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44 「優しい方ね」
(俯瞰視点)
その夜、グランヴィル家の居間は、どこか妙に静かだった。
婚約解消の書状を受け取ってからというもの、屋敷の中には、はっきり口にされない種類の重さが漂っている。
使用人たちはいつも通りに動いていたし、食事も灯りも整っていた。
けれど、何も変わっていないふりをするには、もう少し無理が出ていた。
リチャードは、暖炉の前の椅子に座っていた。
本を開いているが、読んではいない。
数日前からずっとそうだった。
考えるべきことはあるのに、考えれば考えるほど、どこから手をつければいいのか分からなくなる。
婚約解消という言葉だけがひどく重く、その中身はまだ、うまく形を取ってくれない。
そこへ、控えめな足音が近づいてきた。
「リチャード」
エミリーだった。
今夜の彼女は、いかにも病み上がりらしく、淡い色の部屋着に薄いショールを羽織っている。
髪もきっちり整えすぎず、やわらかく肩へ落としてあった。
顔色は白い。もっとも、それが体調のせいだけなのか、それとも彼女なりの整え方なのか、見慣れた者でも時に判じかねることがあった。
リチャードはすぐに顔を上げた。
「どうしたんだ、君。まだ起きていていいのか」
「ええ。もう少ししたら休むわ」
エミリーはそう言って、暖炉のそばまで来た。
最初から座るつもりらしく、リチャードが何も言わないうちに、少し離れた椅子へそっと腰を下ろす。
そういう距離の取り方だけは、いつも絶妙だった。
近すぎれば嫌らしく見えるし、遠すぎれば頼りなく見えない。そのあいだの、ちょうど相手が気にかけやすいところへいる。
「少し、お話ししてもいい?」
「もちろん」
リチャードはすぐに答えた。
その返事の早さに、エミリーはほんのわずかに目をやわらげる。
だが、その表情はすぐに別のものへ変わった。言い出しにくそうな、でも話さずにもいられない、そんな顔だ。
「今日ね」
「うん」
「外で、イブリン様にお会いしたの」
その一言で、リチャードの肩がぴくりと動いた。
婚約解消の書状を受け取ってから、イブリンの名はますます重くなっていた。聞きたい。けれど、聞くのが怖い。そんな名になっている。
「……どこで?」
「近くの通りで、偶然」
エミリーは目を伏せたまま答える。
「わたくし、少し買い物に出ていたのだけれど、ひとりでいたら、なんだか少し心細くなってしまって」
リチャードは、すぐには何も言わなかった。
彼の頭の中には、まず「ひとりで出歩いていたのか」という疑問が浮かびかけた。
だが、それは次の瞬間には消えている。エミリーの口調がすでに、“今日はそういう日だった”という前提で流れているからだ。
「それで?」
「少しだけ、お茶に付き合っていただいたの」
エミリーはそこで、控えめに笑った。
「優しい方ね」
リチャードの顔に、痛いようなものが走る。
優しい方。
その言葉は本当だ。イブリンは昔から、そういうところがある。
いや、あった。たぶん今も、そうなのだろう。
そうでなければ、今のこの状況で、エミリーとお茶などしないはずだから。
「でも」
エミリーはそこで、少しだけ声を曇らせた。
リチャードは思わず身を乗り出す。
「でも?」
「……とても、お疲れのようでしたわ」
「疲れていた?」
「ええ」
エミリーは静かに頷いた。
「わたくし、最初は少し嬉しかったの。だって、ちゃんとお相手してくださったから。でも、途中から、何だか……わたくし、悪いことをしてしまったのかしらと思って」
リチャードの眉が寄る。
「イブリンが、何か言ったのか」
「いいえ」
エミリーはすぐに首を振った。
「そういうのではないの。とてもきちんとしていらしたし、失礼なことなんて少しも。ただ……」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
「わたくしが、リチャードのことを口にした時だけ、すこし、お声が変わった気がして」
リチャードは、唇を引き結んだ。
あの時のイブリンの顔が、また頭へ浮かぶ。静かな目。きれいな声。
けれど、もうこちらへ寄ってこないことだけは分かる顔。
