家令の肩が跳ねた。
 その反応があまりに露骨で、私は少しだけ可哀想になった。彼は本当に初耳だったのだろう。

「……何と」
「我が娘を婿入り先として見ておきながら、結婚後は愛人を容認しろと、そう言ったそうだ」
「それは……」

 家令の口が開いたまま閉じなくなる。
 老練そうな人でも、ここまで露骨に絶句するのだ。
 あらためて考えても、やはりかなりひどい。

「その件も含め、侯爵様はご存じないのですか」

 私が問うと、家令はゆっくりと、しかしはっきり首を振った。

「……存じ上げませんでした」

 執務室に一瞬、沈黙が落ちた。
 遠くで扉の開閉する音がして、廊下を誰かが足早に通る気配がした。館のどこかでは、もう夕餉の支度が始まっているのだろう。けれどこの部屋だけ、時間の流れが鈍く重かった。
 家令はやがて、意を決したように深く頭を下げた。

「重ねて、お詫び申し上げます。どうやら、若様は侯爵様へ詳細を伏せたまま、ご自身のお気持ちだけを先に――」
「でしょうね」

 私は遮った。

 少しきつい言い方だったかもしれない。
 だが、抑える気にはなれなかった。

「都合の悪い部分を隠し、耳あたりのよい言葉だけで先にことを運ぶ。実にカレル様らしいではありませんか」

 家令は何も言えない。
 お父様は書状を畳み、机に置いた。

「侯爵に伝えよ。正式な使者は受けよう。ただし、我が家はすでに別の手を打ち始めている」

 はっと顔を上げた家令の口元が引きつった。

「伯爵閣下、それは」
「当然だろう。そちらの嫡男殿が、自分の気分で婚約を破棄したのだ。こちらが何の備えもなく、うずくまって待っているとでも?」

 ルーヴェン家は慌てて泣き寝入りなどしない。
 むしろさっさと次へ動く。
 そうはっきりと宣告したのだ。
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