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17 雨の夜の客人
雨は夜に入ってもやまなかった。
細かな粒が、館の高い窓を絶えず撫でている。
ときおり風が向きを変えるたび、硝子の外で水の筋が斜めに走り、庭の石畳が鈍く光った。
昼間よりもずっと静かな館の中で、その雨音だけが途切れずに続いている。
夕餉の席は、ごく内輪のものになった。
本来なら客を迎えた夜にはもう少し格式を整えるところだが、今回は急な来訪であり、しかも話の中心は国境の備えだ。
父も飾り立てた席を望まなかったし、私もその方がありがたかった。
食堂には父と私、そしてユリウスだけ。
卓上の燭台の火が皿の縁に映り、銀器の表面をゆらゆらと揺らしている。
温かな料理の匂いの向こうで、濡れた外気が窓の隙間からほんの少しだけ入り込み、春先らしい青い湿り気を残していた。
ユリウスは昼と変わらず、食事の場でも静かな人だった。
無口というほどではない。
問われればきちんと答えるし、自分から話すべきことは話す。
ただ、言葉を重ねて自分を大きく見せようとしない。
食べ方も同じで、無駄なく、けれど急き込むでもなく、出されたものをきちんと味わっている様子があった。
そのことが、何だか妙に新鮮に思えた。
王都寄りの家の若い男たちは、食卓でもよく喋る。
自分がどこで何を見たか、誰と知り合いか、どんな珍しい酒を飲んだか。
話題の中心が常に自分の周りを回っている者も多い。
それに比べると、ユリウスの話は実に地味だった。
「今年は西の畑で豆の作付けを少し増やしました」
「ほう」
父が興味を示す。
「土が合うのか」
「ええ。麦のあとに入れると地力も戻りやすいので。ただ、去年の夏に水が足りなかった区画は、まだ様子見です」
普通なら、貴族の食卓で弾む話題ではないのかもしれない。
だが私は、そういう話を聞くのが嫌いではない。むしろ落ち着く。
「豆は備蓄にも回しやすいですものね」
「はい。乾かせば利きますし、兵糧にも混ぜやすい」
兵糧、という言葉がさらりと出てくるあたりが、この人らしかった。
農の話をしていても、ちゃんとその先にある現実を見ている。
「もっとも」
ユリウスはそこで少しだけ表情を和らげた。
「備蓄に回しすぎると、今度は屋敷の料理人が不機嫌になります」
「なぜですの」
「豆ばかり食べさせる気か、と」
「それは……お気の毒ですわね」
思わずそう返すと、ユリウスも父もほんの少し笑った。
声を立てて笑うほどではない。
けれどその短いやり取りだけで、食堂の空気が少しやわらいだ。
私はその空気の変化に、自分でも驚いていた。
まだ昨日のことが、胸の中から完全に消えたわけではない。
ふとした拍子に、あの応接間のことも、鏡の前で感じた惨めさも思い出す。
痛みがなくなったのではなく、少し奥へ引いただけだ。
それでも、今こうして食卓についている時間は、思っていたよりずっと息がしやすかった。
「エーディア様は」
不意にユリウスがこちらを見た。
その視線に、反射でほんの少しだけ肩がこわばる。
まだ完全には抜けていないのだと、自分でわかる。
「幼い頃から、領の実務をご覧になっていたのですか」
問いの内容を理解した途端、私はこわばりを自覚して、内心で少し苦笑した。
また、何か別のことを言われるのではと身構えた自分が可笑しい。
「ええ。十を過ぎた頃から、お父様に連れられて」
「なるほど。だから今日の報告書も、見る目が具体的なのですね」
言われた内容は、ただの評価だった。
しかもお世辞というより、観察に近い。
「顔色より、帳簿や地図の方が覚えやすい性分なだけですわ」
「それは大変結構です」
ユリウスは真顔で言った。
「顔色で兵糧は増えませんので」
「……まあ」
私は一瞬ぽかんとしてしまい、それから吹き出した。
父まで小さく肩を揺らす。
「ユリウス殿、それはずいぶん」
「事実かと」
本人は別に面白いことを言ったつもりもなさそうだった。