「……何て言ったんだ」
「“そのお話でしたら、わたくしとエミリー様とでいたすことではございませんわ”と」
エミリーは、小さくその言葉をなぞった。
「わたくし、もっともだと思ったの。だから、それ以上は何も申さなかったわ」
リチャードは、返す言葉を失っていた。
イブリンは正しいことを言ったのだろう。エミリーも、それを責めてはいない。
なのに、聞いているこちらだけが、なぜか苦しい。
「わたくしね」
エミリーは、暖炉の火を見つめるようにして言った。
「イブリン様は、本当に優しい方だと思うの」
その言葉は、ひどく穏やかだった。
「だから、余計に……もうわたくし、あまり甘えてはいけないのかもしれないわ」
リチャードはそこで、顔を上げた。
その一言は、彼の胸へまっすぐ入る種類のものだった。
実際、今までもそうだった。エミリーが少し引く気配を見せた時、彼はかえって手を差し出してきた。
「君のせいじゃない」
エミリーは首を振る。
「でも、わたくしがいたから、あなたも」
「違う」
リチャードの声は、さっきより強かった。
「君が悪いわけじゃない」
それを聞いたエミリーは、少しだけ目を伏せ、しばらく黙ってから、また小さく言う。
「ただ……」
その“ただ”に、リチャードはまた反応してしまう。
「何だい」
「リチャードは、ちゃんとお話ししたほうがいいと思うの」
その言葉に、彼は一瞬、息を止めた。
「でも、父上たちは」
「ええ、今はだめだとおっしゃるでしょうね」
エミリーは、そこは素直に認めた。
「だから、すぐに何かするべきだとは言わないわ。でも、何もしないままだと、もっと遠くなってしまう気がして」
リチャードは、その言葉を打ち消せなかった。
何もしないままでいいのか。
父に止められたから、母に待てと言われたから、それだけで座っていていいのか。
そういう焦りは、ずっと彼の中にあった。そこへ“もっと遠くなる”と言われれば、なおさらだ。
「……僕は」
彼は言いかけて、止まる。
「イブリン様、きっと、とてもお疲れなのだと思う」
エミリーは、今度は逆にやわらかく言った。
「だから、すぐに押しかけてはいけないわ。そんなことをしたら、もっと嫌がられてしまうもの」
押しかけてはいけない。
もっと嫌がられる。
そこまで言われると、自分はそこまで無神経ではない、ちゃんと考えている、と思いたくなる。
「分かってる」
彼は少し固い声で言った。
「そこまで馬鹿じゃない」
「ええ、ごめんなさい」
彼女はすぐに言った。
「そんな意味じゃなかったの」
リチャードは、もうそれ以上その部分を気にしなかった。
「今日は、たまたまお会いしただけだったの」
エミリーは静かに続ける。
「でも、イブリン様、とてもおきれいでしたわ。少しお疲れでも、やっぱりきちんとしていらして…… だからこそ、もったいないと思ってしまうの。あなたたちが、こんなふうになってしまうの」
もったいない。
その言葉は、恋だの誠意だのより、かえって彼の胸に残った。
もったいない、で終わるほど軽い話ではないはずなのに、でも、失いかけていると気づいた相手に向けるには、どこかちょうどいい痛み方をする言葉だった。
やがて立ち上がり、エミリーはショールを少し引き寄せる。
「ごめんなさい、長く話してしまったわ」
「いや」
「わたくし、もう休む」
そこまで言ってから、扉の前で少しだけ振り返る。
「でも、リチャード」
「何だい」
「わたくし、イブリン様はやっぱり優しい方だと思うの」
その言い方は、ひどくきれいだった。
「だから……あなたも、ちゃんと優しくしてさしあげてね」
それだけ言って、エミリーは出ていった。
扉が閉まったあと、居間には暖炉の音だけが残った。
リチャードはしばらく動かなかった。
エミリーの言葉を、頭の中で何度もなぞっていた。
――優しい方。
――お疲れのようだった。
――でも、ちゃんと話したほうがいい。
押しかけてはいけない。もっと遠くなってしまう気がする。
どれも、嘘ではないように聞こえる。
だからこそ、厄介だった。
そして彼は、いま自分の中へ残ったものが、父と母に止められたまま座っているべきだという考えではなく、“もっと悪くならないよう、自分で動かなければ”という焦りであることに、まだ気づいていなかった。
