7 / 8
7 鏡の前の夜
しおりを挟む
ヴァンゼ侯爵家の家令が帰ったあと、執務室にはしばらく、紙をめくる音とペン先の擦れる音だけが残った。
窓の外はすっかり暮れていた。
硝子に映る室内は、昼よりも少しだけ狭く見える。
卓上のランプは明るいはずなのに、その灯りの届かない棚の隅や壁際には、黒い影が溜まっていた。
油の匂いがかすかに重い。
私は姉たちへの手紙を書き終えると、指先を軽く揉んだ。
長くペンを握っていたせいだけではない。
ずっと肩に力が入っていたのだと、そのときになってようやく気づく。
肩甲骨のあたりがじんと重かった。
「今日はもう休みなさい」
お父様がそう言った。
「ですが、アルトン伯爵家への文面、もう一度見直して――」
「それは私がやる」
きっぱりと遮られた。
見れば、お父様の目の下にも薄い疲れが落ちている。
私だけが気を張っているわけではないのだ。
そう思うと、胸の奥に固く詰まっていたものが少しだけ緩んだ。
「……では、お任せします」
「うむ。何かあれば呼ぶ」
私は一礼して執務室を出た。
◇
廊下は静かだった。
夜の館には、昼のような人の動きがない。
そのぶん、遠くの物音が妙にはっきり聞こえる。
どこかの部屋の扉が閉まる音、食堂の方からかすかに流れてくる食器の触れ合う音、窓の外で枝が擦れる乾いた音。
春先の夜気はまだ冷たく、廊下の石床の冷えが靴底越しにじわりと上がってくる。
さっきまで執務室の熱のこもった空気の中にいたせいで、その冷たさが余計に際立った。
自室へ戻ると、マルタがすぐに湯の支度を整え、夕餉を運ばせようとした。
「少しだけ、一人にしてちょうだい」
そう言うと、マルタは一瞬ためらい、それから静かに頭を下げた。
「かしこまりました。お茶だけここへ置いてまいります」
扉が閉まる。
途端に、部屋が急に広くなったような気がした。
私は外套を脱ぎ、ソファの背にかける。
指先が少し冷えていた。
手袋を外すと、手の甲に薄く跡が残っている。いつもより強く握っていたのかもしれない。
部屋の隅には姿見がある。磨かれた鏡面に、夜の灯りを受けた自分の姿が映っていた。
見慣れた顔だった。
上の姉アデルのような、ひと目で人を和ませる優雅な美しさはない。
下の姉ベアトリスのような、華やかで目を奪う艶やかさもない。
私の顔立ちは地味だ。
輪郭も、目元も、口元も、整ってはいても印象が薄い。宴の席でぱっと目を引くような女ではない。
昔から、それは知っていた。
だからこそ私は、別の場所で役に立とうとしたのだ。
帳簿を読み、地図を覚え、収穫と備蓄を計算し、人の顔色より領地の動きを見る。
そうしてここまで来た。
なのに。
私は鏡の前に立ったまま、指先をぎゅっと握った。
――君に対してその気になれない。
あの声が、今になって耳の奥でよみがえる。
応接間ではまるで氷を流し込まれたみたいに冷める自分を感じていたのに、こうして一人になると、言葉の棘だけがじわじわと肉に触ってくる。
――その気になれない。
つまり女として見られない、ということだ。
彼は容姿のせいではないと言った。
だが、それをそのまま信じられるほど、私は鈍くない。
姉たちのような美しさがあれば違ったのだろうか。
宮廷向きの柔らかな愛嬌があれば、あの男はもっと素直に婿入りを受け入れたのだろうか。
私は跡取りとしては足りていても、女としては不足だったのだろうか。
そこまで考えたところで、喉の奥に何かがひっかかったように苦しくなった。
椅子に座ろうとしてもうまく力が入らない。
膝の裏が一度かくんと折れそうになり、私は近くの小机に手をついた。
磨かれた木の縁が、思ったよりも冷たかった。
――情けない。
私は泣いていない。
泣いていないのに、胸の内側だけがひどく重い。石を詰められたみたいに息が浅くなる。
この婚約は恋ではない。
最初からそうわかっていた。
家のため、領地のため、国境のため。そういう言葉を、自分でも何度も繰り返してきた。
けれど、だからといって、女として否まれる痛みがまるごと消えるわけではないのだ。
「……まったく」
小さく声に出すと、ひどく空々しく聞こえた。
私はゆっくり息を吐き、鏡から目をそらした。
見たところで、顔が変わるわけではない。
机の上に置かれたままの手袋を取り上げる。やわらかな革が、手の中でくしゃりと鳴った。
泣きたくないわけではない。
たぶん、少しは泣ける。
けれど今ここで泣いたところで、ヴァンゼ侯爵家の馬鹿息子がまともになるわけでも、婚約の意味が戻るわけでもない。
私の顔が急に姉たちのように華やかになるわけでもない。
――なら、どうする?