その無自覚さが、なおさら可笑しい。
笑ったあと、私は少しだけ驚いた。
喉の奥にひっかかっていたものが、笑いと一緒にほんのひと欠け、外へ出た気がしたからだ。
◇
夕餉の後、父は書斎へ戻り、私は回廊を通って自室へ向かった。
雨音は少し強くなっている。
回廊の高窓を打つ音が、石の壁に細かく反響していた。
燭台の火が揺れるたび、床に落ちる影もゆらいで伸びる。
途中、客間へ続く廊下の角で、私はユリウスと鉢合わせた。
向こうも今ちょうど給仕を下がらせたらしく、手には何も持っていない。
昼の会談や夕餉の席とは違い、人の少ない夜の廊下で向かい合うと、その背の高さが少し近く感じられた。
「あ……失礼いたしました」
私が一歩引こうとすると、ユリウスもすぐに少し身を退いた。
「いえ、こちらこそ」
雨音のせいか、廊下の静けさがかえって際立っている。
燭台の灯りは柔らかいが明るすぎず、相手の表情が昼より少し曖昧に見える。
「お休み前でしたか」
「はい。ユリウス様も?」
「ええ。明日の前に、今日の話を少し整理しておこうかと」
いかにも彼らしい答えだった。
そのことが何だかおかしくて、私は少しだけ口元を緩める。
「ご熱心ですのね」
「熱心というより、忘れやすいので書いておかないと」
「そうは見えませんけれど」
「農具の置き場は覚えていても、人の名前はときどき危ういです」
まただ。
この人は時々、少しも飾らずに自分の足りないところを言う。
それは謙遜とも違う。
自分を下げて好感を取ろうとしているのではなく、ただ本当にそうだから言っているのだ。
私は少し迷って、それから口を開いた。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「いえ、国境の話だけではなく」
そこまで言ってから、喉の奥が少し詰まる。
言葉にするべきか迷った。けれど、言っておいた方がよい気がする。
「……私を、妙に気遣いすぎずにいてくださって」
雨音が、ちょうどその言葉のあとを埋めるように続いた。
細かな粒が、館の高い窓を絶えず撫でている。
ときおり風が向きを変えるたび、硝子の外で水の筋が斜めに走り、庭の石畳が鈍く光った。
昼間よりもずっと静かな館の中で、その雨音だけが途切れずに続いている。
夕餉の席は、ごく内輪のものになった。
本来なら客を迎えた夜にはもう少し格式を整えるところだが、今回は急な来訪であり、しかも話の中心は国境の備えだ。
父も飾り立てた席を望まなかったし、私もその方がありがたかった。
食堂には父と私、そしてユリウスだけ。
卓上の燭台の火が皿の縁に映り、銀器の表面をゆらゆらと揺らしている。
温かな料理の匂いの向こうで、濡れた外気が窓の隙間からほんの少しだけ入り込み、春先らしい青い湿り気を残していた。
ユリウスは昼と変わらず、食事の場でも静かな人だった。
無口というほどではない。
問われればきちんと答えるし、自分から話すべきことは話す。
ただ、言葉を重ねて自分を大きく見せようとしない。
食べ方も同じで、無駄なく、けれど急き込むでもなく、出されたものをきちんと味わっている様子があった。
そのことが、何だか妙に新鮮に思えた。
王都寄りの家の若い男たちは、食卓でもよく喋る。
自分がどこで何を見たか、誰と知り合いか、どんな珍しい酒を飲んだか。
話題の中心が常に自分の周りを回っている者も多い。
それに比べると、ユリウスの話は実に地味だった。
「今年は西の畑で豆の作付けを少し増やしました」
「ほう」
父が興味を示す。
「土が合うのか」
「ええ。麦のあとに入れると地力も戻りやすいので。ただ、去年の夏に水が足りなかった区画は、まだ様子見です」
普通なら、貴族の食卓で弾む話題ではないのかもしれない。
だが私は、そういう話を聞くのが嫌いではない。むしろ落ち着く。
「豆は備蓄にも回しやすいですものね」
「はい。乾かせば利きますし、兵糧にも混ぜやすい」
兵糧、という言葉がさらりと出てくるあたりが、この人らしかった。
