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23 頼み込むエレオノール
書斎を出たあと、家の中の空気はさらに薄くなったように思えた。
誰も大きな声は出していなかった。
けれど言葉が止まるたび、さっきまで部屋の中にあった父の一言一言が、そのまま廊下へ染み出してきているようだった。
――今日はもう、誰もベッリーニ家へは行かせない。
――使いが来ても、すぐには通すな。
その決定だけで、屋敷じゅうの流れが変わる。
玄関側の下男は、いつもの午後より扉の音に敏くなるだろう。
女中頭は、表からの来訪にどう応じるかを頭の中で組み直しているはずだ。
母付きの侍女たちも、夫人の顔色と客間の支度の有無を測りながら動くことになる。
そして何より、エレオノールが落ち着いていられるはずがなかった。
セリーヌは二階へ戻る途中、表階段の踊り場でわずかに足を止めた。
大きな窓の向こうでは、庭の明るさが少しやわらいでいる。午後の盛りを越え、光が角を失い始めたのだ。
けれど空はまだ晴れている。昨日のように色を変える前ぶれは無い。それなのに、屋敷の中だけがどこか不穏だった。
自室へ戻る前に、高窓の前を曲がる。
その先の廊下から、小さく息を呑むような音がした。エレオノールだった。
彼女は一人ではなく、母付きの侍女を連れていた。けれどその侍女さえ少し困った顔をしている。
「お嬢様、奥様が今はお部屋でお休みくださいと」
「だから、少しだけ庭へ出るだけよ」
「ですが旦那様が――」
「お父様には言わないでちょうだい」
その声はもう、可愛い妹の甘えではなかった。追い詰められた子供が、最後の抜け道へしがみついている響きだ。
セリーヌは廊下の陰に半歩だけ身を寄せた。
エレオノールは顔色が悪い。だが泣き腫らした弱々しさよりも、じっとしていられない焦りのほうが前へ出ていた。
たぶんマルコへ連絡を取りたいのだろう。
父が「使いが来ても通すな」と言った以上、向こうもこちらの様子が読めない。だから自分から何かしなければと、ようやくそう思い至ったのだ。
「庭へ出てどうなさるのです」
侍女が控えめに言う。
「少し風に当たりたいの」
「本当に、それだけで?」
「ええ」
嘘が下手だ、とセリーヌは思った。
エレオノールは嘘そのものはつく。隠すことにも慣れている。
けれど切羽詰まると、声へ焦りが混じる。今まではそれで周囲が勝手に庇ってくれたから、押し通れていただけで。
侍女はなお迷っていたが、やがて困ったように頭を下げた。
「少しだけでございますよ」
「分かってるわ」
エレオノールはそう言って、急ぎ足で温室側の通路へ向かった。セリーヌは数拍おいてから、そのあとを静かに追う。
追うと言っても、足音を忍ばせて尾けるほどではない。
ただ、行き先は分かっていた。妹は正面の庭へは出ない。人目があるからだ。行くなら温室脇の庇か、その先の細道だろう。これまでそうしてきたのだから。
硝子戸の向こうへ出ると、空気はもう昼の熱を少しだけ失っていた。
午後の後半に入りかけた庭は、明るいまま落ち着いている。温室の影は短くはない。石畳の端の乾ききらない部分だけが、まだ濃い色を残している。
庇の下に、エレオノールの姿があった。
そこに、もう一人――ジュリアンだった。彼は木箱の脇で、ちょうど縄をまとめていたところらしい。
エレオノールに呼び止められたのだろう。表情は変わらないが、手の動きが止まっている。
「ですから、少しだけでいいの」
エレオノールがせがむように言う。
「表門までは行かなくていいわ。脇のほうを見てきてくださるだけで」
「何を」
「決まっているでしょう、ベッリーニ家から使いが来ていないかを」
ジュリアンはすぐには答えなかった。その沈黙に、エレオノールの焦りがいっそう濃くなる。