その問いを自分に向けた瞬間、不思議と頭の中だけはすっと澄んだ。
私は手袋を丁寧に畳み、机の上へ置き直した。
鏡の前に立っていた娘ではなく、ルーヴェン伯爵家の跡取りとして。
確かに私は傷ついた。
女として、少しは惨めだった。それは認めよう。
だが、それでもなお。
私はあの男を夫にしたいとは、もう思えなかった。
あの場で彼が晒したのは弱さではなく、甘えだ。
自分の足りなさを抱えたまま、それを引き受ける覚悟もなく、始末だけを他人に押しつける。
しかも家にも正確に伝えず、侯爵家の威光だけは失いたくない。
そんな男が国境領の要に立てるはずがない。
胸の奥に沈んでいた痛みはまだ消えていない。
けれど、その痛みを抱えたままでも、判断はできる。
私はベルを鳴らした。
窓の外はすっかり暮れていた。
硝子に映る室内は、昼よりも少しだけ狭く見える。
卓上のランプは明るいはずなのに、その灯りの届かない棚の隅や壁際には、黒い影が溜まっていた。
油の匂いがかすかに重い。
私は姉たちへの手紙を書き終えると、指先を軽く揉んだ。
長くペンを握っていたせいだけではない。
ずっと肩に力が入っていたのだと、そのときになってようやく気づく。
肩甲骨のあたりがじんと重かった。
「今日はもう休みなさい」
お父様がそう言った。
「ですが、アルトン伯爵家への文面、もう一度見直して――」
「それは私がやる」
きっぱりと遮られた。
見れば、お父様の目の下にも薄い疲れが落ちている。
私だけが気を張っているわけではないのだ。
そう思うと、胸の奥に固く詰まっていたものが少しだけ緩んだ。
「……では、お任せします」
「うむ。何かあれば呼ぶ」
私は一礼して執務室を出た。
◇
廊下は静かだった。
夜の館には、昼のような人の動きがない。
そのぶん、遠くの物音が妙にはっきり聞こえる。
どこかの部屋の扉が閉まる音、食堂の方からかすかに流れてくる食器の触れ合う音、窓の外で枝が擦れる乾いた音。
春先の夜気はまだ冷たく、廊下の石床の冷えが靴底越しにじわりと上がってくる。
さっきまで執務室の熱のこもった空気の中にいたせいで、その冷たさが余計に際立った。
自室へ戻ると、マルタがすぐに湯の支度を整え、夕餉を運ばせようとした。
「少しだけ、一人にしてちょうだい」
そう言うと、マルタは一瞬ためらい、それから静かに頭を下げた。
「かしこまりました。お茶だけここへ置いてまいります」
扉が閉まる。
途端に、部屋が急に広くなったような気がした。
私は外套を脱ぎ、ソファの背にかける。
指先が少し冷えていた。
手袋を外すと、手の甲に薄く跡が残っている。いつもより強く握っていたのかもしれない。
部屋の隅には姿見がある。磨かれた鏡面に、夜の灯りを受けた自分の姿が映っていた。
見慣れた顔だった。
上の姉アデルのような、ひと目で人を和ませる優雅な美しさはない。
下の姉ベアトリスのような、華やかで目を奪う艶やかさもない。
私の顔立ちは地味だ。
輪郭も、目元も、口元も、整ってはいても印象が薄い。宴の席でぱっと目を引くような女ではない。
昔から、それは知っていた。
だからこそ私は、別の場所で役に立とうとしたのだ。
帳簿を読み、地図を覚え、収穫と備蓄を計算し、人の顔色より領地の動きを見る。
そうしてここまで来た。
なのに。
私は鏡の前に立ったまま、指先をぎゅっと握った。
――君に対してその気になれない。
あの声が、今になって耳の奥でよみがえる。
応接間ではまるで氷を流し込まれたみたいに冷める自分を感じていたのに、こうして一人になると、言葉の棘だけがじわじわと肉に触ってくる。
――その気になれない。
つまり女として見られない、ということだ。
