「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?

さんけい

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40 迎え撃つ準備

 その日の夕刻、夫人とハロルドが書斎へ呼ばれた。
 アシュフォード夫人は、封筒の置かれた机を見るなり、話の中身を悟ったらしい。表情は穏やかなままだったが、椅子へ腰を下ろす前に、ごくわずかに眉が動いた。

「いらっしゃるのですね」
「そういうことだ」

 夫が返す。
 ハロルドは父の向かいに立ったまま、机上の便箋へ視線を落とした。
 彼にしてみれば、予想の範囲内だったのだろう。驚きは見せず、ただ「いつにするか」という顔をしている。

「当主ご本人ですか」
「ああ」

 アシュフォード卿は頷いた。

「書面の上では、穏当に話をしたいという体裁だ」
「体裁だけなら、いくらでも整う家でしょう」

 夫人の声音は柔らかかったが、その柔らかさの中には冷え冷えとしたものがあった。
 この数日のあいだに、彼女の中でも見方はずいぶん変わっていた。
 最初は娘の婚約者が鈍いのだと思っていた。次に、その母親が場を撫でつけることばかり考えているのだと分かった。
 そして今は、家そのものが、面倒ごとを曖昧に畳みこんで先送りする癖を持っているのだと見えている。
 ハロルドが、そこで口を開いた。

「お受けになりますか」
「受ける」

 父の返事は早かった。

「断れば、こちらが感情で扉を閉ざしたように見える。先方はそこへ持ち込みたがるだろう」

 その言い方に、ハロルドはすぐに頷く。

「ならば、受けた上で終わらせるほうがいい」
「そうだ」

 アシュフォード卿は便箋を軽く指で叩いた。
 彼の中で大事なのは、面会そのものではない。面会によって何かを揺らされないことだった。
 向こうはきっと、若い者の未熟さ、身内の事情、今後の改善、家同士の利。そういうものを一つずつ持ち出してくるだろう。
 だが、こちらはもうそこを通り過ぎている。
 イブリン本人に継続の意思がない。
 その一点だけでも、家としては十分だ。
 夫人は夫の横顔を見ながら、静かに思っていた。

 ――この人は、普段から情に流される質ではない。

 仕事でも家のことでも、最後には必ず損得と筋道を並べて判断する。娘からすれば、少し冷たいと感じることもあったかもしれない。だが、今回ばかりはその気質がありがたかった。

 ――婚約者の家に何度も軽んじられ、しかも相手の事情を“理解”の名目で押しつけられてきた娘を前にして、この人は一度も「少し我慢しておきなさい」とは言わなかった。むしろ、その理不尽を家として受け取っている。


 それが、夫人には心強かった。

「会う場所は、ここでよろしいのでしょうね」

 彼女がそう問うと、夫は頷いた。

「こちらから出向く必要はない」
「ええ、もちろんです」

 その返事には、少しも迷いがなかった。
 出向くということは、それだけで一歩譲ることになる。
 婚約解消を申し入れた側が、なおも相手の屋敷へ足を運ぶとなれば、世間の見え方も変わる。
 娘をないがしろにされた側が、まだ話し合いの余地を求めているように見せるのは好ましくない。
 ハロルドはそこをすぐに補った。

「応接間は大きいほうで。執事にもあらかじめ伝えておきます。形式を崩さないほうがいい」
「そうしろ」

 父は答える。
 このあたりのやりとりには、もう感情はほとんど混ざっていなかった。
 家としてどう受けるか。どこで会うか。誰が同席するか。どの言葉までは受け、どこから先は切るか。
 そういうことを整えていく時、アシュフォード家の中では自然に役割が分かれる。
 夫は判断を置く。
 夫人は空気の流れを見る。
 ハロルドはその判断がきちんと形になるよう段取りを固める。
 それは、偶然ではなかった。
 長く家を回してきた結果として、こういう時に誰が何をするかが、もう身体のように決まっているのである。

「イブリンは同席させませんわね」

 夫人がそう言うと、アシュフォード卿は少し考えてから答えた。

「最初からは入れぬ」
 それは当然だった。
 婚約解消の正式な申し入れに対し、先方がどう出るかも分からない場へ、娘を最初から出す必要はない。
 向こうが“本人の気持ちを聞きたい”だの“もう一度だけ話を”だのと言い出せば、そこからまた娘本人へ負担が流れる。