「お願いよ。あなた、庭側ならすぐ分かるでしょう」
「分かるでしょうが」
「では――」
「お断りします」
言い方は静かだがはっきりしていた。エレオノールは目を見開く。
たぶん今まで、こういうふうに明確に断られたことが少ないのだろう。
使用人の家の者に頼めば何とかなる、少なくとも曖昧にはしてもらえる、どこかでそう思っていた顔だった。
「……どうして」
「旦那様が、家からは誰も動かすなとおっしゃったのでしょう」
「あなたは家の使用人ではないじゃない」
「それでも、庭にいる者です」
ジュリアンの声には、冷たさより線引きがあった。
「見に行って、来ておりませんと言えば、それで済みますか」
「済むわ」
「本当に」
「ええ」
「では、来ていたら?」
エレオノールが言葉を失う。その一拍で十分だった。来ていた場合にどうするかまでは、考えていないのだ。
考えていたとしても、せいぜい自分だけ先に知って、父より前に手を打きたい、その程度だろう。
「……お嬢様が今なさりたいのは、風に当たることではなく、先回りでしょう」
ジュリアンは言う。
「それを手伝う気はありません」
セリーヌは温室の影から、そのやりとりを見ていた。不思議と、胸が静かだった。
ジュリアンがどう答えるか、半ば分かっていたからかもしれない。彼は味方になるつもりでいても、誰彼かまわず片棒を担ぐわけではない。そこが彼の賢さだ。
エレオノールは頬を赤くした。
「生意気ね」
「そうかもしれません」
「私はただ――」
「お困りなのでしょう」
その言葉に、エレオノールはかえって傷ついたような顔になった。
自分が可哀想な立場にいることは認めたい。けれど「困っている」と言われると、急に小さくされた気がするのだろう。
「でしたら、奥様か旦那様にお話しください」
「そんなこと出来るわけないでしょう!」
思わず出たその声が、庇の下で少しだけ響いた。
そこでようやく、自分がどんなことを言っているのか気づいたらしい。エレオノールは口を押さえ、周囲を見た。
その視線が温室の影へ滑りかけたので、セリーヌは一歩だけ退く。
だが次の瞬間、別のところから足音がした。庭番頭だった。
裏の小道のほうからこちらへ来て、庇の下の空気を見た瞬間に事情を察した顔になる。何も知らない者の顔ではない。ただ、知っていても余計なことは言わない人間の顔だ。
「お嬢様」
彼はエレオノールに向かって頭を下げた。
「このあたりは、今朝の雨でまだ滑ります。どうぞ母屋へ」
「私はただ……」
「ええ。ですが、奥様がお探しでございました」
それは嘘ではないだろう。母はきっと、娘が部屋にいないと知った時点で誰かに探させる。
今日の母にとって、家族が勝手に動くことほど疲れることはないはずだ。
エレオノールは唇を噛んだ。ジュリアンを見、庭番頭を見、それから母屋のほうを見た。
どこにも自分の思うような逃げ道が無いと、ようやく分かった顔だった。
「……分かったわ」
その一言だけ残して、彼女は踵を返した。
母屋へ戻る背中は、昨日までより明らかに小さく見えた。華やかに見えるよう常日頃から整えられていた人が、急に自分の輪郭を持てなくなった時の背中だ。
庭番頭はそのあとを見送り、それからジュリアンへ短く視線を寄越した。
「お前は東の生垣を見てこい」
「はい」
「温室側はもういい」
「分かりました」
言外に、ここから離れろという意味も含まれているのだろう。ジュリアンは素直に頷いた。
庭番頭が去るのを見計らって、セリーヌはようやく温室の影から出た。ジュリアンは気づいていたらしい。驚いた顔はしなかった。
「ご覧になっていましたか」
「少しだけ」
「少しには見えません」
「嫌な言い方」
ジュリアンは木箱の上の縄をひとつ持ち上げた。もうここを離れるつもりなのだろう。
「今のは」
セリーヌが言う。
「助かったわ」
