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24 父侯爵の怒りと失望
理解が一瞬遅れた。
叱責されるのはわかる。謹慎が延びるのも想像できる。
だが今、父が言ったのはもっと重い言葉ではないか。
「父上、それは」
「聞こえなかったか。お前はしばらく領政にも国境関連の会議にも出さぬ」
「そんな……!」
椅子から立ち上がりかけて、カレルは机越しの父の目に射抜かれた。
怒鳴っているわけでもないのに、その視線だけで身体が止まる。
「なぜです!」
「なぜだと?」
侯爵はゆっくりと立ち上がった。
「国境の要となる婚約を、自分の甘えで壊した男を、どうして今すぐ国境の話し合いに座らせられる」
「ですが僕は、ヴァンゼ侯爵家の嫡男です!」
「だからだ」
その一言は、刃のようだった。
「嫡男でありながらこの始末だからだ」
カレルは息を呑んだ。
頭の中が、白くなる。
父は机を回り込み、真正面に立った。
「お前はいま、家の名があれば何とかなると思っている」
「……」
「だが違う。お前が家の看板に傷をつけたのだ」
侯爵の顔には、もう怒りだけではなく、深い失望があった。
「ヴァンゼの名があれば、相手が理解し、周囲が整え、お前の失策もいずれ薄まるとでも思ったのだろう」
「父上、僕はそこまで」
「思っている」
断じられる。
「でなければ“もう少し話せば理解してくれるはずだ”などという手紙は書けぬ」
カレルの指先が冷たく痺れた。
あの手紙。
たしかに自分はそう書いた。冷静に、礼を尽くしたつもりで。
自分の真意が伝われば、少しは汲んでもらえるのではないかと思って。
だがそれすら、父には甘えとしか映らないのだとしたら――
「……では、どうすればいいのです」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
侯爵は少しだけ黙った。
窓から入る光が、父の横顔の皺をいつもより深く見せる。
「まず、自分が何をしたかを正しく理解しろ」
低い声が落ちる。
「お前は結婚できぬことで裁かれているのではない。責を引き受けぬまま、相手と家に押しつけたことで見限られているのだ」
「……」
「その違いもわからぬうちは、領政など任せられん」
カレルは動けなかった。
足の裏が床に貼りついたみたいだった。
窓の外では陽が出ているのに、自分だけがどこか冷たい水の中に取り残されたような気分になる。
――領政から外す。
――国境会議にも出さぬ。
それは単なる叱責ではない。
父が、息子を“当面あてにしない”と決めたということだ。
「当面、お前は屋敷に留まれ」
侯爵は言った。
「書類は一部見せる。だが口は出すな。会議にも来るな。人前にも極力出るな」
「……いつまで」
「私がよいと言うまでだ」
カレルの胸の奥で、何かが音を立てて沈んだ。
嫡男であることは変わらない。
それでも今、自分は確かに切られたのだとわかる。
完全に捨てられたわけではない。だが、信を置かれた立場からは外された。
それがどれほどのことか、さすがの彼にもようやくわかった。
「下がれ」
侯爵の声はもう、これ以上何も言う気がないことを示していた。
カレルは何とか一礼し、部屋を出た。
◇
廊下へ出た瞬間、膝の力が少し抜ける。
壁に手をつきかけて、ぎりぎりで堪えた。そんな姿を召使いに見られたくなかった。
だが、すでに何人かの目はあった。
控えていた従者たちは視線を伏せていたが、それがかえって痛い。
何も聞いていないふりをしている。
つまり、聞かれてはならぬほど重い話があったのだと、皆知っているのだ。
カレルはそのまま自室へ戻った。
扉を閉めた途端、室内の静けさが耳に痛い。
窓の外では春の光が白く庭を照らしているのに、部屋の中だけ薄暗く見えた。
――領政から外す。
――国境の会議にも出さぬ。
――人前にも出るな。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「……そこまでか」
呟いてみても、答える者はいない。
たしかにまずかったのだろう。
婚約の切り方も、父への報告も、手紙も。
――でも、そこまで切られるほどだったのか?
