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1 これは一体何度目だろう?
「ごめん! エミリーが今日は熱を出したから……」
何度目だろう。
その一文を目にした瞬間、私は手の中の便箋から、そっと視線を外した。
ほんの少し前まで、私は鏡の前に立っていた。
午後の外出に合わせて選んだ淡い青灰色のドレスの裾を、最後にひと撫でして、手袋の片方だけをはめ終えたところだった。
帽子には白い小花の飾りを控えめにつけてもらっている。
鏡台の前には真珠の耳飾りが二つ、行儀よく並べられたままだった。
本来なら、もう間もなく婚約者が迎えに来るはずだった。
リチャード・グランヴィル。
私――イブリン・アシュフォードの婚約者であり、家同士の約束のもとに結ばれた相手だ。
幼い頃からの付き合いではないけれど、正式に婚約が整ってからは、互いの家を行き来する機会も増え、劇場や茶会へも何度か連れ立って出かけてきた。
少なくとも、そういう形の穏やかな未来を、私は思い描いていた。
けれど今、私の手の中にあるのは、その約束をまたひっくり返す短い手紙だった。
便箋には続けて、急いで書きつけたような文字が並んでいる。
『様子が落ち着くまで、今日はそばにいてやりたい。埋め合わせは必ずする』
その最後まで読んでから、私はようやく小さく息をついた。
騒がしい落胆ではない。
慣れてしまった失望が、静かに肩へ降りてくるような、そんなため息だった。
「お嬢様……」
控えめな声で呼びかけたのは侍女のメアリだった。彼女は扉のそばで、気づかわしげにこちらを見ている。
「今日は、いかがなさいますか」
どうするも何もない。
そう思いながらも、私はすぐには答えなかった。
さっきまでの自分の姿が、妙に細かく頭に浮かぶ。
鏡の前で髪の流れを整えたこと。メアリが裾を直してくれたこと。紅茶に合わせて出すはずだった焼き菓子を、料理人が朝から用意していたこと。
そんな、ほんのささやかな支度の一つひとつが、いま急に宙ぶらりんになってしまったようで、何とも言えない。
約束を取りやめる手紙を受け取るたび、私はいつも同じことを思う。
外出そのものが駄目になったことより、そのために整えていた時間ごと、ぽっかり形を失ってしまうことのほうが、ずっとむなしいのだと。
「……予定は取りやめね」
そう言って、私は手紙を丁寧に畳んだ。
紙を雑に扱う気にはなれなかった。
腹立ちまぎれに握りつぶすほど若くもないし、涙で滲ませるほど夢見がちでもない。
ただ、その紙きれ一枚のために、午後の見通しがすっかり変わってしまうことだけが、じわじわと気に障った。
「お返事は、いつものように?」
「ええ。お気遣いなく、お大事に、と」
メアリは少しだけためらってから、そっと頷いた。
その“いつものように”という言葉が、私自身の耳にも妙に残った。
いつものように。
そう、いつものように、なのだ。
――エミリーが体調を崩した。
――エミリーが気分を悪くした。
――エミリーが不安がっている。
――エミリーがひとりでは心細いと言った。
そうして、そのたびにリチャードは私との約束を後へ回す。
最初の頃は、私も仕方ないと思おうとした。
エミリーは彼の従妹で、幼い頃から身近にいた相手だという。しかも身体が弱く、時折寝込むこともあると聞かされれば、気にかけるなというほうが無理なのだろう、と。
家族に近い相手を大事にすること自体は、責めるようなことではない。
けれど、何度も何度も繰り返されれば話は別だった。
今日だけではない。
先月も、その前も、その前も。
劇場の約束。茶会への同行。我が家での夕食。
どれもこれも、直前になって取りやめになった。
そのたびに私は笑って見せた。仕方ありませんわ、と。
エミリー様がお加減を悪くなさったのなら、と。どうぞそちらを優先なさってくださいませ、と。