その夜、グランヴィル家の居間は、どこか妙に静かだった。
婚約解消の書状を受け取ってからというもの、屋敷の中には、はっきり口にされない種類の重さが漂っている。
使用人たちはいつも通りに動いていたし、食事も灯りも整っていた。
けれど、何も変わっていないふりをするには、もう少し無理が出ていた。
リチャードは、暖炉の前の椅子に座っていた。
本を開いているが、読んではいない。
数日前からずっとそうだった。
考えるべきことはあるのに、考えれば考えるほど、どこから手をつければいいのか分からなくなる。
婚約解消という言葉だけがひどく重く、その中身はまだ、うまく形を取ってくれない。
そこへ、控えめな足音が近づいてきた。
「リチャード」
エミリーだった。
今夜の彼女は、いかにも病み上がりらしく、淡い色の部屋着に薄いショールを羽織っている。
髪もきっちり整えすぎず、やわらかく肩へ落としてあった。
顔色は白い。もっとも、それが体調のせいだけなのか、それとも彼女なりの整え方なのか、見慣れた者でも時に判じかねることがあった。
リチャードはすぐに顔を上げた。
「どうしたんだ、君。まだ起きていていいのか」
「ええ。もう少ししたら休むわ」
エミリーはそう言って、暖炉のそばまで来た。
最初から座るつもりらしく、リチャードが何も言わないうちに、少し離れた椅子へそっと腰を下ろす。
そういう距離の取り方だけは、いつも絶妙だった。
近すぎれば嫌らしく見えるし、遠すぎれば頼りなく見えない。そのあいだの、ちょうど相手が気にかけやすいところへいる。
「少し、お話ししてもいい?」
「もちろん」
リチャードはすぐに答えた。
その返事の早さに、エミリーはほんのわずかに目をやわらげる。
だが、その表情はすぐに別のものへ変わった。言い出しにくそうな、でも話さずにもいられない、そんな顔だ。
「今日ね」
「うん」
「外で、イブリン様にお会いしたの」
その一言で、リチャードの肩がぴくりと動いた。
婚約解消の書状を受け取ってから、イブリンの名はますます重くなっていた。聞きたい。けれど、聞くのが怖い。そんな名になっている。
「……どこで?」
「近くの通りで、偶然」
エミリーは目を伏せたまま答える。
「わたくし、少し買い物に出ていたのだけれど、ひとりでいたら、なんだか少し心細くなってしまって」
リチャードは、すぐには何も言わなかった。
彼の頭の中には、まず「ひとりで出歩いていたのか」という疑問が浮かびかけた。
だが、それは次の瞬間には消えている。エミリーの口調がすでに、“今日はそういう日だった”という前提で流れているからだ。
「それで?」
「少しだけ、お茶に付き合っていただいたの」
エミリーはそこで、控えめに笑った。
「優しい方ね」
リチャードの顔に、痛いようなものが走る。
優しい方。
その言葉は本当だ。イブリンは昔から、そういうところがある。
いや、あった。たぶん今も、そうなのだろう。
そうでなければ、今のこの状況で、エミリーとお茶などしないはずだから。
「でも」
エミリーはそこで、少しだけ声を曇らせた。
リチャードは思わず身を乗り出す。
「でも?」
「……とても、お疲れのようでしたわ」
「疲れていた?」
「ええ」
エミリーは静かに頷いた。
「わたくし、最初は少し嬉しかったの。だって、ちゃんとお相手してくださったから。でも、途中から、何だか……わたくし、悪いことをしてしまったのかしらと思って」
リチャードの眉が寄る。
「イブリンが、何か言ったのか」
「いいえ」
エミリーはすぐに首を振った。
「そういうのではないの。とてもきちんとしていらしたし、失礼なことなんて少しも。ただ……」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
「わたくしが、リチャードのことを口にした時だけ、すこし、お声が変わった気がして」
リチャードは、唇を引き結んだ。
あの時のイブリンの顔が、また頭へ浮かぶ。静かな目。きれいな声。
けれど、もうこちらへ寄ってこないことだけは分かる顔。
「……何て言ったんだ」
「“そのお話でしたら、わたくしとエミリー様とでいたすことではございませんわ”と」
エミリーは、小さくその言葉をなぞった。