彼は容姿のせいではないと言った。
だが、それをそのまま信じられるほど、私は鈍くない。
姉たちのような美しさがあれば違ったのだろうか。
宮廷向きの柔らかな愛嬌があれば、あの男はもっと素直に婿入りを受け入れたのだろうか。
私は跡取りとしては足りていても、女としては不足だったのだろうか。
そこまで考えたところで、喉の奥に何かがひっかかったように苦しくなった。
椅子に座ろうとしてもうまく力が入らない。
膝の裏が一度かくんと折れそうになり、私は近くの小机に手をついた。
磨かれた木の縁が、思ったよりも冷たかった。
――情けない。
私は泣いていない。
泣いていないのに、胸の内側だけがひどく重い。石を詰められたみたいに息が浅くなる。
この婚約は恋ではない。
最初からそうわかっていた。
家のため、領地のため、国境のため。そういう言葉を、自分でも何度も繰り返してきた。
けれど、だからといって、女として否まれる痛みがまるごと消えるわけではないのだ。
「……まったく」
小さく声に出すと、ひどく空々しく聞こえた。
私はゆっくり息を吐き、鏡から目をそらした。
見たところで、顔が変わるわけではない。
机の上に置かれたままの手袋を取り上げる。やわらかな革が、手の中でくしゃりと鳴った。
泣きたくないわけではない。
たぶん、少しは泣ける。
けれど今ここで泣いたところで、ヴァンゼ侯爵家の馬鹿息子がまともになるわけでも、婚約の意味が戻るわけでもない。
私の顔が急に姉たちのように華やかになるわけでもない。
――なら、どうする?
その問いを自分に向けた瞬間、不思議と頭の中だけはすっと澄んだ。
私は手袋を丁寧に畳み、机の上へ置き直した。
鏡の前に立っていた娘ではなく、ルーヴェン伯爵家の跡取りとして。
確かに私は傷ついた。
女として、少しは惨めだった。それは認めよう。
だが、それでもなお。
私はあの男を夫にしたいとは、もう思えなかった。
あの場で彼が晒したのは弱さではなく、甘えだ。
自分の足りなさを抱えたまま、それを引き受ける覚悟もなく、始末だけを他人に押しつける。
しかも家にも正確に伝えず、侯爵家の威光だけは失いたくない。
そんな男が国境領の要に立てるはずがない。
胸の奥に沈んでいた痛みはまだ消えていない。
けれど、その痛みを抱えたままでも、判断はできる。
私はベルを鳴らした。
116
あなたにおすすめの小説
私だけが愛して1度も笑ったことの無い夫が、死んだはずの息子を連れてもどってきた
まつめ
恋愛
夫はただの一度も私に笑いかけたことは無く、穏やかに夫婦の時間をもったこともない。魔法騎士団の、騎士団長を務める彼は、23年間の結婚生活のほとんどを戦地で過ごしている。22歳の息子の戦死の知らせが届く。けれど夫は元気な息子を連れて私の元に戻って来てくれた。
私より幼馴染を選んだ婚約者に別れを告げたら謝罪に来ましたが、契約を守れない貴族とは取引しませんので
藤原遊
恋愛
祖父が創立した大商会で、跡継ぎとして働いている私。
けれど婚約者は、私より幼馴染を選びました。
それなら構いません。
婚約という契約を守れない相手と、これ以上関係を続けるつもりはありませんから。
祖父の商会は隣国と新たな取引を始めることになりました。
――その途端、なぜか元婚約者が謝罪に来るようになりましたが、もう遅いです。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました
しおしお
恋愛
王太子カイルの婚約者だった公爵令嬢リディアナは、学園の舞踏会で突然婚約破棄を告げられる。
隣にいたのは、可憐に涙をこぼす義妹ミレイユ。
誰もがリディアナを捨てられた令嬢だと思った。
