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30 新しい地図
私はもう一度手紙へ目を落とした。
『とはいえ、溜飲が下がるのは自然なことですわ。
そこを否定する必要もありません』
そこだけ、少しだけ姉様らしい柔らかさが滲んでいて、私はふっと口元を緩めた。
『それから、アルトン伯爵家の四男殿について。
こちらでも“堅実な方らしい”という評判は少し耳に入りました。
派手さはなくとも、悪い話を聞きません。
悪い話がない、というのは、こういう時にはかなり大きいことです』
「本当に」
思わず声に出た。
王都では、たいてい誰にでも何かしらの噂がつく。
それがない、あるいは少ないというのは、地味だが強い。
『あなたは次に進むことを、裏切りのように感じる必要はありません。
むしろ、最初からあなたは“家のために前へ進む立場”だったのですから』
読み終えると、私はしばらくそのまま窓辺に座っていた。
風がレースのカーテンを少し揺らしている。
陽は明るい。庭の土はもうだいぶ乾き、歩く者の足元で細かな土埃が立つのが見えた。
私は、胸の中にあるものをひとつずつ確かめる。
悔しさはまだある。
でももう、あの夜みたいに喉の奥を塞ぐ形ではない。
制裁は確かに効いている。それも、かなりいい形で。
けれど同時に、私はもう、カレルのことだけで呼吸しているわけではなかった。
仕事――補給路――姉たちの手紙。
お父様の地図。
そして、ユリウスの書いてきた実務的な文面。
そういうものが少しずつ増えて、私の中の場所を取り戻している。
◇
手紙を持ったまま執務室へ向かうと、お父様はちょうどアルトン伯爵家宛ての返書を仕上げたところだった。
「アデルからか」
「ええ」
手渡すと、お父様はざっと目を通し、途中で「ふん」と鼻を鳴らした。
「“繊細なお方”か。なるほどな」
「ずいぶんやさしい言い方ですわね」
「やさしい言い方ほど刺さることもある」
その通りだった。
お父様は紙を机に戻し、私を見た。
「お前はどう思う」
「……少し、ほっとしました」
「ほう」
「皆が、あの方を放蕩者や悪漢としてではなく、“責を負えぬ男”として見ているのが」
そこが大きかった。
もし彼が単なる女好きだとか、派手に遊びすぎたとか、そういう方向で噂されていたら、私が感じた傷の本質とは少しずれてしまう。
でも違った。
ちゃんと、彼の芯の弱さが見抜かれている。
「それに」
私は少しだけ言いよどんだ。
「私が大げさに傷ついたのではなかったのだと、確認できた気がして」
「大げさなものか」
お父様は即答した。
「お前は明確に侮られた。傷ついて当然だ」
その言葉が、思った以上に深く入った。
私は一瞬だけ視線を落とす。
「……はい」
お父様はそこで話題を変えるように、机上の別の書状を指で叩いた。
「アルトン伯爵家から、来週またユリウス殿を寄越すと」
「まあ、もう?」
「河岸と倉の候補地を実際に見たいそうだ」
「そうですの」
胸の中で、何かが小さく動いた。
痛みではない。
驚きと、その少し奥にある、わずかな弾み。
お父様は私の顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「嫌か」
「いいえ」
即答してから、自分でも少し驚いた。
前なら、もう少しだけ間があった気がする。
「むしろ、その方が話が早いかと」
「そうか」
お父様の口元が少しだけゆるむ。
「では、東の倉と河岸だけでなく、南の仮集積所も見せる準備をしておこう」
「はい」
「それから、お前も同行しろ」
「もちろんですわ」
そこまで言って、私はようやく自分の中の変化をはっきり自覚した。
ユリウスがまた来る。
そのことに対して、身構えより先に“話が進む”という感覚が立っている。
これはかなり大きい。
お父様が新しい地図を広げる。
私はその横に立ち、候補地の位置を指で追った。
紙の上の線は黒く、はっきりしている。
窓から入る風が地図の端を少し持ち上げ、私がそれを指で押さえた。
その指先は、もうさっきほど冷たくなかった。
王都ではカレルが、“繊細なお方”として静かに切られ始めている。
こちらではユリウスが、足で見て、地図で考えて、現実を前へ進めている。
その対比が、あまりにも鮮やかだった。
◇
午後、私は倉の配置図を整理し直しながら、ふとひとりで笑ってしまった。
もしベアトリス姉様がこの流れを知ったら、きっと言うだろう。
――あの馬鹿が“繊細なお方”になっている間に、こちらはちゃんと前へ進みますのね、と。