「わたくし、もっともだと思ったの。だから、それ以上は何も申さなかったわ」
リチャードは、返す言葉を失っていた。
イブリンは正しいことを言ったのだろう。エミリーも、それを責めてはいない。
なのに、聞いているこちらだけが、なぜか苦しい。
「わたくしね」
エミリーは、暖炉の火を見つめるようにして言った。
「イブリン様は、本当に優しい方だと思うの」
その言葉は、ひどく穏やかだった。
「だから、余計に……もうわたくし、あまり甘えてはいけないのかもしれないわ」
リチャードはそこで、顔を上げた。
その一言は、彼の胸へまっすぐ入る種類のものだった。
実際、今までもそうだった。エミリーが少し引く気配を見せた時、彼はかえって手を差し出してきた。
「君のせいじゃない」
エミリーは首を振る。
「でも、わたくしがいたから、あなたも」
「違う」
リチャードの声は、さっきより強かった。
「君が悪いわけじゃない」
それを聞いたエミリーは、少しだけ目を伏せ、しばらく黙ってから、また小さく言う。
「ただ……」
その“ただ”に、リチャードはまた反応してしまう。
「何だい」
「リチャードは、ちゃんとお話ししたほうがいいと思うの」
その言葉に、彼は一瞬、息を止めた。
「でも、父上たちは」
「ええ、今はだめだとおっしゃるでしょうね」
エミリーは、そこは素直に認めた。
「だから、すぐに何かするべきだとは言わないわ。でも、何もしないままだと、もっと遠くなってしまう気がして」
リチャードは、その言葉を打ち消せなかった。
何もしないままでいいのか。
父に止められたから、母に待てと言われたから、それだけで座っていていいのか。
そういう焦りは、ずっと彼の中にあった。そこへ“もっと遠くなる”と言われれば、なおさらだ。
「……僕は」
彼は言いかけて、止まる。
「イブリン様、きっと、とてもお疲れなのだと思う」
エミリーは、今度は逆にやわらかく言った。
「だから、すぐに押しかけてはいけないわ。そんなことをしたら、もっと嫌がられてしまうもの」
押しかけてはいけない。
もっと嫌がられる。
そこまで言われると、自分はそこまで無神経ではない、ちゃんと考えている、と思いたくなる。
「分かってる」
彼は少し固い声で言った。
「そこまで馬鹿じゃない」
「ええ、ごめんなさい」
彼女はすぐに言った。
「そんな意味じゃなかったの」
リチャードは、もうそれ以上その部分を気にしなかった。
「今日は、たまたまお会いしただけだったの」
エミリーは静かに続ける。
「でも、イブリン様、とてもおきれいでしたわ。少しお疲れでも、やっぱりきちんとしていらして…… だからこそ、もったいないと思ってしまうの。あなたたちが、こんなふうになってしまうの」
もったいない。
その言葉は、恋だの誠意だのより、かえって彼の胸に残った。
もったいない、で終わるほど軽い話ではないはずなのに、でも、失いかけていると気づいた相手に向けるには、どこかちょうどいい痛み方をする言葉だった。
やがて立ち上がり、エミリーはショールを少し引き寄せる。
「ごめんなさい、長く話してしまったわ」
「いや」
「わたくし、もう休む」
そこまで言ってから、扉の前で少しだけ振り返る。
「でも、リチャード」
「何だい」
「わたくし、イブリン様はやっぱり優しい方だと思うの」
その言い方は、ひどくきれいだった。
「だから……あなたも、ちゃんと優しくしてさしあげてね」
それだけ言って、エミリーは出ていった。
扉が閉まったあと、居間には暖炉の音だけが残った。
リチャードはしばらく動かなかった。
エミリーの言葉を、頭の中で何度もなぞっていた。
――優しい方。
――お疲れのようだった。
――でも、ちゃんと話したほうがいい。
押しかけてはいけない。もっと遠くなってしまう気がする。
どれも、嘘ではないように聞こえる。
だからこそ、厄介だった。
そして彼は、いま自分の中へ残ったものが、父と母に止められたまま座っているべきだという考えではなく、“もっと悪くならないよう、自分で動かなければ”という焦りであることに、まだ気づいていなかった。
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