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第5話 初夜をすっぽかされた令嬢と侯爵家の帳簿
クロフォード侯爵家の出納帳は、想像していたよりも分厚かった。
「こちらが、ここ十年分の家計簿でございます、奥さま」
執事のノアが、両手で抱えるようにして帳簿の束を机に置いた。
灰色の髪をきちんと撫でつけた年配の男で、仕える家が傾きかけていることを骨の髄まで理解しているタイプの人間だと、第一印象で分かった。
「ありがとうございます、ノアさん。拝見しますわ」
私は書斎にひとり残り、最初の一冊を開いた。
十年前。
まだレイモンドが少年だったころの帳簿は、今よりはるかに整っていた。
収入。支出。
王都の別邸の維持費。領地からの年貢。
どれも無理はあるが、破綻とまではいかない数字が並んでいる。
ページをめくり、一年ずつ追っていく。
「――ここから、ですね」
レイモンドが成人し、「侯爵家嫡男」として本格的に社交界に出始めた年。
帳簿の数字が、目に見えて歪み始める。
馬車の新調。
新進気鋭の仕立屋の服。
気前よく振る舞った宴会の費用。
それ自体は、貴族の子息としてある程度は許容される出費だ。
ただし、条件がひとつつく。
――家の基礎が健康であるならば、だ。
「健康どころか、骨まで軋んでいるじゃないの」
私は小さく息を吐いた。
年ごとに増え続ける借入金。
利子だけで、領地の収入がほとんど消えている年もある。
赤インクで、問題のある箇所に印をつけていく。
節目ごとに、横に小さくメモを書く。
『原因:レイモンド様の交際費』
『不要な贈答品』
『ルルゥ嬢関連費用?』
後ろのほうに、見慣れた名前が現れた。
「ブラン男爵家への贈り物、ね」
香水。宝飾品。花。
それだけならまだ可愛げがあるが、男爵家の屋敷改装費の一部まで「お心付け」として出ているのは、さすがに笑えなかった。
「恋というのは、どうしてこう、数字から目を逸らすのが上手なのかしら」
独り言のようにつぶやきながら、さらにページをめくる。
私への持参金が入った年。
たしかに一度は、数字が持ち直している。
だが、それも束の間だった。
新しく雇った楽団。
改装された客間。
「新婚夫妻のための」祝宴費用。
「……新婚、ですって」
思わず、ペン先が止まる。
あの日、私がひとりで寝た婚礼の夜。
夫は私のいない客間で、愛人たちと杯を重ねていたわけだ。
その酒代に、私の持参金が使われている。
私は、静かに帳簿を閉じた。
◇
「……というわけで、このままの生活を続ければ、三年で確実に破綻します」
翌日。
私は侯爵夫妻とレイモンドを前に、簡潔に結論だけを述べた。
「さ、三年で……?」
義母が青ざめ、義父は苦い顔をする。
レイモンドだけが、まだ状況を理解しきれていない顔で眉をひそめた。
「そんな大げさな。今までも何とかなってきたんだ。これからも――」
「今までは、“まだ”借りられる相手が残っていたからです」
私は淡々と言葉を重ねる。
「けれど、婚姻契約によってグレイス伯爵家が大口の貸し手になった以上、今までのような借金の重ね方はできません。
私の実家が、レイモンド様の浪費を前提とした融資を続けると思いまして?」
レイモンドが、むっとしたように唇を噛む。
「浪費って言い方は失礼じゃないか? 社交費用だ。貴族が貴族として生きるためには――」
「必要な社交もありますわね」
私は彼の言葉を途中で掬い上げる。
「ただ、昨日みたいに愛人を屋敷に招き入れるのは、“社交”ではなく“醜聞”です。社交費用として認められる支出と、ただの見栄や浪費とを区別するのは、侯爵家の当主となるべき方の仕事の一部ですわ」
「なっ……!」
レイモンドの顔が赤くなる。
「アリア、君は……僕のやり方が、そんなに気に入らないのか?」
ようやく核心に触れたらしい。
私は少しだけ考えてから、正直に答えることにした。
「ええ。気に入りません」
義母が小さく悲鳴を上げ、義父が咳払いをする。
だが、ここで言葉を濁しても意味はない。
「私はグレイス伯爵家の一人娘として、ある程度の“非常識”には慣れております」
夜会で酔いつぶれる男。
愛人に本妻の悪口を漏らす男。
財産目当てで近づいてくる親戚たち。
見てきたものは、数え上げればきりがない。
「ですが、夫が“家を支える契約”を結んだその翌日に、その契約の相手と家を侮辱する行動を取る。それは、ただの愚かさです」
私はレイモンドを真正面から見た。