「私は何もしておりません」
「いいえ。ちゃんと断ってくれたもの」
そう言うと、ジュリアンは視線を少しだけ逸らした。
「頼まれれば誰にでも動くと思われるのは、あまり好みません」
「そうでしょうね」
「それに」
そこで彼は、少しだけ言葉を選んだ。
「今は、あの方が勝手に動くと余計にこじれます」
「分かっているのね」
「見れば」
その返しに、セリーヌは庇の外へ目をやった。庭は穏やかなままだ。
人の感情とは関係なく、陽は少しずつ傾いていく。若葉の色も、昼の白さから、ゆっくり柔らかい緑へ戻り始めていた。
「……エレオノールは、どうなると思う?」
セリーヌがふと聞く。ジュリアンはすぐには答えなかった。
「どうなってほしいか、ではなく?」
「ええ」
「でしたら」
彼は母屋のほうを見た。
「初めて、自分一人では何も動かせないと知るのではないでしょうか」
その言い方は冷たくなかった。ただ、見たままを言う人の声だった。
セリーヌはゆっくり息を吐く。
妹は今まで、自分が手を伸ばせば何とかなる側にいた。誰かが整え、誰かが譲り、誰かが「この子も悩んだのよ」と言ってくれる側に。
けれど今日、父は見ない。母は庇いきれない。使用人の家の息子にも断られる。
そういう小さなことの積み重ねが、彼女にはたぶんいちばん堪える。
「可哀想だと思う?」
自分でも少し意地の悪い問いだと思った。
ジュリアンはそれを咎める顔もせず、少しだけ首を傾けた。
「今のあの方は、そう見せるのがお上手ではありませんね」
「上手ではない?」
「ええ。本当に怯えているのでしょうが、それでもまだ『自分だけは何とかなるはずだった』顔が残っている」
セリーヌは黙った。
たしかにその通りだ。エレオノールは怯えている。だが失ったものの大きさより先に、「どうして自分がこんな目に」という気持ちがまだあるのだろう。
「あなたは、細かいところをよく見るのね」
「庭の人ですから」
「何でもそれで済ませる」
「便利です」
その返しに、セリーヌはまたほんの少しだけ息を漏らした。笑うには短すぎる、けれど黙っているよりましな音だった。
ジュリアンはその音を聞いても何も言わず、ただ縄を抱え直した。
「書斎から出てこられた顔よりは、今のほうがまだましです」
「そう見える?」
「ええ」
「それは残念ね」
「なぜです」
「ひどい顔をしていたほうが、私らしいかもしれないもの」
そう言うと、ジュリアンは少しだけ眉を寄せた。
「私はそうは思いません」
「どうして」
「……ひどい顔をなさるのは、もう十分見ました」
その言い方があまりに静かで、セリーヌは一瞬返事を失った。
見ていたのだ。やはり。
泣いたあとを隠した顔も、何でもないふうにしている顔も、誰にも分からないと思っていた時の顔も。
庇の下に、短い沈黙が落ちた。
遠くで小鳥が一声鳴き、すぐにやむ。午後の庭の音は、どれも近いのに騒がしくない。
「……そう」
セリーヌはようやくそう言った。それ以上の言葉は、今は出なかった。
礼を言うにも、笑うにも、少し遅い気がして。ただ、その一言だけが、思ったより深く胸へ落ちた。
ジュリアンはそれを追わなかった。
「私は東へ行きます」
「ええ」
「何かあれば、庭へ」
「覚えているわ」
そう返すと、彼は頷いて庇の外へ出た。
午後の陽の中へ歩いていく背中は、昨夜よりもずっとはっきりして見える。庭の者の歩き方で、けれどただの使用人ではない人の背中だった。
セリーヌはその背を見送り、それからゆっくり母屋のほうへ戻った。
屋敷の中では、まだ何も終わっていない。むしろ、これからまた別の形でこじれていくのだろう。
父は沈黙の中で怒りを煮詰め、母は壊れた段取りの継ぎ目を探し、エレオノールは初めて自分の足場が揺れる音を聞いている。
その中へ戻るのは楽ではない。
