(5/6完結予定)婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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39 もう戻れない

 マルコに南の倉行きが言い渡されたその日の夕方、ヴァレール家にはもう一通、ベッリーニ家から封書が届いた。
 今度は使いではなく、会頭づきの年かさの番頭が自ら持ってきたものだ。
 表向きには「先日の件につき、会頭より改めて内々のお伺いを」とだけ告げる。だが、その言い方と封の重みだけで十分だった。
 これは謝意やお伺いではなく、家同士の話を前へ進めるための紙だと、誰にでも分かった。
 アルド・ヴァレール会頭はその封を食堂でも小書斎でもなく、大書斎へ持ち込んだ。マドレーヌ夫人も呼ばれた。
 エレオノールは呼ばれない。セリーヌは、もちろんいない。
 夕方の光は、もう日中ほど明るくない。大書斎の高い窓から入る西日の名残が、机の端と革表紙の帳面だけを鈍く照らしていた。暖炉には火はないが、部屋の空気そのものが重かった。
 会頭は封を切り、便箋を一枚、二枚と広げる。
 読み進めるあいだ、夫人は何も言わない。ただ、夫の顔色の動きを見ている。
 その見方に、以前のような「どう丸く収めるか」だけではない疲れが混じっているのを、会頭もたぶん感じていた。

「どう書いてあるの」

 夫人がようやく言うと、会頭は便箋から目を上げずに答えた。

「まずは、次男の処分だ」
「……」
「当面、南の倉へ下げるとある」

 夫人のまぶたがわずかに動く。それは想像の範囲内だったのだろう。だが文面として来ると、やはり重みが違う。

 ――次男。
 ――南の倉。

 つまりベッリーニ家は、マルコを家の表から外して見せることで、まず火元を限定しようとしている。

「それから」

 会頭は続ける。

「若い者同士の面会、文通、そのほか私的な往来は当面一切差し止める」
「ええ」
「婚約その他の結縁に関しては、現時点では白紙に戻したい、とのことだ」

 ――白紙。

 その言葉が部屋の空気を少しだけ変える。夫人は一瞬、何か言いかけるように唇を動かし、それから閉じた。
 白紙。つまり、も無い。
 セリーヌとの元の婚約も無い。エレオノールとの新しい話も無い。
 何もかもを一度、無かった位置へ戻すという意味だ。
 だが実際には、もう無かった位置には戻れない。

「……白紙、……ですって」

 夫人は低く言った。

「ずいぶん都合のよい言い方ね」
「そうだな」
「息子の軽率と次男の未熟で済ませて、家そのものは少し下がるだけで済ませるつもりでしょう」
「そのつもりだろう」

 会頭は便箋を机へ置く。彼は怒っている。だが数日前のような、感情そのままの怒りではない。
 相手の手筋がよく見えるからこその、冷えた怒りだった。
 ベッリーニ家は、向こうなりの理にかなった処置をしている。だからこそ腹が立つ。
 雑な家ならまだ責めやすい。手筋の通った相手ほど、こちらの怒りはぶつける場所を失う。

「ほかには」

 夫人が聞く。

「娘の不在については、一切書いていない」
「……」
「こちらが隠していることを承知の上で、そこへ触れてこない」
「触れれば自分達も困るもの」
「そういうことだ」

 夫人はそこでようやく、背もたれへ少し深くもたれた。

 ベッリーニ家は賢い。セリーヌの失踪を表へ出せば、婚約話の破綻以上の騒ぎになる。
 そうなれば、マルコの軽率だけで火元を切り分けることも難しくなる。だから向こうは触れない。
 触れないことで、こちらにも同じ沈黙を強いる。
 部屋の中に、しばらく紙の匂いだけが残る。――やがて会頭が、別の一枚を手に取った。

「追伸がある」
「追伸?」
「会頭アルド・ベッリーニは、明日、直接そちらへ伺ってもよいと言ってきている」
「明日」

 夫人は目を細めた。

「早いわね」
「向こうも長引かせたくないんだろう」
「でしょうね。白紙と書いて寄越した以上、その先の商売の顔も早く整えたい」
「それもある」
「それだけではないわ」

 彼女は夫を見る。

「向こうも確認したいのでしょう。セリーヌの件を、こちらがどこまで外へ出さないつもりか」

 会頭は返事をしなかった。返事をしないことで、肯定したようなものだった。

 そうなのだ。今、問題は婚約だけではない。
 セリーヌが家を出たことを、どちらの家が、どの時点で、どう扱うか。そこがまだ宙に浮いている。
 ベッリーニ家はたぶん、ヴァレール家が娘の不在を「療養」「親類宅」「宗教的静養」のどれかにでも仕立てるまで待つつもりでいる。
 そしてそれが出来るなら、自分達もまた「次男の未熟」と「婚約白紙」で済ませる顔を整えられる。
 会頭はゆっくり言った。

「明日、来させる」
「ええ」
「このままでは終わらん」

 その声に、夫人は初めて少しだけ真っ直ぐ夫を見た。

「あなたは、何を求めるつもり」
「何を、とは」
「向こうは白紙だと言ってきた。次男を下げるとも。そこからまだ、こちらが何を取るのかという話よ」

 問いは冷静だった。だがその奥には、疲れだけでないものがあった。
 彼女も分かっているのだ。セリーヌがいなくなった以上、この話はもう婚約をどうするかだけでは済まない。
 商売。外聞。娘二人の今後。家の手の内。――全部が絡み合っている。