それはたしかに、その通りだった。
『とはいえ、溜飲が下がるのは自然なことですわ。
そこを否定する必要もありません』
そこだけ、少しだけ姉様らしい柔らかさが滲んでいて、私はふっと口元を緩めた。
『それから、アルトン伯爵家の四男殿について。
こちらでも“堅実な方らしい”という評判は少し耳に入りました。
派手さはなくとも、悪い話を聞きません。
悪い話がない、というのは、こういう時にはかなり大きいことです』
「本当に」
思わず声に出た。
王都では、たいてい誰にでも何かしらの噂がつく。
それがない、あるいは少ないというのは、地味だが強い。
『あなたは次に進むことを、裏切りのように感じる必要はありません。
むしろ、最初からあなたは“家のために前へ進む立場”だったのですから』
読み終えると、私はしばらくそのまま窓辺に座っていた。
風がレースのカーテンを少し揺らしている。
陽は明るい。庭の土はもうだいぶ乾き、歩く者の足元で細かな土埃が立つのが見えた。
私は、胸の中にあるものをひとつずつ確かめる。
悔しさはまだある。
でももう、あの夜みたいに喉の奥を塞ぐ形ではない。
制裁は確かに効いている。それも、かなりいい形で。
けれど同時に、私はもう、カレルのことだけで呼吸しているわけではなかった。
仕事――補給路――姉たちの手紙。
お父様の地図。
そして、ユリウスの書いてきた実務的な文面。
そういうものが少しずつ増えて、私の中の場所を取り戻している。
◇
手紙を持ったまま執務室へ向かうと、お父様はちょうどアルトン伯爵家宛ての返書を仕上げたところだった。
「アデルからか」
「ええ」
手渡すと、お父様はざっと目を通し、途中で「ふん」と鼻を鳴らした。
「“繊細なお方”か。なるほどな」
「ずいぶんやさしい言い方ですわね」
「やさしい言い方ほど刺さることもある」
その通りだった。
お父様は紙を机に戻し、私を見た。
「お前はどう思う」
「……少し、ほっとしました」
「ほう」
「皆が、あの方を放蕩者や悪漢としてではなく、“責を負えぬ男”として見ているのが」
そこが大きかった。
もし彼が単なる女好きだとか、派手に遊びすぎたとか、そういう方向で噂されていたら、私が感じた傷の本質とは少しずれてしまう。
でも違った。
ちゃんと、彼の芯の弱さが見抜かれている。
「それに」
私は少しだけ言いよどんだ。
「私が大げさに傷ついたのではなかったのだと、確認できた気がして」
「大げさなものか」
お父様は即答した。
「お前は明確に侮られた。傷ついて当然だ」
その言葉が、思った以上に深く入った。
私は一瞬だけ視線を落とす。
「……はい」
お父様はそこで話題を変えるように、机上の別の書状を指で叩いた。
「アルトン伯爵家から、来週またユリウス殿を寄越すと」
「まあ、もう?」
「河岸と倉の候補地を実際に見たいそうだ」
「そうですの」
胸の中で、何かが小さく動いた。
痛みではない。
驚きと、その少し奥にある、わずかな弾み。
お父様は私の顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「嫌か」
「いいえ」
即答してから、自分でも少し驚いた。
前なら、もう少しだけ間があった気がする。
「むしろ、その方が話が早いかと」
「そうか」
お父様の口元が少しだけゆるむ。
「では、東の倉と河岸だけでなく、南の仮集積所も見せる準備をしておこう」
「はい」
「それから、お前も同行しろ」
「もちろんですわ」
そこまで言って、私はようやく自分の中の変化をはっきり自覚した。
ユリウスがまた来る。
そのことに対して、身構えより先に“話が進む”という感覚が立っている。
これはかなり大きい。
お父様が新しい地図を広げる。
私はその横に立ち、候補地の位置を指で追った。
紙の上の線は黒く、はっきりしている。
窓から入る風が地図の端を少し持ち上げ、私がそれを指で押さえた。
その指先は、もうさっきほど冷たくなかった。
王都ではカレルが、“繊細なお方”として静かに切られ始めている。
こちらではユリウスが、足で見て、地図で考えて、現実を前へ進めている。
その対比が、あまりにも鮮やかだった。
◇
午後、私は倉の配置図を整理し直しながら、ふとひとりで笑ってしまった。
もしベアトリス姉様がこの流れを知ったら、きっと言うだろう。
――あの馬鹿が“繊細なお方”になっている間に、こちらはちゃんと前へ進みますのね、と。
それはたしかに、その通りだった。
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