けれど今日のセリーヌは、自分だけがそこに閉じ込められているわけではないと知っていた。
誰も大きな声は出していなかった。
けれど言葉が止まるたび、さっきまで部屋の中にあった父の一言一言が、そのまま廊下へ染み出してきているようだった。
――今日はもう、誰もベッリーニ家へは行かせない。
――使いが来ても、すぐには通すな。
その決定だけで、屋敷じゅうの流れが変わる。
玄関側の下男は、いつもの午後より扉の音に敏くなるだろう。
女中頭は、表からの来訪にどう応じるかを頭の中で組み直しているはずだ。
母付きの侍女たちも、夫人の顔色と客間の支度の有無を測りながら動くことになる。
そして何より、エレオノールが落ち着いていられるはずがなかった。
セリーヌは二階へ戻る途中、表階段の踊り場でわずかに足を止めた。
大きな窓の向こうでは、庭の明るさが少しやわらいでいる。午後の盛りを越え、光が角を失い始めたのだ。
けれど空はまだ晴れている。昨日のように色を変える前ぶれは無い。それなのに、屋敷の中だけがどこか不穏だった。
自室へ戻る前に、高窓の前を曲がる。
その先の廊下から、小さく息を呑むような音がした。エレオノールだった。
彼女は一人ではなく、母付きの侍女を連れていた。けれどその侍女さえ少し困った顔をしている。
「お嬢様、奥様が今はお部屋でお休みくださいと」
「だから、少しだけ庭へ出るだけよ」
「ですが旦那様が――」
「お父様には言わないでちょうだい」
その声はもう、可愛い妹の甘えではなかった。追い詰められた子供が、最後の抜け道へしがみついている響きだ。
セリーヌは廊下の陰に半歩だけ身を寄せた。
エレオノールは顔色が悪い。だが泣き腫らした弱々しさよりも、じっとしていられない焦りのほうが前へ出ていた。
たぶんマルコへ連絡を取りたいのだろう。
父が「使いが来ても通すな」と言った以上、向こうもこちらの様子が読めない。だから自分から何かしなければと、ようやくそう思い至ったのだ。
「庭へ出てどうなさるのです」
侍女が控えめに言う。
「少し風に当たりたいの」
「本当に、それだけで?」
「ええ」
嘘が下手だ、とセリーヌは思った。
エレオノールは嘘そのものはつく。隠すことにも慣れている。
けれど切羽詰まると、声へ焦りが混じる。今まではそれで周囲が勝手に庇ってくれたから、押し通れていただけで。
侍女はなお迷っていたが、やがて困ったように頭を下げた。
「少しだけでございますよ」
「分かってるわ」
エレオノールはそう言って、急ぎ足で温室側の通路へ向かった。セリーヌは数拍おいてから、そのあとを静かに追う。
追うと言っても、足音を忍ばせて尾けるほどではない。
ただ、行き先は分かっていた。妹は正面の庭へは出ない。人目があるからだ。行くなら温室脇の庇か、その先の細道だろう。これまでそうしてきたのだから。
硝子戸の向こうへ出ると、空気はもう昼の熱を少しだけ失っていた。
午後の後半に入りかけた庭は、明るいまま落ち着いている。温室の影は短くはない。石畳の端の乾ききらない部分だけが、まだ濃い色を残している。
庇の下に、エレオノールの姿があった。
そこに、もう一人――ジュリアンだった。彼は木箱の脇で、ちょうど縄をまとめていたところらしい。
エレオノールに呼び止められたのだろう。表情は変わらないが、手の動きが止まっている。
「ですから、少しだけでいいの」
エレオノールがせがむように言う。
「表門までは行かなくていいわ。脇のほうを見てきてくださるだけで」
「何を」
「決まっているでしょう、ベッリーニ家から使いが来ていないかを」
ジュリアンはすぐには答えなかった。その沈黙に、エレオノールの焦りがいっそう濃くなる。
「お願いよ。あなた、庭側ならすぐ分かるでしょう」
「分かるでしょうが」
「では――」
「お断りします」
言い方は静かだがはっきりしていた。エレオノールは目を見開く。