いや――そこまでなのだ。父がそう判断した以上。
カレルは長椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
――自分はただ、苦しかっただけなのに。
そう思う。
だが同時に、その“だけ”が通らない場所に自分はいるのだとも、ようやく少しわかる。
それでもなお、彼にはまだ半分しか見えていなかった。
自分が失ったものの大きさは感じ始めている。
だが、なぜそれを失ったのか、その根はまだ霧の向こうだ。
◇
その頃、ルーヴェン伯爵家では、ヴァンゼ侯爵からの正式な追伸を前に、エーディアの父がひどく静かな顔で言っていた。
「ようやく少しは、親がまともな判断をしたか」
その声には、情け容赦のない冷たさがあった。
叱責されるのはわかる。謹慎が延びるのも想像できる。
だが今、父が言ったのはもっと重い言葉ではないか。
「父上、それは」
「聞こえなかったか。お前はしばらく領政にも国境関連の会議にも出さぬ」
「そんな……!」
椅子から立ち上がりかけて、カレルは机越しの父の目に射抜かれた。
怒鳴っているわけでもないのに、その視線だけで身体が止まる。
「なぜです!」
「なぜだと?」
侯爵はゆっくりと立ち上がった。
「国境の要となる婚約を、自分の甘えで壊した男を、どうして今すぐ国境の話し合いに座らせられる」
「ですが僕は、ヴァンゼ侯爵家の嫡男です!」
「だからだ」
その一言は、刃のようだった。
「嫡男でありながらこの始末だからだ」
カレルは息を呑んだ。
頭の中が、白くなる。
父は机を回り込み、真正面に立った。
「お前はいま、家の名があれば何とかなると思っている」
「……」
「だが違う。お前が家の看板に傷をつけたのだ」
侯爵の顔には、もう怒りだけではなく、深い失望があった。
「ヴァンゼの名があれば、相手が理解し、周囲が整え、お前の失策もいずれ薄まるとでも思ったのだろう」
「父上、僕はそこまで」
「思っている」
断じられる。
「でなければ“もう少し話せば理解してくれるはずだ”などという手紙は書けぬ」
カレルの指先が冷たく痺れた。
あの手紙。
たしかに自分はそう書いた。冷静に、礼を尽くしたつもりで。
自分の真意が伝われば、少しは汲んでもらえるのではないかと思って。
だがそれすら、父には甘えとしか映らないのだとしたら――
「……では、どうすればいいのです」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
侯爵は少しだけ黙った。
窓から入る光が、父の横顔の皺をいつもより深く見せる。
「まず、自分が何をしたかを正しく理解しろ」
低い声が落ちる。
「お前は結婚できぬことで裁かれているのではない。責を引き受けぬまま、相手と家に押しつけたことで見限られているのだ」
「……」
「その違いもわからぬうちは、領政など任せられん」
カレルは動けなかった。
足の裏が床に貼りついたみたいだった。
窓の外では陽が出ているのに、自分だけがどこか冷たい水の中に取り残されたような気分になる。
――領政から外す。
――国境会議にも出さぬ。
それは単なる叱責ではない。
父が、息子を“当面あてにしない”と決めたということだ。
「当面、お前は屋敷に留まれ」
侯爵は言った。
「書類は一部見せる。だが口は出すな。会議にも来るな。人前にも極力出るな」
「……いつまで」
「私がよいと言うまでだ」
カレルの胸の奥で、何かが音を立てて沈んだ。
嫡男であることは変わらない。
それでも今、自分は確かに切られたのだとわかる。
完全に捨てられたわけではない。だが、信を置かれた立場からは外された。
それがどれほどのことか、さすがの彼にもようやくわかった。
「下がれ」
侯爵の声はもう、これ以上何も言う気がないことを示していた。
カレルは何とか一礼し、部屋を出た。
◇
廊下へ出た瞬間、膝の力が少し抜ける。
壁に手をつきかけて、ぎりぎりで堪えた。そんな姿を召使いに見られたくなかった。
だが、すでに何人かの目はあった。
控えていた従者たちは視線を伏せていたが、それがかえって痛い。
何も聞いていないふりをしている。
つまり、聞かれてはならぬほど重い話があったのだと、皆知っているのだ。
カレルはそのまま自室へ戻った。
扉を閉めた途端、室内の静けさが耳に痛い。
窓の外では春の光が白く庭を照らしているのに、部屋の中だけ薄暗く見えた。
――領政から外す。
――国境の会議にも出さぬ。
――人前にも出るな。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「……そこまでか」
呟いてみても、答える者はいない。
たしかにまずかったのだろう。
婚約の切り方も、父への報告も、手紙も。
――でも、そこまで切られるほどだったのか?
いや――そこまでなのだ。父がそう判断した以上。
カレルは長椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
――自分はただ、苦しかっただけなのに。
そう思う。
だが同時に、その“だけ”が通らない場所に自分はいるのだとも、ようやく少しわかる。
それでもなお、彼にはまだ半分しか見えていなかった。
自分が失ったものの大きさは感じ始めている。
だが、なぜそれを失ったのか、その根はまだ霧の向こうだ。
◇
その頃、ルーヴェン伯爵家では、ヴァンゼ侯爵からの正式な追伸を前に、エーディアの父がひどく静かな顔で言っていた。
「ようやく少しは、親がまともな判断をしたか」
その声には、情け容赦のない冷たさがあった。
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