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27 笑い物にもなれない
王都の春は、国境の春よりいくらか華やかだ。
通りには早咲きの花が運ばれ、貴族街の屋敷では窓辺の布が冬物から軽い色へ替わり始める。
昼間の陽射しにはやわらかさが増し、馬車の行き交う音さえどこか浮き立って聞こえる――はずだった。
だがその頃のカレルにとって、王都の話はどれも薄い硝子越しのものみたいに遠かった。
外へ出ることは禁じられていない。
ただ、“今はまだ控えておけ”という父の意向が、屋敷の空気全体に染み込んでいる。
母は社交の席に連れて行こうとしないし、家令も招待状の束を彼の部屋へは持ってこない。
行こうと思えば行けるのだろう。
けれど、行った先でどう扱われるかを思うと、自然と足が鈍る。
その日、カレルは自室の窓辺で、封を切ったばかりの手紙を読んでいた。
差出人は、王都で親しくしていた友人の一人だった。
剣術の稽古や狩りの席で顔を合わせることの多い、同年代の伯爵令息。文面は丁寧だったが、いつもの軽さがなかった。
『しばらく見かけないので気になっていた。体調でも崩したかと聞いたが、そうでもないらしいな』
そこまでは普通だ。
だが、続きがよくない。
『妙な噂が先に回る前に、何かあれば自分の口から説明した方がよいのではないかと思う』
カレルはその一行の前で、指を止めた。
説明した方がいい。
つまりもう、何かしらの噂が回っているのだ。
彼は顔をしかめ、椅子に沈み込む。
窓の外では、庭師が砂利道を掃いている。規則正しい箒の音が、妙に耳についた。
妙な噂。
いや、妙なのではないのかもしれない。
事実、自分は婚約を壊した。そこまでは否定しようがない。
だが、噂というのは往々にして事実以上に膨らむ。
おそらく今ごろ王都では、自分がよほどの女好きだとか、逆に女嫌いだとか、あるいは放蕩の限りを尽くしたとか、好き勝手に言われているのではないか?
そう考えて、カレルは胸の内に嫌なざわつきを覚えた。
――だがその予想は少し違っていた。
◇
その日の午後、父の命で執務室へ呼ばれた彼は、そこで別の現実を突きつけられることになる。
侯爵は机の向こうで、王都から届いた幾通かの報告をまとめていた。
窓は開いているが、部屋の空気は少しも軽くない。
明るい春の光が机の端を照らしているのに、その光の中にある書状の束だけがいやに冷たく見える。
「座れ」
カレルは黙って従った。
父は一枚の紙を抜き出す。
「お前が知りたがっていた、王都での様子だ」
「……はい」
「知りたいのだろう?」
「それは……」
知りたい。だが、知りたくもない。
相反する感情が喉元で絡まる。
侯爵はそんな息子の迷いなど意に介さず、淡々と読み上げた。
「“ヴァンゼ侯爵家嫡男、国境の縁談を自ら壊す”――まず骨子はそこだ」
カレルは黙って聞く。
「次に、“理由は家同士の不和ではなく、若君本人の資質に関わるものらしい”」
「資質……」
「さらに、“いざ結婚となると責任を負いかねるのでは、という見方が出ている”」
カレルの喉がひりついた。
それは彼が恐れていたような派手な悪評ではなかった。もっと静かで、もっと深く効くものだ。
侯爵は紙を置いた。
「わかるか」
カレルは答えられない。
「放蕩者ならまだ整理がつく。馬鹿な遊び人だと見限れば済む。だが今、お前に向けられているのはそういう目ではない」
侯爵の声には、あの日と同じ冷えがある。
「お前は“何を任せてよいかわからぬ男”として見られ始めている」
「……」
「縁談を支えられぬ。責任のある場で何を言い出すかわからぬ。しかも本人は悪びれるより先に理解を求める」
カレルの手の内側に、じわりと汗が滲んだ。
室内は涼しいのに、掌だけが妙に湿る。
「そこまで……ひどく見られているのですか」
ようやく絞り出した声に、侯爵は容赦がなかった。
「ひどいかどうかは、お前が決めることではない」
その一言で、また口を閉ざすしかなくなる。
「年長の貴族たちは、お前を“国境の縁談ひとつ保てぬ男”として見ている」
「……」
「若い連中はもっと厄介だ。あからさまには何も言わぬが、お前の名が出ると空気が濁る」