そう言うほうが上品だったし、波風も立たなかったからだ。
けれど、言葉にしてしまえばしまうほど、自分の中で何かが少しずつ擦り減っていくようでもあった。
本当に大切な約束なら、そう何度も後へずらしたりしない。
埋め合わせ、などという便利な言葉を、こんなに気安く繰り返したりもしない。
メアリが静かに部屋を出ていき、扉が閉まる。
広くもない自室が、そのとき妙に静まり返って感じられた。
窓の外では午後の日差しが庭に落ちていて、薔薇の枝先が風に揺れている。
こんなに穏やかな日なのに、気持ちだけが上手くそこに溶け込めなかった。
私は鏡の前へ戻った。
つい先ほどまで楽しみにしていたはずの外出着が、急によそよそしく見える。
帽子も、手袋も、耳飾りも、すべてが“中断された午後”の印のようだった。
耳飾りの片方を手に取って、また置く。
外すほどでもない。けれど、このままでいるのも何だか間が抜けている。
そんなふうに迷う自分が、少し嫌だった。
たかが一度の取りやめなら、ここまで気にならなかっただろう。
私はそこまで狭量ではないつもりだ。婚約者の身内が具合を悪くしたと聞かされて、不満を顔に出すほど幼くもない。
けれど、同じことが重なれば、話は変わる。
私が腹立たしく思っているのは、エミリーが病弱だということではない。
彼女に思いやりを向けることでもない。
では何なのか。
その答えは、もうとっくに分かっていた。
私との約束は、後に回してよいものだと、リチャードがあまりにも疑いなく思っていることだ。
私は“理解してくれる側”に置かれている。
待たされても、譲っても、にこやかに受け流す側に。
それが一度や二度ならまだしも、こう何度も続くと、さすがに胸の内が静かではいられない。
自分が雑に扱われている、などと大仰に言いたいわけではない。
ただ、軽く見られているのだな、と気づいてしまうのだ。
しかもおそらく、本人にその自覚はない。
そのことが、いちばん腹立たしかった。
何度目だろう。
その一文を目にした瞬間、私は手の中の便箋から、そっと視線を外した。
ほんの少し前まで、私は鏡の前に立っていた。
午後の外出に合わせて選んだ淡い青灰色のドレスの裾を、最後にひと撫でして、手袋の片方だけをはめ終えたところだった。
帽子には白い小花の飾りを控えめにつけてもらっている。
鏡台の前には真珠の耳飾りが二つ、行儀よく並べられたままだった。
本来なら、もう間もなく婚約者が迎えに来るはずだった。
リチャード・グランヴィル。
私――イブリン・アシュフォードの婚約者であり、家同士の約束のもとに結ばれた相手だ。
幼い頃からの付き合いではないけれど、正式に婚約が整ってからは、互いの家を行き来する機会も増え、劇場や茶会へも何度か連れ立って出かけてきた。
少なくとも、そういう形の穏やかな未来を、私は思い描いていた。
けれど今、私の手の中にあるのは、その約束をまたひっくり返す短い手紙だった。
便箋には続けて、急いで書きつけたような文字が並んでいる。
『様子が落ち着くまで、今日はそばにいてやりたい。埋め合わせは必ずする』
その最後まで読んでから、私はようやく小さく息をついた。
騒がしい落胆ではない。
慣れてしまった失望が、静かに肩へ降りてくるような、そんなため息だった。
「お嬢様……」
控えめな声で呼びかけたのは侍女のメアリだった。彼女は扉のそばで、気づかわしげにこちらを見ている。
「今日は、いかがなさいますか」
どうするも何もない。
そう思いながらも、私はすぐには答えなかった。
さっきまでの自分の姿が、妙に細かく頭に浮かぶ。
鏡の前で髪の流れを整えたこと。メアリが裾を直してくれたこと。紅茶に合わせて出すはずだった焼き菓子を、料理人が朝から用意していたこと。
そんな、ほんのささやかな支度の一つひとつが、いま急に宙ぶらりんになってしまったようで、何とも言えない。