「必要があれば、あとで意思だけを確認する形にする」
「はい」

 ハロルドがそれを受けた。

「ですが、たぶんそこまでも要らないでしょう。先方が何を言おうと、こちらの条件はもう明確です」

 条件、という言い方に、夫人は少しだけ目を細めた。
 冷たく聞こえるかもしれない。だが、いま必要なのはその冷たさだった。
 娘の傷つき方に寄り添うだけでは、家同士の押し引きには負ける。逆に家の理屈ばかりでは、娘をまた道具にしてしまう。
 今回は、その両方を同時に守らなければならない。
 彼女は紅茶の代わりに出された水のグラスへ手を伸ばしながら、ふと考えた。
 グランヴィル家には、こういう“同時に守る”という発想がなかったのかもしれない。
 だから息子の優しさも、預かっている娘の不安定さも、婚約者の辛抱も、それぞれを別々に置いたまま、その場その場で何とかしてきた。
 そして何とかしているつもりのうちに、全部がひとつの歪みになった。
 そう考えると、いっそう腹が立つ。

「向こうは、おそらく事業の話も持ち出してきます」

 ハロルドの声が、それを遮った。夫は頷く。

「だろうな」
「港の顔つなぎや、輸入筋との協力、共同の倉庫利用、そのあたりを匂わせるでしょう」
「うまみのある話であること自体は否定せん」

 アシュフォード卿はそう言った。

「だからこそ、先方は縁談を切りたくない」

 夫人は、その言葉を聞きながら、胸の内がすうっと冷えていくのがわかる。
 そう。グランヴィル家にとって、この婚約は息子の将来だけの話ではない。古い家格と社交上の顔を持ちながら、実入りの薄くなってきた家にとって、アシュフォード家の堅実さは魅力だった。
 服飾資材の供給、仕立て屋筋への太い販路、現金の回りのよさ。そういうものを、婚姻という形で結びつければ、単なる提携よりずっと強く握れる。
 向こうが望んだのは、娘ひとりではない。娘の向こうにあるこの家ごとだ。
 そして、こちらが見誤ったのもまた、そこだったのだろう。

「けれど」

 夫人は低く言った。

「だからといって、娘を差し出してよい理由にはなりませんわ」

 夫は彼女を見た。
 そこには、夫婦のあいだでいまさら確かめるまでもない了解があった。

「もちろんだ」

 その返事には、少しも揺るぎがなかった。
 ハロルドも、すぐに言葉を継ぐ。

「むしろ逆です。事業のためにも、あの家とはここで距離を取るべきでしょう」
「どういう意味だ」
「家の内側をあれだけ曖昧に扱う相手は、共同で何かを動かすにも危ういという意味です」

 その指摘に、父は一拍だけ沈黙した。だがすぐに、静かに頷く。

「たしかにな」

 ハロルドの言い方には、若さに似合わぬ固さがあった。
 だがそれは若さゆえの潔癖ではなく、ここ数日の観察から出た結論だった。
 身内の厄介ごとを整理できず、息子にも知らせず、婚約者へ負担を流し、なお場当たり的な取り繕いで持たせようとする家。
 そういう相手と、長く実務の絡む話ができるのか? 
 彼はそこを見ていたのだ。

「向こうは名は持っています」

 ハロルドは続けた。

「ですが、名と取り回しだけで済む時代ではありません。内側の不安定さが表へ漏れる相手と、こちらの実務を絡めるのは危険です」

 父は、その言葉を正面から受けた。
 家の長として、娘を守る理屈はもう十分に立っている。だが、それに加えて事業の上でも引くべきだと言われれば、判断はさらに固くなる。
 夫人はそこで、ようやく少しだけ息をつく。頼もしい、と素直に思った。
 息子がまだ若く、職に就いて間もないとはいえ、こういう時に家の利益と家族の安全を別物にしないところは、確かにこの家の跡を継ぐ者の顔だった。

「では、お受けになるとして」

 彼女は静かに言った。

「こちらが気をつけるべきは、向こうが話を“まだ動くもの”として扱いたがることですわね」
「そうだ」

 夫が答える。

「こちらはもう、終わらせるために会う」

 その一言で、部屋の空気が引き締まった。
 会って説得されるためではない。誤解を解くためでもない。
 家同士として、終わりを告げるために会う。
 それが明確になった時、夫人はようやく本当に腹が決まるのを感じた。
 娘の婚約を終わらせるのは、決して軽い話ではない。
 だが、もうここで迷うことは、かえって家を弱らせるだけだ。

「分かりましたわ」

 彼女はそう言って立ち上がった。

「では、応接の用意はこちらで整えます。イブリンには、あらかじめ何も気負わなくてよいと伝えておきますわ」
「頼む」

 夫の返事を背に、夫人は書斎の扉へ向かう。
 その横顔を、ハロルドが静かに見ていた。
 彼もまた分かっていたのだろう。この面会は、単に婚約の話し合いではない。
 アシュフォード家が、家としてどこまで娘を守るかを、先方へはっきり見せる場でもあるのだと。

 扉が閉まる直前、夫人は一度だけ振り返った。
 机の上には、まだグランヴィル家からの訪問願いが開かれたまま置かれている。
 その文面は丁重で、整っていて、外から見ればいかにも筋の通った申し出に見えるだろう。
 けれど今のアシュフォード家には、その整い方に惑わされる者はもういなかった。
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