侯爵はそこで鼻で息を抜いた。
「笑いものにもなれんのだよ、お前は」
通りには早咲きの花が運ばれ、貴族街の屋敷では窓辺の布が冬物から軽い色へ替わり始める。
昼間の陽射しにはやわらかさが増し、馬車の行き交う音さえどこか浮き立って聞こえる――はずだった。
だがその頃のカレルにとって、王都の話はどれも薄い硝子越しのものみたいに遠かった。
外へ出ることは禁じられていない。
ただ、“今はまだ控えておけ”という父の意向が、屋敷の空気全体に染み込んでいる。
母は社交の席に連れて行こうとしないし、家令も招待状の束を彼の部屋へは持ってこない。
行こうと思えば行けるのだろう。
けれど、行った先でどう扱われるかを思うと、自然と足が鈍る。
その日、カレルは自室の窓辺で、封を切ったばかりの手紙を読んでいた。
差出人は、王都で親しくしていた友人の一人だった。
剣術の稽古や狩りの席で顔を合わせることの多い、同年代の伯爵令息。文面は丁寧だったが、いつもの軽さがなかった。
『しばらく見かけないので気になっていた。体調でも崩したかと聞いたが、そうでもないらしいな』
そこまでは普通だ。
だが、続きがよくない。
『妙な噂が先に回る前に、何かあれば自分の口から説明した方がよいのではないかと思う』
カレルはその一行の前で、指を止めた。
説明した方がいい。
つまりもう、何かしらの噂が回っているのだ。
彼は顔をしかめ、椅子に沈み込む。
窓の外では、庭師が砂利道を掃いている。規則正しい箒の音が、妙に耳についた。
妙な噂。
いや、妙なのではないのかもしれない。
事実、自分は婚約を壊した。そこまでは否定しようがない。
だが、噂というのは往々にして事実以上に膨らむ。
おそらく今ごろ王都では、自分がよほどの女好きだとか、逆に女嫌いだとか、あるいは放蕩の限りを尽くしたとか、好き勝手に言われているのではないか?
そう考えて、カレルは胸の内に嫌なざわつきを覚えた。
――だがその予想は少し違っていた。
◇
その日の午後、父の命で執務室へ呼ばれた彼は、そこで別の現実を突きつけられることになる。
侯爵は机の向こうで、王都から届いた幾通かの報告をまとめていた。
窓は開いているが、部屋の空気は少しも軽くない。
明るい春の光が机の端を照らしているのに、その光の中にある書状の束だけがいやに冷たく見える。
「座れ」
カレルは黙って従った。
父は一枚の紙を抜き出す。
「お前が知りたがっていた、王都での様子だ」
「……はい」
「知りたいのだろう?」
「それは……」
知りたい。だが、知りたくもない。
相反する感情が喉元で絡まる。
侯爵はそんな息子の迷いなど意に介さず、淡々と読み上げた。
「“ヴァンゼ侯爵家嫡男、国境の縁談を自ら壊す”――まず骨子はそこだ」
カレルは黙って聞く。
「次に、“理由は家同士の不和ではなく、若君本人の資質に関わるものらしい”」
「資質……」
「さらに、“いざ結婚となると責任を負いかねるのでは、という見方が出ている”」
カレルの喉がひりついた。
それは彼が恐れていたような派手な悪評ではなかった。もっと静かで、もっと深く効くものだ。
侯爵は紙を置いた。
「わかるか」
カレルは答えられない。
「放蕩者ならまだ整理がつく。馬鹿な遊び人だと見限れば済む。だが今、お前に向けられているのはそういう目ではない」
侯爵の声には、あの日と同じ冷えがある。
「お前は“何を任せてよいかわからぬ男”として見られ始めている」
「……」
「縁談を支えられぬ。責任のある場で何を言い出すかわからぬ。しかも本人は悪びれるより先に理解を求める」
カレルの手の内側に、じわりと汗が滲んだ。
室内は涼しいのに、掌だけが妙に湿る。
「そこまで……ひどく見られているのですか」
ようやく絞り出した声に、侯爵は容赦がなかった。
「ひどいかどうかは、お前が決めることではない」
その一言で、また口を閉ざすしかなくなる。
「年長の貴族たちは、お前を“国境の縁談ひとつ保てぬ男”として見ている」
「……」
「若い連中はもっと厄介だ。あからさまには何も言わぬが、お前の名が出ると空気が濁る」
侯爵はそこで鼻で息を抜いた。
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