農の話をしていても、ちゃんとその先にある現実を見ている。
「もっとも」
ユリウスはそこで少しだけ表情を和らげた。
「備蓄に回しすぎると、今度は屋敷の料理人が不機嫌になります」
「なぜですの」
「豆ばかり食べさせる気か、と」
「それは……お気の毒ですわね」
思わずそう返すと、ユリウスも父もほんの少し笑った。
声を立てて笑うほどではない。
けれどその短いやり取りだけで、食堂の空気が少しやわらいだ。
私はその空気の変化に、自分でも驚いていた。
まだ昨日のことが、胸の中から完全に消えたわけではない。
ふとした拍子に、あの応接間のことも、鏡の前で感じた惨めさも思い出す。
痛みがなくなったのではなく、少し奥へ引いただけだ。
それでも、今こうして食卓についている時間は、思っていたよりずっと息がしやすかった。
「エーディア様は」
不意にユリウスがこちらを見た。
その視線に、反射でほんの少しだけ肩がこわばる。
まだ完全には抜けていないのだと、自分でわかる。
「幼い頃から、領の実務をご覧になっていたのですか」
問いの内容を理解した途端、私はこわばりを自覚して、内心で少し苦笑した。
また、何か別のことを言われるのではと身構えた自分が可笑しい。
「ええ。十を過ぎた頃から、お父様に連れられて」
「なるほど。だから今日の報告書も、見る目が具体的なのですね」
言われた内容は、ただの評価だった。
しかもお世辞というより、観察に近い。
「顔色より、帳簿や地図の方が覚えやすい性分なだけですわ」
「それは大変結構です」
ユリウスは真顔で言った。
「顔色で兵糧は増えませんので」
「……まあ」
私は一瞬ぽかんとしてしまい、それから吹き出した。
父まで小さく肩を揺らす。
「ユリウス殿、それはずいぶん」
「事実かと」
本人は別に面白いことを言ったつもりもなさそうだった。
その無自覚さが、なおさら可笑しい。
笑ったあと、私は少しだけ驚いた。
喉の奥にひっかかっていたものが、笑いと一緒にほんのひと欠け、外へ出た気がしたからだ。
◇
夕餉の後、父は書斎へ戻り、私は回廊を通って自室へ向かった。
雨音は少し強くなっている。
回廊の高窓を打つ音が、石の壁に細かく反響していた。
燭台の火が揺れるたび、床に落ちる影もゆらいで伸びる。
途中、客間へ続く廊下の角で、私はユリウスと鉢合わせた。
向こうも今ちょうど給仕を下がらせたらしく、手には何も持っていない。
昼の会談や夕餉の席とは違い、人の少ない夜の廊下で向かい合うと、その背の高さが少し近く感じられた。
「あ……失礼いたしました」
私が一歩引こうとすると、ユリウスもすぐに少し身を退いた。
「いえ、こちらこそ」
雨音のせいか、廊下の静けさがかえって際立っている。
燭台の灯りは柔らかいが明るすぎず、相手の表情が昼より少し曖昧に見える。
「お休み前でしたか」
「はい。ユリウス様も?」
「ええ。明日の前に、今日の話を少し整理しておこうかと」
いかにも彼らしい答えだった。
そのことが何だかおかしくて、私は少しだけ口元を緩める。
「ご熱心ですのね」
「熱心というより、忘れやすいので書いておかないと」
「そうは見えませんけれど」
「農具の置き場は覚えていても、人の名前はときどき危ういです」
まただ。
この人は時々、少しも飾らずに自分の足りないところを言う。
それは謙遜とも違う。
自分を下げて好感を取ろうとしているのではなく、ただ本当にそうだから言っているのだ。
私は少し迷って、それから口を開いた。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「いえ、国境の話だけではなく」
そこまで言ってから、喉の奥が少し詰まる。
言葉にするべきか迷った。けれど、言っておいた方がよい気がする。
「……私を、妙に気遣いすぎずにいてくださって」
雨音が、ちょうどその言葉のあとを埋めるように続いた。
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