たぶん今まで、こういうふうに明確に断られたことが少ないのだろう。
使用人の家の者に頼めば何とかなる、少なくとも曖昧にはしてもらえる、どこかでそう思っていた顔だった。
「……どうして」
「旦那様が、家からは誰も動かすなとおっしゃったのでしょう」
「あなたは家の使用人ではないじゃない」
「それでも、庭にいる者です」
ジュリアンの声には、冷たさより線引きがあった。
「見に行って、来ておりませんと言えば、それで済みますか」
「済むわ」
「本当に」
「ええ」
「では、来ていたら?」
エレオノールが言葉を失う。その一拍で十分だった。来ていた場合にどうするかまでは、考えていないのだ。
考えていたとしても、せいぜい自分だけ先に知って、父より前に手を打きたい、その程度だろう。
「……お嬢様が今なさりたいのは、風に当たることではなく、先回りでしょう」
ジュリアンは言う。
「それを手伝う気はありません」
セリーヌは温室の影から、そのやりとりを見ていた。不思議と、胸が静かだった。
ジュリアンがどう答えるか、半ば分かっていたからかもしれない。彼は味方になるつもりでいても、誰彼かまわず片棒を担ぐわけではない。そこが彼の賢さだ。
エレオノールは頬を赤くした。
「生意気ね」
「そうかもしれません」
「私はただ――」
「お困りなのでしょう」
その言葉に、エレオノールはかえって傷ついたような顔になった。
自分が可哀想な立場にいることは認めたい。けれど「困っている」と言われると、急に小さくされた気がするのだろう。
「でしたら、奥様か旦那様にお話しください」
「そんなこと出来るわけないでしょう!」
思わず出たその声が、庇の下で少しだけ響いた。
そこでようやく、自分がどんなことを言っているのか気づいたらしい。エレオノールは口を押さえ、周囲を見た。
その視線が温室の影へ滑りかけたので、セリーヌは一歩だけ退く。
だが次の瞬間、別のところから足音がした。庭番頭だった。
裏の小道のほうからこちらへ来て、庇の下の空気を見た瞬間に事情を察した顔になる。何も知らない者の顔ではない。ただ、知っていても余計なことは言わない人間の顔だ。
「お嬢様」
彼はエレオノールに向かって頭を下げた。
「このあたりは、今朝の雨でまだ滑ります。どうぞ母屋へ」
「私はただ……」
「ええ。ですが、奥様がお探しでございました」
それは嘘ではないだろう。母はきっと、娘が部屋にいないと知った時点で誰かに探させる。
今日の母にとって、家族が勝手に動くことほど疲れることはないはずだ。
エレオノールは唇を噛んだ。ジュリアンを見、庭番頭を見、それから母屋のほうを見た。
どこにも自分の思うような逃げ道が無いと、ようやく分かった顔だった。
「……分かったわ」
その一言だけ残して、彼女は踵を返した。
母屋へ戻る背中は、昨日までより明らかに小さく見えた。華やかに見えるよう常日頃から整えられていた人が、急に自分の輪郭を持てなくなった時の背中だ。
庭番頭はそのあとを見送り、それからジュリアンへ短く視線を寄越した。
「お前は東の生垣を見てこい」
「はい」
「温室側はもういい」
「分かりました」
言外に、ここから離れろという意味も含まれているのだろう。ジュリアンは素直に頷いた。
庭番頭が去るのを見計らって、セリーヌはようやく温室の影から出た。ジュリアンは気づいていたらしい。驚いた顔はしなかった。
「ご覧になっていましたか」
「少しだけ」
「少しには見えません」
「嫌な言い方」
ジュリアンは木箱の上の縄をひとつ持ち上げた。もうここを離れるつもりなのだろう。
「今のは」
セリーヌが言う。
「助かったわ」
「私は何もしておりません」
「いいえ。ちゃんと断ってくれたもの」
そう言うと、ジュリアンは視線を少しだけ逸らした。
「頼まれれば誰にでも動くと思われるのは、あまり好みません」