「まずは向こうの口から、事実の認め方を聞く」

 会頭は答えた。

「次男の軽率で済ませるのか。最初から婚約の差し替えを見込んでいたのか。そこを曖昧にしたまま、こちらだけ娘を失った顔ではいられん」
「向こうが認めると思う?」
「認めさせる」

 短い言葉だった。だが夫人はその勢いに乗らなかった。乗れないのだ。
 今の夫は怒りを理屈に変えているが、理屈だけで押し切れる相手ではないことも、彼女は知っている。

「認めさせたところで」

 彼女は静かに言う。

「セリーヌは戻らないわ」
「……」
「戻らない娘の名誉と、残る商売を、どう同時に扱うの」
「だから話すんだろうが!」

 会頭の声が少しだけ荒くなる。

「向こうが息子を次男として切り離すなら、こちらも娘を“弱って出た”では済ませられん」
「では何と」
「それを今決める」

 その一言で、夫人はまた黙った。

 ――決める。

 そう言う夫の顔は、商会の会頭としては真っ当だ。けれど家族の女として聞くには、あまりに冷たい。
 しばらくの沈黙のあと、彼女はぽつりと口にした。

「……セリーヌがいなくなる前なら、こんな相談は要らなかったのに」

 夫の目が動く。責めるつもりではない、という顔を彼女はしていない。
 かといって、完全な自責でもない。ただ疲れ切った人間が、もうどうにもならない仮定を口にしてしまっただけだ。

「前なら、か」

 会頭は低く繰り返した。

「前ならどうした。お前は、向こうの息子が庭側を使っているのを知っていても、結局何もしなかっただろう」
「……」
「そして私は、娘がいなくなるまで、それを何も見ていなかった――」

 その言葉は、彼自身にも痛かったらしい。言い終えたあと、部屋の中がさらに静かになる。
 彼女は返事をしない。返事をしないが、責め返すこともしなかった。
 それぞれの失敗がある。だが今さらそれを細かく言い合っても、セリーヌの不在は戻らない。
 だから二人とも、その先へ行くしかないのだろう。
 ……扉の向こうで、衣擦れの音がした。二人とも顔を上げる。
 ノックはない。けれど誰かがそこにいる気配だけは分かる。

「誰だ」

 父が問うと、扉が半分だけ開いた。エレオノールだった。
 呼ばれていないことは分かっている様子だ。けれど、立ち聞きしていたのもほとんど認めているような顔でもあった。
 薄い藤色の昼のドレスのまま、髪もまだ整え直されていない。目元は前より少し落ち着いているが、その分、色が無かった。

「何の用だ」

 父の声は冷たい。エレオノールは一度だけ母を見て、それから言った。

「……白紙って、本当にそうなるの」

 問いは父へ向けられたものだったが、半分は母へ縋る声でもあった。
 父はすぐには答えない。
 机の上の便箋――白紙――次男――私的な往来の停止。
 その全部が、娘の問いにどう返るかを、短い沈黙のあいだに決めているようだった。

「そういう方向だ」

 結局、父はそう言った。
 その瞬間、エレオノールの顔がわずかに歪む。
 泣くのを我慢したというより、まだ泣けば何とかなると思っていた最後の薄皮が剥がれた顔だった。

「でも、マルコは」
「今は、
「お父様」


 父は言う。

「向こうは書いてきている。お前も、いい加減そこを理解しろ」

 夫人が目を伏せる。エレオノールは父を見つめたまま動かない。
 たぶん今まで、この家で自分へそんな言い方をした人があまりいなかったのだろう。
 お前とマルコ、ではなく、家と家。恋ではなく、処理と整理。
 その言葉へ置き換えられるのが、彼女には一番堪える。

「……私が悪いのね」

 小さな声で、エレオノールが言う。その一言に、二人ともすぐには答えなかった。
 それはたぶん、どちらにとっても一言で済まない問いだったからだ。
 悪い。だが一人だけではない。
 母も、父も、マルコも、そして家そのものも、みなそれぞれに悪い。
 だが今、その全部を一つずつ言葉にする余裕はない。
 夫人がようやく口を開く。

「今は、誰が悪いかを言っていても仕方がないわ」
「でも」
「お前は静かにしていなさい」

 その言い方に、慰めはほとんど無かった。
 それを聞いたエレオノールの顔は色を無くす。父に切られ、母にも庇われない。
 その位置に自分が立っていることが、ようやく骨まで沁みたのだろう。

「明日、ベッリーニ会頭が来る」

 父が言った。

「その席にお前は出るな」
「……」
「出ても話はよくならん」
「分かりました」

 返事はした。けれどその声には、理解より諦めのほうが濃かった。

 エレオノールが部屋を出ていくと、扉は静かに閉まった。
 その閉まり方が、会頭には少しだけ堪えたのかもしれない。机の上の便箋へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。
 夫人が低く言う。

「明日、何をどう話しても」
「……」
「もう、前の家には戻れないわね」

 彼は返事をしなかった。けれど返事をしないことが、そのまま答えだった。

 ――もう戻れない。

 婚約の差し替え前の家にも、セリーヌがいた家にも、何も知らぬ顔をしていた頃にも。戻れないまま、明日はベッリーニ家と机を挟まねばならない。
 大書斎の窓の外では、日が傾きはじめていた。晴れた一日だったはずなのに、最後にだけ風が少し荒くなる。
 春の終わりは、やはり最後まで落ち着かなかった。
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