「その気になれない」と婚約破棄したあなたの、話を聞く必要がありますか?

さんけい

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7 鏡の前の夜

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 ヴァンゼ侯爵家の家令が帰ったあと、執務室にはしばらく、紙をめくる音とペン先の擦れる音だけが残った。
 窓の外はすっかり暮れていた。
 硝子に映る室内は、昼よりも少しだけ狭く見える。
 卓上のランプは明るいはずなのに、その灯りの届かない棚の隅や壁際には、黒い影が溜まっていた。
 油の匂いがかすかに重い。
 私は姉たちへの手紙を書き終えると、指先を軽く揉んだ。
 長くペンを握っていたせいだけではない。
 ずっと肩に力が入っていたのだと、そのときになってようやく気づく。
 肩甲骨のあたりがじんと重かった。

「今日はもう休みなさい」

 お父様がそう言った。

「ですが、アルトン伯爵家への文面、もう一度見直して――」
「それは私がやる」

 きっぱりと遮られた。
 見れば、お父様の目の下にも薄い疲れが落ちている。
 私だけが気を張っているわけではないのだ。
 そう思うと、胸の奥に固く詰まっていたものが少しだけ緩んだ。

「……では、お任せします」
「うむ。何かあれば呼ぶ」

 私は一礼して執務室を出た。

  ◇

 廊下は静かだった。
 夜の館には、昼のような人の動きがない。
 そのぶん、遠くの物音が妙にはっきり聞こえる。
 どこかの部屋の扉が閉まる音、食堂の方からかすかに流れてくる食器の触れ合う音、窓の外で枝が擦れる乾いた音。
 春先の夜気はまだ冷たく、廊下の石床の冷えが靴底越しにじわりと上がってくる。
 さっきまで執務室の熱のこもった空気の中にいたせいで、その冷たさが余計に際立った。
 自室へ戻ると、マルタがすぐに湯の支度を整え、夕餉を運ばせようとした。

「少しだけ、一人にしてちょうだい」

 そう言うと、マルタは一瞬ためらい、それから静かに頭を下げた。

「かしこまりました。お茶だけここへ置いてまいります」

 扉が閉まる。
 途端に、部屋が急に広くなったような気がした。
 私は外套を脱ぎ、ソファの背にかける。
 指先が少し冷えていた。
 手袋を外すと、手の甲に薄く跡が残っている。いつもより強く握っていたのかもしれない。
 部屋の隅には姿見がある。磨かれた鏡面に、夜の灯りを受けた自分の姿が映っていた。
 見慣れた顔だった。
 上の姉アデルのような、ひと目で人を和ませる優雅な美しさはない。
 下の姉ベアトリスのような、華やかで目を奪う艶やかさもない。
 私の顔立ちは地味だ。
 輪郭も、目元も、口元も、整ってはいても印象が薄い。宴の席でぱっと目を引くような女ではない。
 昔から、それは知っていた。
 だからこそ私は、別の場所で役に立とうとしたのだ。
 帳簿を読み、地図を覚え、収穫と備蓄を計算し、人の顔色より領地の動きを見る。
 そうしてここまで来た。
 なのに。
 私は鏡の前に立ったまま、指先をぎゅっと握った。

 ――君に対してその気になれない。

 あの声が、今になって耳の奥でよみがえる。
 応接間ではまるで氷を流し込まれたみたいに冷める自分を感じていたのに、こうして一人になると、言葉の棘だけがじわじわと肉に触ってくる。

 ――その気になれない。

 つまり女として見られない、ということだ。
 彼は容姿のせいではないと言った。
 だが、それをそのまま信じられるほど、私は鈍くない。
 姉たちのような美しさがあれば違ったのだろうか。
 宮廷向きの柔らかな愛嬌があれば、あの男はもっと素直に婿入りを受け入れたのだろうか。
 私は跡取りとしては足りていても、女としては不足だったのだろうか。
 そこまで考えたところで、喉の奥に何かがひっかかったように苦しくなった。
 椅子に座ろうとしてもうまく力が入らない。
 膝の裏が一度かくんと折れそうになり、私は近くの小机に手をついた。
 磨かれた木の縁が、思ったよりも冷たかった。

 ――情けない。

 私は泣いていない。
 泣いていないのに、胸の内側だけがひどく重い。石を詰められたみたいに息が浅くなる。
 この婚約は恋ではない。
 最初からそうわかっていた。
 家のため、領地のため、国境のため。そういう言葉を、自分でも何度も繰り返してきた。
 けれど、だからといって、女として否まれる痛みがまるごと消えるわけではないのだ。

「……まったく」

 小さく声に出すと、ひどく空々しく聞こえた。
 私はゆっくり息を吐き、鏡から目をそらした。
 見たところで、顔が変わるわけではない。
 机の上に置かれたままの手袋を取り上げる。やわらかな革が、手の中でくしゃりと鳴った。
 泣きたくないわけではない。
 たぶん、少しは泣ける。
 けれど今ここで泣いたところで、ヴァンゼ侯爵家の馬鹿息子がまともになるわけでも、婚約の意味が戻るわけでもない。
 私の顔が急に姉たちのように華やかになるわけでもない。

 ――なら、どうする?

 その問いを自分に向けた瞬間、不思議と頭の中だけはすっと澄んだ。
 私は手袋を丁寧に畳み、机の上へ置き直した。
 鏡の前に立っていた娘ではなく、ルーヴェン伯爵家の跡取りとして。
 確かに私は傷ついた。
 女として、少しは惨めだった。それは認めよう。
 だが、それでもなお。
 私はあの男を夫にしたいとは、もう思えなかった。
 あの場で彼が晒したのは弱さではなく、甘えだ。
 自分の足りなさを抱えたまま、それを引き受ける覚悟もなく、始末だけを他人に押しつける。
 しかも家にも正確に伝えず、侯爵家の威光だけは失いたくない。
 そんな男が国境領の要に立てるはずがない。
 胸の奥に沈んでいた痛みはまだ消えていない。
 けれど、その痛みを抱えたままでも、判断はできる。
 私はベルを鳴らした。
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