約束を取りやめる手紙を受け取るたび、私はいつも同じことを思う。
外出そのものが駄目になったことより、そのために整えていた時間ごと、ぽっかり形を失ってしまうことのほうが、ずっとむなしいのだと。
「……予定は取りやめね」
そう言って、私は手紙を丁寧に畳んだ。
紙を雑に扱う気にはなれなかった。
腹立ちまぎれに握りつぶすほど若くもないし、涙で滲ませるほど夢見がちでもない。
ただ、その紙きれ一枚のために、午後の見通しがすっかり変わってしまうことだけが、じわじわと気に障った。
「お返事は、いつものように?」
「ええ。お気遣いなく、お大事に、と」
メアリは少しだけためらってから、そっと頷いた。
その“いつものように”という言葉が、私自身の耳にも妙に残った。
いつものように。
そう、いつものように、なのだ。
――エミリーが体調を崩した。
――エミリーが気分を悪くした。
――エミリーが不安がっている。
――エミリーがひとりでは心細いと言った。
そうして、そのたびにリチャードは私との約束を後へ回す。
最初の頃は、私も仕方ないと思おうとした。
エミリーは彼の従妹で、幼い頃から身近にいた相手だという。しかも身体が弱く、時折寝込むこともあると聞かされれば、気にかけるなというほうが無理なのだろう、と。
家族に近い相手を大事にすること自体は、責めるようなことではない。
けれど、何度も何度も繰り返されれば話は別だった。
今日だけではない。
先月も、その前も、その前も。
劇場の約束。茶会への同行。我が家での夕食。
どれもこれも、直前になって取りやめになった。
そのたびに私は笑って見せた。仕方ありませんわ、と。
エミリー様がお加減を悪くなさったのなら、と。どうぞそちらを優先なさってくださいませ、と。
そう言うほうが上品だったし、波風も立たなかったからだ。
けれど、言葉にしてしまえばしまうほど、自分の中で何かが少しずつ擦り減っていくようでもあった。
本当に大切な約束なら、そう何度も後へずらしたりしない。
埋め合わせ、などという便利な言葉を、こんなに気安く繰り返したりもしない。
メアリが静かに部屋を出ていき、扉が閉まる。
広くもない自室が、そのとき妙に静まり返って感じられた。
窓の外では午後の日差しが庭に落ちていて、薔薇の枝先が風に揺れている。
こんなに穏やかな日なのに、気持ちだけが上手くそこに溶け込めなかった。
私は鏡の前へ戻った。
つい先ほどまで楽しみにしていたはずの外出着が、急によそよそしく見える。
帽子も、手袋も、耳飾りも、すべてが“中断された午後”の印のようだった。
耳飾りの片方を手に取って、また置く。
外すほどでもない。けれど、このままでいるのも何だか間が抜けている。
そんなふうに迷う自分が、少し嫌だった。
たかが一度の取りやめなら、ここまで気にならなかっただろう。
私はそこまで狭量ではないつもりだ。婚約者の身内が具合を悪くしたと聞かされて、不満を顔に出すほど幼くもない。
けれど、同じことが重なれば、話は変わる。
私が腹立たしく思っているのは、エミリーが病弱だということではない。
彼女に思いやりを向けることでもない。
では何なのか。
その答えは、もうとっくに分かっていた。
私との約束は、後に回してよいものだと、リチャードがあまりにも疑いなく思っていることだ。
私は“理解してくれる側”に置かれている。
待たされても、譲っても、にこやかに受け流す側に。
それが一度や二度ならまだしも、こう何度も続くと、さすがに胸の内が静かではいられない。
自分が雑に扱われている、などと大仰に言いたいわけではない。
ただ、軽く見られているのだな、と気づいてしまうのだ。
しかもおそらく、本人にその自覚はない。
そのことが、いちばん腹立たしかった。
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