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63 次の職場
テレーザと正式に話をしたのは、八月の終わりがようやく見え始めた午後だった。
暑さはまだ残っている。けれど真昼の熱の質が、少しだけ変わってきていた。
石畳の照り返しは強いままなのに、風の底へ乾いたものが混じり始めている。
夏の盛りには、息を吸うだけで胸の内側までぬるくなるようだったのが、今日は少しだけ違った。
石の門の旅籠の裏手へ回ると、小さな庭は前に見た時よりずっと整っていた。
井戸の脇の薬草は刈り込まれ、壁際の葡萄の蔓も余計な枝が払われている。石をつないだ小径も、ただ踏み固められているのではなく、きちんと道として見えるようになっていた。
大きく変えたわけではない。むしろ、もともとそこにあるものをようやくあるべき場所へ戻したような手入れの仕方だ。
ジュリアンの手だと、セリーヌはすぐに分かった。分かったが、そのことを今ここで口にするのは少し違う気がして、黙ってそのまま裏口をくぐる。
旅籠の中は、昼下がりの半端な静けさに包まれていた。宿の者たちが少し遅い昼を済ませ、夕方の客が来る前の隙間の時間だろう。
表では椅子を引く音がひとつ、どこかの部屋で桶を置く音がひとつ、そういう実用の音だけが響いている。
テレーザは、帳場机の後ろに座っていた。
背の高い椅子ではない。立てばすぐ客へ向かえ、座れば帳面へ手が届く、高さの合わない椅子を体のほうで使いこなしているような座り方だった。
机の上には宿泊の控え、小口の荷の札、鍵をまとめた輪、それに半分ほど書きかけた薄い帳面が開いている。
「来たわね」
顔を上げるなり、テレーザが言う。
「はい」
「暑かったでしょう」
「少し」
「少し、で済む顔じゃないわね」
そう言われて、セリーヌは少しだけ口元を動かした。
まだ完全に親しいわけではない。けれど、この女主人は最初から人を丸ごとおだてることをしない。
その代わり、見えていることを見えていると言う。そこが少し楽だった。
「座って」
テレーザが向かいの椅子を示す。
「今日はちゃんと話しましょう」
ちゃんと、という言い方が、軽くはない。セリーヌは椅子へ腰を下ろした。
帳場机の向こうからは、表の戸口まで見通せる。左手の壁際には荷の札を掛ける板があり、右の廊下は宿の部屋へ続いている。
人と荷の両方が、同じ帳場へ一度集まる造りなのだ。小さいが、それだけに手の抜けない場所でもある。
テレーザは机の上の紙を一度整え、それからまっすぐ言った。
「先に言っておくけど、私は困っているからあなたを呼んだの」
「はい」
「でも、困っているから誰でもいいわけじゃない」
「ええ」
「そこは分かってる?」
「たぶん」
その返事に、テレーザは少しだけ眉を上げた。
「たぶん、ね」
「全部分かっているとは、まだ言えませんから」
「そういう答え方をするなら、少なくとも頭は回るんでしょうね」
それは褒め言葉ではなく、確認だった。セリーヌもそれを分かっていたから、笑いもせずに小さく頷く。
「うちは旅籠だけじゃないの」
テレーザが言う。
「見れば分かるでしょうけど、巡礼者の宿、川筋の小荷の預かり、翌日の荷車の取り次ぎ、その全部を少しずつやってる」
「ええ」
「宿だけなら部屋の鍵と食事の数で済む。荷だけなら札と時刻だけで済む。けど両方が混じると、人の都合と品の都合が同じところへ落ちてくるのよ」
「はい」
「今までは私と、亡くなった夫の弟と、その嫁で何とかしてた」
「今は」
「弟嫁は春に子を産んで、奥のことだけで手一杯。弟は川のほうばかり見て、客の機嫌なんか考えない」
言い方に棘がある。だが、その棘が八つ当たりではなく事実に沿っているのも分かる。
「だから手が欲しい」
テレーザは続ける。
「ただ帳面が書けるだけじゃなく、人の顔色と荷の順が両方見える手が」
セリーヌは黙って聞いていた。
紙と客のあいだ。荷と帳場のあいだ。