「愚かさには値段がつきます。帳簿の上では、はっきりと」
「こちらが、ここ十年分の家計簿でございます、奥さま」
執事のノアが、両手で抱えるようにして帳簿の束を机に置いた。
灰色の髪をきちんと撫でつけた年配の男で、仕える家が傾きかけていることを骨の髄まで理解しているタイプの人間だと、第一印象で分かった。
「ありがとうございます、ノアさん。拝見しますわ」
私は書斎にひとり残り、最初の一冊を開いた。
十年前。
まだレイモンドが少年だったころの帳簿は、今よりはるかに整っていた。
収入。支出。
王都の別邸の維持費。領地からの年貢。
どれも無理はあるが、破綻とまではいかない数字が並んでいる。
ページをめくり、一年ずつ追っていく。
「――ここから、ですね」
レイモンドが成人し、「侯爵家嫡男」として本格的に社交界に出始めた年。
帳簿の数字が、目に見えて歪み始める。
馬車の新調。
新進気鋭の仕立屋の服。
気前よく振る舞った宴会の費用。
それ自体は、貴族の子息としてある程度は許容される出費だ。
ただし、条件がひとつつく。
――家の基礎が健康であるならば、だ。
「健康どころか、骨まで軋んでいるじゃないの」
私は小さく息を吐いた。
年ごとに増え続ける借入金。
利子だけで、領地の収入がほとんど消えている年もある。
赤インクで、問題のある箇所に印をつけていく。
節目ごとに、横に小さくメモを書く。
『原因:レイモンド様の交際費』
『不要な贈答品』
『ルルゥ嬢関連費用?』
後ろのほうに、見慣れた名前が現れた。
「ブラン男爵家への贈り物、ね」
香水。宝飾品。花。
それだけならまだ可愛げがあるが、男爵家の屋敷改装費の一部まで「お心付け」として出ているのは、さすがに笑えなかった。
「恋というのは、どうしてこう、数字から目を逸らすのが上手なのかしら」
独り言のようにつぶやきながら、さらにページをめくる。
私への持参金が入った年。
たしかに一度は、数字が持ち直している。
だが、それも束の間だった。
新しく雇った楽団。
改装された客間。
「新婚夫妻のための」祝宴費用。
「……新婚、ですって」
思わず、ペン先が止まる。
あの日、私がひとりで寝た婚礼の夜。
夫は私のいない客間で、愛人たちと杯を重ねていたわけだ。
その酒代に、私の持参金が使われている。
私は、静かに帳簿を閉じた。
◇
「……というわけで、このままの生活を続ければ、三年で確実に破綻します」
翌日。
私は侯爵夫妻とレイモンドを前に、簡潔に結論だけを述べた。
「さ、三年で……?」
義母が青ざめ、義父は苦い顔をする。
レイモンドだけが、まだ状況を理解しきれていない顔で眉をひそめた。
「そんな大げさな。今までも何とかなってきたんだ。これからも――」
「今までは、“まだ”借りられる相手が残っていたからです」
私は淡々と言葉を重ねる。
「けれど、婚姻契約によってグレイス伯爵家が大口の貸し手になった以上、今までのような借金の重ね方はできません。
私の実家が、レイモンド様の浪費を前提とした融資を続けると思いまして?」
レイモンドが、むっとしたように唇を噛む。
「浪費って言い方は失礼じゃないか? 社交費用だ。貴族が貴族として生きるためには――」
「必要な社交もありますわね」
私は彼の言葉を途中で掬い上げる。
「ただ、昨日みたいに愛人を屋敷に招き入れるのは、“社交”ではなく“醜聞”です。社交費用として認められる支出と、ただの見栄や浪費とを区別するのは、侯爵家の当主となるべき方の仕事の一部ですわ」
「なっ……!」
レイモンドの顔が赤くなる。
「アリア、君は……僕のやり方が、そんなに気に入らないのか?」
ようやく核心に触れたらしい。
私は少しだけ考えてから、正直に答えることにした。
「ええ。気に入りません」
義母が小さく悲鳴を上げ、義父が咳払いをする。
だが、ここで言葉を濁しても意味はない。
「私はグレイス伯爵家の一人娘として、ある程度の“非常識”には慣れております」
夜会で酔いつぶれる男。
愛人に本妻の悪口を漏らす男。
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見てきたものは、数え上げればきりがない。
「ですが、夫が“家を支える契約”を結んだその翌日に、その契約の相手と家を侮辱する行動を取る。それは、ただの愚かさです」
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