「その気になれない」と婚約破棄したあなたの、話を聞く必要がありますか?

さんけい

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8 温かいお茶と上の姉の手紙

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 ほどなくして入ってきたマルタが、私の顔を見てほんの少し目を見開く。
 泣いた跡はないはずだが、顔色くらいは変わっていたのだろう。

「お嬢様」
「お茶をいただくわ。それから、休む用意を」
「はい。……お食事も少しだけでも」

 私は一瞬、断ろうとして、やめた。
 胃のあたりはまだ固いが、食べないと明日もっと悪くなる。

「軽いものでいいわ」
「かしこまりました」

 マルタがお茶を注ぐ。湯気と一緒に、甘い香草の匂いが立ち上った。
 杯を両手で包むと、冷えていた指先がようやくじんわりとほどけていく。
 一口飲む。
 喉の奥を通る温かさに、ようやく呼吸が深くなった。

「……マルタ」
「はい」
「私、少しだけ間抜けだったかもしれないわ」

 マルタは黙って続きを待った。

「婚約は家同士のものだと、ずっとそう思っていたの。だから、あちらも少なくとも同じだけの理屈は持っていると、どこかで勝手に決めていたのかもしれない」

 カップの縁に視線を落としながら言う。
 淡い茶色の液面が、灯りを受けて揺れていた。

「でも違った。あの方は、私が思っていたよりずっと子供だったのね」

 マルタはすぐには口を開かなかった。
 それから、ごく静かに言った。

「お嬢様が間違っていたのではございません。まともな方なら、そう思うのが当然です」

 その言葉は慰めというより、事実の確認のように聞こえた。
 それがありがたかった。
 私はまた一口お茶を飲む。
 温かさが胸まで下りていく。
 そこへ、扉が控えめに叩かれた。
 マルタが出ると、すぐに戻ってきて一通の手紙を差し出した。

「王都より早馬で。アデル様からです」

 私は思わず背筋を伸ばした。封蝋には上の姉の嫁ぎ先の紋章。
 蝋はまだわずかに欠けが鋭く、急いで運ばれてきたのがわかる。
 封を切ると、紙には姉らしい整った筆跡が並んでいた。

『まず先に申し上げます。あなたは何も恥じることはありません』

 その一行を見た瞬間、胸の奥のどこかが、ひどく静かに痛んだ。
 私は椅子に腰を下ろし、続きを読む。

『話はすでに幾筋か入ってきています。
 ヴァンゼ侯爵家は事を小さく見せたいようですが、無理でしょう。
 そもそも時期が悪すぎます。
 国境の取り決めにひびが入ったと見られれば、王都の重臣方も黙っていません。
 カレル様ご本人については、まだ“気迷い”として庇おうとする向きもあるようです。
 ですが、事情が正しく広まれば、その庇いも長くはもちません。
 それから、これは姉としてではなく、王都にいる人間として書きます。
 破棄されたのがあなたであることを、軽く見ている者も少しはいるでしょう。
 けれど同時に、あなたがルーヴェン家の跡取りであることを忘れている者はいません。
 泣いている暇があるなら次を打てばよいのです。あなたはそれができる子でしょう』

 最後の一文に、思わず苦笑が漏れた。
 いかにもアデル姉様らしい。
 優しい。
 でも甘やかさない。
 私は紙をそっと膝の上に置いた。
 窓の外では、風がまた枝を鳴らしている。けれど先ほどまでのように、その音に胸をざらつかせる感じはもうなかった。

「……泣いている暇があるなら、ですって」

 私が呟くと、マルタが少しだけ口元を緩めた。

「アデル様らしゅうございます」
「本当に」

 手紙を持つ指先はもう震えていなかった。
 胸の奥のわだかまりが消えたわけではない。消えるにはまだ早い。たぶん、しばらくは残るだろう。
 けれどその形が、少しだけ変わった。
 選ばれなかった痛みではなく、見誤った相手への悔しさに。
 自分の足りなさへの疑いではなく、相手の卑小さを見抜けなかったことへの苦さに。
 そしてそれなら、前を向ける。

「マルタ」
「はい」
「明日の朝、アルトン伯爵家へ送る文の控えを見せてもらえるよう、お父様に伝えて」
「承知いたしました」
「それから、ベアトリス姉様からの返書が来たら、夜中でも起こしてちょうだい」
「はい。ですが……たぶん、かなりお怒りでしょうね」
「でしょうね」

 私はふっと息をついた。
 今度はほんの少し、笑いに近い息だった。
 部屋の空気は相変わらず夜の静けさに満ちていた。
 ランプの火も、窓硝子に映る自分の姿も、何も変わっていない。
 それでも、さっき鏡の前で立ち尽くしていた私とは、少しだけ違う。
 私は婚約を破棄された。その痛みは確かにある。
 だが、折れたわけではない。
 むしろこれでようやく、迷いなく切り捨てられる。
 そう思ったとき、胸の奥に残っていた冷たい塊が、やっとひと息ぶんだけ小さくなった。
 そして翌朝、案の定というべきか、ベアトリス姉様から届いた返書の一行目は、

『あの馬鹿は何を考えておりますの』

 だった。
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