「そうでしょうね」
「それに」
そこで彼は、少しだけ言葉を選んだ。
「今は、あの方が勝手に動くと余計にこじれます」
「分かっているのね」
「見れば」
その返しに、セリーヌは庇の外へ目をやった。庭は穏やかなままだ。
人の感情とは関係なく、陽は少しずつ傾いていく。若葉の色も、昼の白さから、ゆっくり柔らかい緑へ戻り始めていた。
「……エレオノールは、どうなると思う?」
セリーヌがふと聞く。ジュリアンはすぐには答えなかった。
「どうなってほしいか、ではなく?」
「ええ」
「でしたら」
彼は母屋のほうを見た。
「初めて、自分一人では何も動かせないと知るのではないでしょうか」
その言い方は冷たくなかった。ただ、見たままを言う人の声だった。
セリーヌはゆっくり息を吐く。
妹は今まで、自分が手を伸ばせば何とかなる側にいた。誰かが整え、誰かが譲り、誰かが「この子も悩んだのよ」と言ってくれる側に。
けれど今日、父は見ない。母は庇いきれない。使用人の家の息子にも断られる。
そういう小さなことの積み重ねが、彼女にはたぶんいちばん堪える。
「可哀想だと思う?」
自分でも少し意地の悪い問いだと思った。
ジュリアンはそれを咎める顔もせず、少しだけ首を傾けた。
「今のあの方は、そう見せるのがお上手ではありませんね」
「上手ではない?」
「ええ。本当に怯えているのでしょうが、それでもまだ『自分だけは何とかなるはずだった』顔が残っている」
セリーヌは黙った。
たしかにその通りだ。エレオノールは怯えている。だが失ったものの大きさより先に、「どうして自分がこんな目に」という気持ちがまだあるのだろう。
「あなたは、細かいところをよく見るのね」
「庭の人ですから」
「何でもそれで済ませる」
「便利です」
その返しに、セリーヌはまたほんの少しだけ息を漏らした。笑うには短すぎる、けれど黙っているよりましな音だった。
ジュリアンはその音を聞いても何も言わず、ただ縄を抱え直した。
「書斎から出てこられた顔よりは、今のほうがまだましです」
「そう見える?」
「ええ」
「それは残念ね」
「なぜです」
「ひどい顔をしていたほうが、私らしいかもしれないもの」
そう言うと、ジュリアンは少しだけ眉を寄せた。
「私はそうは思いません」
「どうして」
「……ひどい顔をなさるのは、もう十分見ました」
その言い方があまりに静かで、セリーヌは一瞬返事を失った。
見ていたのだ。やはり。
泣いたあとを隠した顔も、何でもないふうにしている顔も、誰にも分からないと思っていた時の顔も。
庇の下に、短い沈黙が落ちた。
遠くで小鳥が一声鳴き、すぐにやむ。午後の庭の音は、どれも近いのに騒がしくない。
「……そう」
セリーヌはようやくそう言った。それ以上の言葉は、今は出なかった。
礼を言うにも、笑うにも、少し遅い気がして。ただ、その一言だけが、思ったより深く胸へ落ちた。
ジュリアンはそれを追わなかった。
「私は東へ行きます」
「ええ」
「何かあれば、庭へ」
「覚えているわ」
そう返すと、彼は頷いて庇の外へ出た。
午後の陽の中へ歩いていく背中は、昨夜よりもずっとはっきりして見える。庭の者の歩き方で、けれどただの使用人ではない人の背中だった。
セリーヌはその背を見送り、それからゆっくり母屋のほうへ戻った。
屋敷の中では、まだ何も終わっていない。むしろ、これからまた別の形でこじれていくのだろう。
父は沈黙の中で怒りを煮詰め、母は壊れた段取りの継ぎ目を探し、エレオノールは初めて自分の足場が揺れる音を聞いている。
その中へ戻るのは楽ではない。
けれど今日のセリーヌは、自分だけがそこに閉じ込められているわけではないと知っていた。
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