それは、たしかに自分の手の向きに合う。
そう思うと同時に、胸のどこかで少しだけ緊張が強くなるのも分かった。
ここは、ベッポの店より広い。広いということは、それだけ責任も増えるということだ。
「ベッポから聞いてるわ」
テレーザが言う。
「貸本の帳面を立て直して、代筆までやり始めたって」
「少しだけです」
「少しであそこまで回るなら、十分よ」
「……」
「でも、ここでは“少しだけ”では済まない」
その言い方に、セリーヌは自然と背筋を伸ばした。
テレーザは指を折る。
「宿泊の控え」
「はい」
「荷の預かり札」
「ええ」
「客の支払いと掛けの見分け」
「……」
「手紙の代筆。ときには苦情の受け方。ときには、ここで一晩だけ顔を合わせる商人どうしの機嫌取り」
そこまで並べてから、テレーザは小さく肩をすくめた。
「うんざりするでしょう?」
「少し」
「でも、向いてるかもしれないって顔してる」
それを言い当てられて、セリーヌはほんの少しだけ目を伏せた。
うんざりする。そういう場面もきっとある。
けれど、自分の手がそこまで届くと聞くと、胸の奥のどこかが静かに熱を持つのも本当だった。
「一つだけ、確認したいことがあります」
セリーヌが言う。テレーザは頷く。
「名前のこと?」
「……はい」
「でしょうね」
女主人は机の上で指を組んだ。
「今、町ではあなたをリーネと呼んでる」
「ええ」
「ベッポからも、ルチアからも、そこは変えないほうがいいと聞いてる」
「そうです」
「私は詮索しない」
「ありがとうございます」
「でも、何も知らないまま雇うつもりもない」
その言葉は、静かだった。柔らかくはない。だが当然だ、とセリーヌにも分かる。
旅籠は人と荷を預かる。そこへ、輪郭のない娘をそのまま入れるほど、テレーザは甘くない。
「どこまでなら言える?」
問いは短い。けれど逃げ場をくれない。
セリーヌは少しだけ考えた。
全部を言う気はない。言えない。
あの家の名も、婚約のことも、妹のことも、まだここで口へ出す気はなかった。
だが、何も言わずに働きたいと言うほど、自分ももう幼くはない。
「家から出てきました」
ゆっくり言う。
「身内と上手くいかなかったの」
「ええ」
「戻る気はありません」
「……」
「読み書きと帳面は使えます。家の商いの近くで育ったので、人と品の流れを見るのは慣れています」
テレーザは黙って聞いていた。その目は、人の嘘を探るというより、言わなかったところも含めて重さを量る目だ。
「追手は」
やがて言う。
「今すぐここへ来るほどの?」
「たぶん、まだ」
「まだ」
「細く探っているかもしれません」
「そう」
それだけで、テレーザには十分だったらしい。
「なら、名はそのままリーネでいい」
言う。
「帳面も、宿の者への紹介も」
「はい」
「ただし、帳面に載る以上、私はあなたを“匿っている”つもりでは扱わない」
「……」
「ここへ入るなら、使う。役目も持たせる。責任も負わせる」
「ええ」
「それでいいのね」
セリーヌは、今度はためらわなかった。
「はい」
その返事を聞いて、テレーザは初めて少しだけ口元をゆるめた。
「結構」
それから、机の引き出しから薄い帳面を一冊出す。
「最初のひと月は見習い扱いにする」
「はい」
「部屋は二階の裏。広くはないけど、今のルチアのところよりは少しだけ風が通る」
「十分です」
「食事は朝と夜。昼は忙しいから、その日の流れ次第」
「ええ」
「賃金はこれだけ」
示された額を見て、セリーヌは目を瞬いた。
多すぎるわけではない。だがベッポの店の手間賃とは比べものにならない。
部屋代込みで考えれば、ずっと現実的な額だった。
「ただし」
テレーザが言う。
「これは、私があなたへ期待してる額でもある」
「……」
「小さな店の手伝いなら、もう少し曖昧に置いておけたでしょうね。けどここでは、曖昧な手のままだと逆に困る」
「分かります」
「分かってる顔ね」
「たぶん」
またその返しをしてしまって、今度はセリーヌ自身が少しだけ笑った。
テレーザも、今度は本当に少し笑う。
「来月の頭からでいいわ」
言う。
「その前に三日ほど、朝から夕方まで入って見て」
「はい」
「宿の客の癖も、荷の札の流れも、その場で覚えてもらう」
「ええ」
「それで、無理だと思ったらやめていい」
「……」
「でも、私はたぶん無理じゃないと思ってる」
その言葉は、真っ直ぐだった。まるで、そこを疑う余地がないみたいに。
セリーヌは、その真っ直ぐさを少しだけ眩しく思った。
昔の自分なら、そう言われてもすぐには受け取れなかったかもしれない。けれど今は、少なくともその言葉の前で俯くだけではいられない。
「やってみます」
「ええ」
「きちんと」
「そうして」
話は、それでいったん終わったように見えた。
けれどセリーヌが立ち上がりかけた時、テレーザがふと思い出したように言う。
「それと、裏の庭のこと」
「はい」
「ジュリアンの手、悪くないわ」
「……そう」
「ええ。悪くないどころか、かなりいい」
「それは」
セリーヌは少しだけ言葉を探した。
「よかったです」
「よかったわよ。裏手の出入りは、客から見えないくせに、家の印象を決めるから」
テレーザは椅子にもたれたまま続ける。
「秋から、本格的に任せてもいいかもしれないと思ってる」
「ええ」
「だから、その頃までにあなたが帳場へ入り、彼が庭と裏手へ入るなら」
「……」
「話が早い」
その一言に、セリーヌの胸が静かに波打った。
話が早い。その言い方が、あまりに仕事の話として自然だったからだ。
恋でも約束でもない。ただ、人と仕事の筋がよく通る、というだけの話。
なのに、その自然さがかえって嬉しかった。
「まだ先のことです」
セリーヌは言った。
「もちろん」
テレーザが即座に返す。
「だから今は、先走らないで、自分の足元だけ見なさい」
「はい」
「でも先があると思って働くのは悪くないわ」
「……」
「それだけのことよ」
――それだけのこと。
セリーヌは、その言い方を心の中で一度繰り返した。
ここで働く。裏の庭にはジュリアンが入るかもしれない。来月の頭から。秋から。
そういう先がある。それだけのこと。
それだけのことなのに、帰り道の足が来た時より少し軽かった。
旅籠を出ると、外の光はもう夕方へ傾きかけていた。
石の門の影が少し長くなり、道の熱も、昼よりは呼吸しやすくなっている。
裏手の小さな庭では、葡萄の蔓の先が風にかすかに揺れた。
ジュリアンの姿は、今は見えない。どこか別の箇所を見ているのだろう。
見えないことが、少しだけちょうどよかった。
今すぐ何かを言い交わす必要はない。テレーザの言う通り、まずは自分の足元だ。
来月の頭から、ここへ入る。もう「少しのあいだ置いてもらっている娘」ではなく、旅籠の帳場へ座る人になる。
そのことを思うと、胸の中で何かがすっと定まる。
ルチアの家へ戻ったら、この話をちゃんと伝えよう。ベッポにも礼を言わなければならない。
今の店を離れる寂しさも、きっと少しはある。
だが寂しさより先に、ようやく次の場所へ足をかける感覚のほうが強かった。
石畳の上を、セリーヌはゆっくり歩いた。夏はまだ終わっていない。
けれど終わっていない夏の中で、もう次の季節へ向けた話が、たしかに形を持ちはじめていた。
※いつも読んで下さりありがとうございます。
本日から7・10・15・19時の一日4回枠で、新作
「兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!」
をはじめました。
タイトル通り、主人公アマンダのたった一人の家族である兄の妻が、自分の婚約者と愛の逃避行。
怒りのアマンダが、婚約者の弟ジェイと共に二人を猛スピードで追いかける話です。
こちらもよろしかったらお願いいたします。
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石の門の旅籠の裏手へ回ると、小さな庭は前に見た時よりずっと整っていた。
井戸の脇の薬草は刈り込まれ、壁際の葡萄の蔓も余計な枝が払われている。石をつないだ小径も、ただ踏み固められているのではなく、きちんと道として見えるようになっていた。
大きく変えたわけではない。むしろ、もともとそこにあるものをようやくあるべき場所へ戻したような手入れの仕方だ。
ジュリアンの手だと、セリーヌはすぐに分かった。分かったが、そのことを今ここで口にするのは少し違う気がして、黙ってそのまま裏口をくぐる。
旅籠の中は、昼下がりの半端な静けさに包まれていた。宿の者たちが少し遅い昼を済ませ、夕方の客が来る前の隙間の時間だろう。
表では椅子を引く音がひとつ、どこかの部屋で桶を置く音がひとつ、そういう実用の音だけが響いている。
テレーザは、帳場机の後ろに座っていた。
背の高い椅子ではない。立てばすぐ客へ向かえ、座れば帳面へ手が届く、高さの合わない椅子を体のほうで使いこなしているような座り方だった。
机の上には宿泊の控え、小口の荷の札、鍵をまとめた輪、それに半分ほど書きかけた薄い帳面が開いている。
「来たわね」
顔を上げるなり、テレーザが言う。
「はい」
「暑かったでしょう」
「少し」
「少し、で済む顔じゃないわね」
そう言われて、セリーヌは少しだけ口元を動かした。
まだ完全に親しいわけではない。けれど、この女主人は最初から人を丸ごとおだてることをしない。
その代わり、見えていることを見えていると言う。そこが少し楽だった。
「座って」
テレーザが向かいの椅子を示す。
「今日はちゃんと話しましょう」
ちゃんと、という言い方が、軽くはない。セリーヌは椅子へ腰を下ろした。
帳場机の向こうからは、表の戸口まで見通せる。左手の壁際には荷の札を掛ける板があり、右の廊下は宿の部屋へ続いている。
人と荷の両方が、同じ帳場へ一度集まる造りなのだ。小さいが、それだけに手の抜けない場所でもある。
テレーザは机の上の紙を一度整え、それからまっすぐ言った。
「先に言っておくけど、私は困っているからあなたを呼んだの」
「はい」
「でも、困っているから誰でもいいわけじゃない」
「ええ」
「そこは分かってる?」
「たぶん」
その返事に、テレーザは少しだけ眉を上げた。
「たぶん、ね」
「全部分かっているとは、まだ言えませんから」
「そういう答え方をするなら、少なくとも頭は回るんでしょうね」
それは褒め言葉ではなく、確認だった。セリーヌもそれを分かっていたから、笑いもせずに小さく頷く。
「うちは旅籠だけじゃないの」
テレーザが言う。
「見れば分かるでしょうけど、巡礼者の宿、川筋の小荷の預かり、翌日の荷車の取り次ぎ、その全部を少しずつやってる」
「ええ」
「宿だけなら部屋の鍵と食事の数で済む。荷だけなら札と時刻だけで済む。けど両方が混じると、人の都合と品の都合が同じところへ落ちてくるのよ」
「はい」
「今までは私と、亡くなった夫の弟と、その嫁で何とかしてた」
「今は」
「弟嫁は春に子を産んで、奥のことだけで手一杯。弟は川のほうばかり見て、客の機嫌なんか考えない」
言い方に棘がある。だが、その棘が八つ当たりではなく事実に沿っているのも分かる。
「だから手が欲しい」
テレーザは続ける。
「ただ帳面が書けるだけじゃなく、人の顔色と荷の順が両方見える手が」
セリーヌは黙って聞いていた。
紙と客のあいだ。荷と帳場のあいだ。
それは、たしかに自分の手の向きに合う。
そう思うと同時に、胸のどこかで少しだけ緊張が強くなるのも分かった。
ここは、ベッポの店より広い。広いということは、それだけ責任も増えるということだ。
「ベッポから聞いてるわ」
テレーザが言う。
「貸本の帳面を立て直して、代筆までやり始めたって」
「少しだけです」
「少しであそこまで回るなら、十分よ」
「……」
「でも、ここでは“少しだけ”では済まない」
その言い方に、セリーヌは自然と背筋を伸ばした。
テレーザは指を折る。
「宿泊の控え」
「はい」
「荷の預かり札」
「ええ」
「客の支払いと掛けの見分け」
「……」
「手紙の代筆。ときには苦情の受け方。ときには、ここで一晩だけ顔を合わせる商人どうしの機嫌取り」
そこまで並べてから、テレーザは小さく肩をすくめた。
「うんざりするでしょう?」
「少し」
「でも、向いてるかもしれないって顔してる」
それを言い当てられて、セリーヌはほんの少しだけ目を伏せた。
うんざりする。そういう場面もきっとある。
けれど、自分の手がそこまで届くと聞くと、胸の奥のどこかが静かに熱を持つのも本当だった。
「一つだけ、確認したいことがあります」
セリーヌが言う。テレーザは頷く。
「名前のこと?」
「……はい」
「でしょうね」
女主人は机の上で指を組んだ。
「今、町ではあなたをリーネと呼んでる」
「ええ」
「ベッポからも、ルチアからも、そこは変えないほうがいいと聞いてる」
「そうです」
「私は詮索しない」
「ありがとうございます」
「でも、何も知らないまま雇うつもりもない」
その言葉は、静かだった。柔らかくはない。だが当然だ、とセリーヌにも分かる。
旅籠は人と荷を預かる。そこへ、輪郭のない娘をそのまま入れるほど、テレーザは甘くない。
「どこまでなら言える?」
問いは短い。けれど逃げ場をくれない。
セリーヌは少しだけ考えた。
全部を言う気はない。言えない。
あの家の名も、婚約のことも、妹のことも、まだここで口へ出す気はなかった。
だが、何も言わずに働きたいと言うほど、自分ももう幼くはない。
「家から出てきました」
ゆっくり言う。
「身内と上手くいかなかったの」
「ええ」
「戻る気はありません」
「……」
「読み書きと帳面は使えます。家の商いの近くで育ったので、人と品の流れを見るのは慣れています」
テレーザは黙って聞いていた。その目は、人の嘘を探るというより、言わなかったところも含めて重さを量る目だ。
「追手は」
やがて言う。
「今すぐここへ来るほどの?」
「たぶん、まだ」
「まだ」
「細く探っているかもしれません」
「そう」
それだけで、テレーザには十分だったらしい。
「なら、名はそのままリーネでいい」
言う。
「帳面も、宿の者への紹介も」
「はい」
「ただし、帳面に載る以上、私はあなたを“匿っている”つもりでは扱わない」
「……」
「ここへ入るなら、使う。役目も持たせる。責任も負わせる」
「ええ」
「それでいいのね」
セリーヌは、今度はためらわなかった。
「はい」
その返事を聞いて、テレーザは初めて少しだけ口元をゆるめた。
「結構」
それから、机の引き出しから薄い帳面を一冊出す。
「最初のひと月は見習い扱いにする」
「はい」
「部屋は二階の裏。広くはないけど、今のルチアのところよりは少しだけ風が通る」
「十分です」
「食事は朝と夜。昼は忙しいから、その日の流れ次第」
「ええ」
「賃金はこれだけ」
示された額を見て、セリーヌは目を瞬いた。
多すぎるわけではない。だがベッポの店の手間賃とは比べものにならない。
部屋代込みで考えれば、ずっと現実的な額だった。
「ただし」
テレーザが言う。
「これは、私があなたへ期待してる額でもある」
「……」
「小さな店の手伝いなら、もう少し曖昧に置いておけたでしょうね。けどここでは、曖昧な手のままだと逆に困る」
「分かります」
「分かってる顔ね」
「たぶん」
またその返しをしてしまって、今度はセリーヌ自身が少しだけ笑った。
テレーザも、今度は本当に少し笑う。
「来月の頭からでいいわ」
言う。
「その前に三日ほど、朝から夕方まで入って見て」
「はい」
「宿の客の癖も、荷の札の流れも、その場で覚えてもらう」
「ええ」
「それで、無理だと思ったらやめていい」
「……」
「でも、私はたぶん無理じゃないと思ってる」
その言葉は、真っ直ぐだった。まるで、そこを疑う余地がないみたいに。
セリーヌは、その真っ直ぐさを少しだけ眩しく思った。
昔の自分なら、そう言われてもすぐには受け取れなかったかもしれない。けれど今は、少なくともその言葉の前で俯くだけではいられない。
「やってみます」
「ええ」
「きちんと」
「そうして」
話は、それでいったん終わったように見えた。
けれどセリーヌが立ち上がりかけた時、テレーザがふと思い出したように言う。
「それと、裏の庭のこと」
「はい」
「ジュリアンの手、悪くないわ」
「……そう」
「ええ。悪くないどころか、かなりいい」
「それは」
セリーヌは少しだけ言葉を探した。
「よかったです」
「よかったわよ。裏手の出入りは、客から見えないくせに、家の印象を決めるから」
テレーザは椅子にもたれたまま続ける。
「秋から、本格的に任せてもいいかもしれないと思ってる」
「ええ」
「だから、その頃までにあなたが帳場へ入り、彼が庭と裏手へ入るなら」
「……」
「話が早い」
その一言に、セリーヌの胸が静かに波打った。
話が早い。その言い方が、あまりに仕事の話として自然だったからだ。
恋でも約束でもない。ただ、人と仕事の筋がよく通る、というだけの話。
なのに、その自然さがかえって嬉しかった。
「まだ先のことです」
セリーヌは言った。
「もちろん」
テレーザが即座に返す。
「だから今は、先走らないで、自分の足元だけ見なさい」
「はい」
「でも先があると思って働くのは悪くないわ」
「……」
「それだけのことよ」
――それだけのこと。
セリーヌは、その言い方を心の中で一度繰り返した。
ここで働く。裏の庭にはジュリアンが入るかもしれない。来月の頭から。秋から。
そういう先がある。それだけのこと。
それだけのことなのに、帰り道の足が来た時より少し軽かった。
旅籠を出ると、外の光はもう夕方へ傾きかけていた。
石の門の影が少し長くなり、道の熱も、昼よりは呼吸しやすくなっている。
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ジュリアンの姿は、今は見えない。どこか別の箇所を見ているのだろう。
見えないことが、少しだけちょうどよかった。
今すぐ何かを言い交わす必要はない。テレーザの言う通り、まずは自分の足元だ。
来月の頭から、ここへ入る。もう「少しのあいだ置いてもらっている娘」ではなく、旅籠の帳場へ座る人になる。
そのことを思うと、胸の中で何かがすっと定まる。
ルチアの家へ戻ったら、この話をちゃんと伝えよう。ベッポにも礼を言わなければならない。
今の店を離れる寂しさも、きっと少しはある。
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石畳の上を、セリーヌはゆっくり歩いた。夏はまだ終わっていない。
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婚約は奪われ、アデルは宮廷で静かにクシェの役目を続けることになる。
だがある日、義妹は新たに与えられた王妃の朝の儀礼――ルヴェを聞いて嘲笑した。
「王妃の着替え係?そんなのメイドの仕事でしょう」
その一言で宮廷は凍りつく。
ルヴェとクシェは、王や王妃の私室に入ることを許された最高の名誉職。
それを侮辱することは、王妃そのものを侮辱することと同じだった。
結果――
義妹は婚約破棄。
王太子は儀礼軽視を理由に廃太子。
そして義妹は宮廷から追放される。
すべてを失った義妹は、やがて姉の地位を奪おうと画策するが――。
一方、王妃の最側近として静かに宮廷に立つアデル。
クシェという「王妃に最も近い名誉職」が、やがて王国の運命を動かしていく。
これは、宮廷儀礼を知らなかった者が転落し、
その意味を理解していた者が静かに勝つ物語。
これまでは悉く妹に幸せを邪魔されていました。今後は違いますよ?
satomi
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