けれどその婚約破棄は、ただの恋愛沙汰では終わらなかった。
王太子は、自分が何に支えられていたのかも知らないまま婚約を切り、義妹と継母は、選ばれた側になったつもりで浮かれ上がる。
しかし一夜明けるごとに、王宮の実務は乱れ、社交界の空気は冷え、王太子の周囲からは人が消えていく。
一方、すべてを失ったはずのリディアナは、静かに身を引きながらも、崩れていく彼らを冷ややかに見つめていた。
選ばれただけでは、何者にもなれない。
肩書きだけでは、人は支えられない。
そして、誰かを踏みにじった代償は、ゆっくりと、けれど確実に返ってくる――。
これは、婚約破棄された公爵令嬢が自ら騒がず、
勝ったつもりだった王太子、義妹、継母が、静かに自滅していくざまぁ恋愛譚。
【完結】要らないと言っていたのに今更好きだったなんて言うんですか?
星野真弓
恋愛
十五歳で第一王子のフロイデンと婚約した公爵令嬢のイルメラは、彼のためなら何でもするつもりで生活して来た。
だが三年が経った今では冷たい態度ばかり取るフロイデンに対する恋心はほとんど冷めてしまっていた。
そんなある日、フロイデンが「イルメラなんて要らない」と男友達と話しているところを目撃してしまい、彼女の中に残っていた恋心は消え失せ、とっとと別れることに決める。
しかし、どういうわけかフロイデンは慌てた様子で引き留め始めて――
「お前の代わりはいくらでもいる」と笑った婚約者が、翌日から報告書一枚書けなくなった件
歩人
ファンタジー
子爵令嬢リーゼロッテの取り柄は、文章を書くことだけ。
華やかさのかけらもない彼女は、婚約者アルベルトの政務報告、外交書簡、
演説原稿——その全てを代筆していた。
「お前の代わりはいくらでもいる」
社交界の花形令嬢に乗り換えたアルベルトは、笑ってそう言った。
翌日から、彼の机の上には白紙の報告書だけが積み上がっていく。
——代わりは、いなかった。
うまくやった、つもりだった
ひがん さく
恋愛
四大貴族、バルディストン公爵家の分家に生まれたオスカーは、ここまでうまくやってきた。
本家の一人娘シルヴィアが王太子の婚約者に選ばれ、オスカーは本家の後継ぎとして養子になった。
シルヴィアを姉と慕い、養父に気に入られ、王太子の側近になり、王太子が子爵令嬢と愛を深めるのを人目につかぬよう手助けをし、シルヴィアとの婚約破棄の準備も整えた。
誠実と王家への忠義を重んじるこの国では、シルヴィアの冷徹さは瑕疵であり、不誠実だと示せば十分だった。
かつてシルヴィアはオスカーが養子になることに反対した。
その姉が後妻か商家の平民に落ちる時が来た。
王太子の権威や素晴らしさを示すという一族の教えすら忘れた姉をオスカーは断罪する。
だが、シルヴィアは絶望もせずに呟いた。
「これだから、分家の者を家に入れるのは嫌だったのよ……」
悪役令嬢が残した破滅の種
八代奏多
恋愛
妹を虐げていると噂されていた公爵令嬢のクラウディア。
そんな彼女が婚約破棄され国外追放になった。
その事実に彼女を疎ましく思っていた周囲の人々は喜んだ。
しかし、その日を境に色々なことが上手く回らなくなる。
断罪した者は次々にこう口にした。
「どうか戻ってきてください」
しかし、クラウディアは既に隣国に心地よい居場所を得ていて、戻る気は全く無かった。
何も知らずに私欲のまま断罪した者達が、破滅へと向かうお話し。
※小説家になろう様でも連載中です。
9/27 HOTランキング1位、日間小説ランキング3位に掲載されました。ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる