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69 もう戻る必要はない
九月の終わりに近づく頃、教会町の朝はようやく、本当に涼しいと呼べるものになった。
旅籠の裏庭へ出ると、井戸の縁が夜の冷えを少し残している。葡萄の蔓は夏より葉を落とし、実の色も深まっていた。
薬草の匂いも、暑さの盛りのように立ちのぼるのではなく、朝の空気の中で静かに混じる。石をつないだ小径にはもう夏のぬかるみは無く、踏むたび乾いた音がした。
その朝、セリーヌはいつもより少し早く帳場へ下りた。
旅籠の朝は忙しい。忙しいが、今ではその忙しさの順番が身体へ入っている。
夜明け前に出る巡礼者の鍵。朝の便へ預ける小荷の札。昨夜遅く着いた客の掛けの確認。
それらを、前ほど肩に力を入れずに捌けるようになっていた。
机の上へ、昨日の控えを広げる。鍵輪を右へ、荷札を左へ。真ん中へ今日の宿泊帳。
それだけの並べ方なのに、セリーヌは時々、それが自分のものになったのだと思って胸の内が少しだけ静かになる。
戸口のほうで足音がした。
「おはようございます、リーネさん」
下働きの少年が、まだ眠そうな顔で桶を抱えながら言う。
「おはよう。井戸の桶は裏へ二つ」
「はい」
「それから、三番の部屋は今朝早く出るから、湯は少なめで」
「分かった!」
少年が走っていく。その背中を見ながら、セリーヌは小さく息をついた。
もう誰も、自分を「手伝いの娘」みたいには見ていない。
帳場にいる人。そういう目で、ここでは呼ばれている。それが何よりありがたかった。
朝の波がひとつ過ぎ、昼へ向かう前の半刻だけ、旅籠には短い静けさが落ちる。その時間に、ベッポがふらりと顔を出した。
紙包みをひとつ抱え、相変わらず丸眼鏡を少し曇らせている。秋になっても、ベッポはどこか少し汗ばんだ人の顔をしていた。
「繁盛してるね」
帳場を見て言う。
「おかげさまで」
セリーヌが答えると、ベッポは「おかげさま、ねえ」と笑った。
「もう立派に旅籠の顔だ」
「まだです」
「その返しも前と同じだけど、前よりずっと似合ってる」
それから彼は、紙包みを机へ置いた。
「見本帳」
「ありがとうございます」
「ついでに、少しだけ外の話も」
その言い方で、セリーヌの指先がほんの少しだけ止まる。
ベッポは気づいているだろう。それでも、わざと大袈裟にはしない。
「ヴァレール家の長女は、南の親類へ静養に出ている、ってことになったらしい」
「そう」
返事は短くした。短くしたが、胸の内では何かが静かに沈んでいくのを感じた。
南の親類。静養。そういう言葉に包み直されたのだ。
きっともう、そのまま冬も越すのだろう。
ベッポは続ける。
「それから、次女さんはあまり表へ出なくなったとか」
「……」
「まあ、教会町まで来る噂なんて半分は余分だけどね」
「そうでしょうね」
「それと」
そこで一拍置く。ベッポなりの気遣いなのかもしれない。
「ベッリーニ家の次男は、まだ南から戻ってないそうだ」
「そう」
今度も短く返した。
マルコの顔は、もう前ほどはっきり浮かばない。浮かばないが、完全に消えたわけでもない。
「聞かないんだね」
ベッポが少しだけ不思議そうに言う。
「何を」
「もっとあれこれ」
「聞いてどうなることでもないもの」
「……そうか」
ベッポはそれ以上は言わなかった。それがありがたい。
紙包みの中身は、注文控えに使いやすい新しい見本帳だった。セリーヌはそれを受け取り、机の引き出しへしまう。
その動きが自分でもひどく自然になっていて、少し前なら考えられなかったと改めて思う。
ベッポが帰ったあと、しばらく机へ向かったまま、セリーヌは何も書かなかった。
――南の親類。
――静養。
――戻らない長女。
表向きには、そういうことになった。
寂しいかと問われれば、寂しさとは少し違う。痛みが無いわけでもない。
けれどそれ以上に、遠くなったのだと感じる。
あの家は、もう自分を家の言葉へ包み直し、自分無しで回るしかない形へ入った。不格好でも、軋みながらでも。
そして自分は、その外側で、別の帳場に座っている。その事実が、じわじわと身体へ落ちてくる。
昼過ぎ、裏手で小さな騒ぎがあった。
葡萄棚の蔓が、昨日からの風で少し外へ流れ、荷車の積み荷へ触れそうになっていたのだ。ジュリアンがすぐ気づいて、枝を軽く返し、紐の掛け方を変えた。
それだけで済む小さなことだったが、見ていたテレーザが「やっぱりいるわね」と満足そうに言った。
夕方、旅籠の前庭には薄い金の光が差した。
秋の入り口の夕方は、夏の終わりと違って空気の底が少し軽い。
暑さはまだある。でも、暑さの中へちゃんと終わりが見える。
その日最後の客を見送り、戸を閉めたあと、セリーヌは裏庭へ出た。
葡萄の蔓の影が、昼より長く石の上へ落ちている。井戸の脇では、ジュリアンが水をひと桶だけ汲んで、薬草へ静かに撒いていた。
夕方の水やりは、昼のような勢いがいらない。ただ、夜の前に土を少し落ち着かせるためのものだ。
「お疲れさま」
セリーヌが言う。ジュリアンは桶を置き、振り向いた。
「お疲れ」
そう返す。
それが自然になってきたことに、セリーヌはまだ少しだけ驚きながら、でももう戸惑いはしなかった。
「ベッポが来たの」
「そうですか」
「ええ」
「何か」
「うちの話を」
ジュリアンは、すぐ意味を取ったらしい。問い返さず、ただ少しだけ待つ。
「長女は南の親類へ静養」
セリーヌは淡く言った。
「そういうことになったみたい」
「……」
「次女はあまり表へ出ていないって」
「ええ」
「マルコはまだ南」
そこまで言って、セリーヌは小さく息をついた。
「これで、ようやく終わった気がする」
ジュリアンはすぐには答えなかった。
終わった。ほんとうにそうなのか、たぶん誰にもきっぱりとは言えない。
家は続くだろうし、噂もいつかまた巡るだろう。
けれど少なくとも、セリーヌ自身の中で、何か一つの輪が閉じたのだと、彼には分かったのだろう。
「そうかもしれません」
やがて言う。
「ええ」
「終わらないまま、遠くなるものもありますけど」
「そうね」
「でも今日は、終わったと思っていい日かもしれない」
その言い方に、セリーヌはほんの少しだけ笑った。
「あなた、たまにそういうこと言うわね」
「たまにだけです」
「ええ」
「いつも言うと、軽くなるので」
その答えがいかにも彼らしくて、また笑えた。
しばらく二人で、葡萄棚の下へ立っていた。
表からは、食堂の片づけの音がかすかに聞こえる。誰かが皿を重ね、遠くで椅子を引き、テレーザが最後の灯りを確かめる気配がある。
その全部が、今のセリーヌには自分の夜へ続く音だった。
戻る家ではなく、帰る場所として。
「ねえ」
セリーヌが言う。
ジュリアンが顔を向ける。
「ここへ来たばかりの頃、私は、ただ見つからないことばかり考えてた」
「ええ」
「でも今は」
「……」
「明日の宿泊控えとか、葡萄をいつ切るかとか、そういうことを先に考えてるの」
「そうですね」
「それが、何だか不思議」
「不思議ですか」
「ええ。だって前は、こんなふうに先のことを考える時、いつも家の都合が先だったもの」
「……」
「今は違うわ」
それは、自分でもようやく言える言葉だった。
家の都合のいい娘。分別があり、静かで、最後には引いてくれる長女。
そういう位置から抜けるために家を出た。
けれど本当に抜けたのだと実感するまでには、こんなにも時間が要った。
「もう」
セリーヌは言った。
「私は、あの家の都合のいい娘じゃないのね」
その一言を口にした瞬間、胸の中に長く張っていた糸が、静かにほどけた気がした。
悲しいわけではない。嬉しいだけでもない。
ただ、とても大きなものが、自分の中でようやく名前を持ってほどけた感じだった。
ジュリアンは何も急いで言わなかった。少しだけ間を置いて、それから静かに言う。
「ええ」
「……」
「もう違います」
それだけだった。それだけで十分だった。
セリーヌは葡萄棚の影を見上げた。
葉の向こうに見える空は、夏の濃い青ではなく、少し高く、少し乾いた色をしている。夜になれば冷えるだろう。明日の朝は、今日よりもっと秋に近いかもしれない。
旅籠の帳場。裏手の庭。自分の机。
彼の持つ鍵。
そういうものが、今の自分のそばにはちゃんとある。
家を出た朝には、何一つ無かった。あったのは、怒りと痛みと、小さな袋だけ。
それが今は、こんなふうに別の形へ変わっている。
「帰りましょう」
セリーヌが言う。ジュリアンは頷いた。
「ええ」
「明日も早いものね」
「そうですね」
「葡萄、もう少ししたら切る?」
「あと三日くらいです」
「そう」
「その頃には、もっと涼しくなります」
「ええ」
二人は並んで裏口へ向かった。
肩が触れるほど近くはない。でも春の頃みたいに、互いに半歩遠慮した距離でもない。
同じ旅籠へ戻る人間として、ただ並んで歩ける距離だ。それが、セリーヌには何よりしっくりきた。
戸口のところで、旅籠の灯りが二人の足元へ落ちる。その灯りの色は、屋敷の大きな燭台よりずっと小さい。
けれど今のセリーヌには、その小さな灯りのほうが、よほど自分の夜に見えた。
秋の入口の風が、葡萄の葉をひとつだけ揺らした。
もう、戻る必要はない。もう、あの家の都合で息をする必要もない。
そう思いながら、セリーヌは旅籠の中へ入った。
旅籠の裏庭へ出ると、井戸の縁が夜の冷えを少し残している。葡萄の蔓は夏より葉を落とし、実の色も深まっていた。
薬草の匂いも、暑さの盛りのように立ちのぼるのではなく、朝の空気の中で静かに混じる。石をつないだ小径にはもう夏のぬかるみは無く、踏むたび乾いた音がした。
その朝、セリーヌはいつもより少し早く帳場へ下りた。
旅籠の朝は忙しい。忙しいが、今ではその忙しさの順番が身体へ入っている。
夜明け前に出る巡礼者の鍵。朝の便へ預ける小荷の札。昨夜遅く着いた客の掛けの確認。
それらを、前ほど肩に力を入れずに捌けるようになっていた。
机の上へ、昨日の控えを広げる。鍵輪を右へ、荷札を左へ。真ん中へ今日の宿泊帳。
それだけの並べ方なのに、セリーヌは時々、それが自分のものになったのだと思って胸の内が少しだけ静かになる。
戸口のほうで足音がした。
「おはようございます、リーネさん」
下働きの少年が、まだ眠そうな顔で桶を抱えながら言う。
「おはよう。井戸の桶は裏へ二つ」
「はい」
「それから、三番の部屋は今朝早く出るから、湯は少なめで」
「分かった!」
少年が走っていく。その背中を見ながら、セリーヌは小さく息をついた。
もう誰も、自分を「手伝いの娘」みたいには見ていない。
帳場にいる人。そういう目で、ここでは呼ばれている。それが何よりありがたかった。
朝の波がひとつ過ぎ、昼へ向かう前の半刻だけ、旅籠には短い静けさが落ちる。その時間に、ベッポがふらりと顔を出した。
紙包みをひとつ抱え、相変わらず丸眼鏡を少し曇らせている。秋になっても、ベッポはどこか少し汗ばんだ人の顔をしていた。
「繁盛してるね」
帳場を見て言う。
「おかげさまで」
セリーヌが答えると、ベッポは「おかげさま、ねえ」と笑った。
「もう立派に旅籠の顔だ」
「まだです」
「その返しも前と同じだけど、前よりずっと似合ってる」
それから彼は、紙包みを机へ置いた。
「見本帳」
「ありがとうございます」
「ついでに、少しだけ外の話も」
その言い方で、セリーヌの指先がほんの少しだけ止まる。
ベッポは気づいているだろう。それでも、わざと大袈裟にはしない。
「ヴァレール家の長女は、南の親類へ静養に出ている、ってことになったらしい」
「そう」
返事は短くした。短くしたが、胸の内では何かが静かに沈んでいくのを感じた。
南の親類。静養。そういう言葉に包み直されたのだ。
きっともう、そのまま冬も越すのだろう。
ベッポは続ける。
「それから、次女さんはあまり表へ出なくなったとか」
「……」
「まあ、教会町まで来る噂なんて半分は余分だけどね」
「そうでしょうね」
「それと」
そこで一拍置く。ベッポなりの気遣いなのかもしれない。
「ベッリーニ家の次男は、まだ南から戻ってないそうだ」
「そう」
今度も短く返した。
マルコの顔は、もう前ほどはっきり浮かばない。浮かばないが、完全に消えたわけでもない。
「聞かないんだね」
ベッポが少しだけ不思議そうに言う。
「何を」
「もっとあれこれ」
「聞いてどうなることでもないもの」
「……そうか」
ベッポはそれ以上は言わなかった。それがありがたい。
紙包みの中身は、注文控えに使いやすい新しい見本帳だった。セリーヌはそれを受け取り、机の引き出しへしまう。
その動きが自分でもひどく自然になっていて、少し前なら考えられなかったと改めて思う。
ベッポが帰ったあと、しばらく机へ向かったまま、セリーヌは何も書かなかった。
――南の親類。
――静養。
――戻らない長女。
表向きには、そういうことになった。
寂しいかと問われれば、寂しさとは少し違う。痛みが無いわけでもない。
けれどそれ以上に、遠くなったのだと感じる。
あの家は、もう自分を家の言葉へ包み直し、自分無しで回るしかない形へ入った。不格好でも、軋みながらでも。
そして自分は、その外側で、別の帳場に座っている。その事実が、じわじわと身体へ落ちてくる。
昼過ぎ、裏手で小さな騒ぎがあった。
葡萄棚の蔓が、昨日からの風で少し外へ流れ、荷車の積み荷へ触れそうになっていたのだ。ジュリアンがすぐ気づいて、枝を軽く返し、紐の掛け方を変えた。
それだけで済む小さなことだったが、見ていたテレーザが「やっぱりいるわね」と満足そうに言った。
夕方、旅籠の前庭には薄い金の光が差した。
秋の入り口の夕方は、夏の終わりと違って空気の底が少し軽い。
暑さはまだある。でも、暑さの中へちゃんと終わりが見える。
その日最後の客を見送り、戸を閉めたあと、セリーヌは裏庭へ出た。
葡萄の蔓の影が、昼より長く石の上へ落ちている。井戸の脇では、ジュリアンが水をひと桶だけ汲んで、薬草へ静かに撒いていた。
夕方の水やりは、昼のような勢いがいらない。ただ、夜の前に土を少し落ち着かせるためのものだ。
「お疲れさま」
セリーヌが言う。ジュリアンは桶を置き、振り向いた。
「お疲れ」
そう返す。
それが自然になってきたことに、セリーヌはまだ少しだけ驚きながら、でももう戸惑いはしなかった。
「ベッポが来たの」
「そうですか」
「ええ」
「何か」
「うちの話を」
ジュリアンは、すぐ意味を取ったらしい。問い返さず、ただ少しだけ待つ。
「長女は南の親類へ静養」
セリーヌは淡く言った。
「そういうことになったみたい」
「……」
「次女はあまり表へ出ていないって」
「ええ」
「マルコはまだ南」
そこまで言って、セリーヌは小さく息をついた。
「これで、ようやく終わった気がする」
ジュリアンはすぐには答えなかった。
終わった。ほんとうにそうなのか、たぶん誰にもきっぱりとは言えない。
家は続くだろうし、噂もいつかまた巡るだろう。
けれど少なくとも、セリーヌ自身の中で、何か一つの輪が閉じたのだと、彼には分かったのだろう。
「そうかもしれません」
やがて言う。
「ええ」
「終わらないまま、遠くなるものもありますけど」
「そうね」
「でも今日は、終わったと思っていい日かもしれない」
その言い方に、セリーヌはほんの少しだけ笑った。
「あなた、たまにそういうこと言うわね」
「たまにだけです」
「ええ」
「いつも言うと、軽くなるので」
その答えがいかにも彼らしくて、また笑えた。
しばらく二人で、葡萄棚の下へ立っていた。
表からは、食堂の片づけの音がかすかに聞こえる。誰かが皿を重ね、遠くで椅子を引き、テレーザが最後の灯りを確かめる気配がある。
その全部が、今のセリーヌには自分の夜へ続く音だった。
戻る家ではなく、帰る場所として。
「ねえ」
セリーヌが言う。
ジュリアンが顔を向ける。
「ここへ来たばかりの頃、私は、ただ見つからないことばかり考えてた」
「ええ」
「でも今は」
「……」
「明日の宿泊控えとか、葡萄をいつ切るかとか、そういうことを先に考えてるの」
「そうですね」
「それが、何だか不思議」
「不思議ですか」
「ええ。だって前は、こんなふうに先のことを考える時、いつも家の都合が先だったもの」
「……」
「今は違うわ」
それは、自分でもようやく言える言葉だった。
家の都合のいい娘。分別があり、静かで、最後には引いてくれる長女。
そういう位置から抜けるために家を出た。
けれど本当に抜けたのだと実感するまでには、こんなにも時間が要った。
「もう」
セリーヌは言った。
「私は、あの家の都合のいい娘じゃないのね」
その一言を口にした瞬間、胸の中に長く張っていた糸が、静かにほどけた気がした。
悲しいわけではない。嬉しいだけでもない。
ただ、とても大きなものが、自分の中でようやく名前を持ってほどけた感じだった。
ジュリアンは何も急いで言わなかった。少しだけ間を置いて、それから静かに言う。
「ええ」
「……」
「もう違います」
それだけだった。それだけで十分だった。
セリーヌは葡萄棚の影を見上げた。
葉の向こうに見える空は、夏の濃い青ではなく、少し高く、少し乾いた色をしている。夜になれば冷えるだろう。明日の朝は、今日よりもっと秋に近いかもしれない。
旅籠の帳場。裏手の庭。自分の机。
彼の持つ鍵。
そういうものが、今の自分のそばにはちゃんとある。
家を出た朝には、何一つ無かった。あったのは、怒りと痛みと、小さな袋だけ。
それが今は、こんなふうに別の形へ変わっている。
「帰りましょう」
セリーヌが言う。ジュリアンは頷いた。
「ええ」
「明日も早いものね」
「そうですね」
「葡萄、もう少ししたら切る?」
「あと三日くらいです」
「そう」
「その頃には、もっと涼しくなります」
「ええ」
二人は並んで裏口へ向かった。
肩が触れるほど近くはない。でも春の頃みたいに、互いに半歩遠慮した距離でもない。
同じ旅籠へ戻る人間として、ただ並んで歩ける距離だ。それが、セリーヌには何よりしっくりきた。
戸口のところで、旅籠の灯りが二人の足元へ落ちる。その灯りの色は、屋敷の大きな燭台よりずっと小さい。
けれど今のセリーヌには、その小さな灯りのほうが、よほど自分の夜に見えた。
秋の入口の風が、葡萄の葉をひとつだけ揺らした。
もう、戻る必要はない。もう、あの家の都合で息をする必要もない。
そう思いながら、セリーヌは旅籠の中へ入った。
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