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53 エミリーは元気だった
その日の午後、エミリーは珍しく自分から外出を言い出した。
「少しだけでいいの」
そう言って、居間の窓辺に立ったまま、外の明るさを眺める。
「このところ、ずっと息が詰まるみたいで…… お店をひとつ二つのぞいて、お茶を飲むくらいなら、気分も変わると思うの」
リチャードはその言葉を聞きながら、手にしていた手袋を置いた。
本来なら、断るつもりはなかった。
最近のエミリーは、たしかに家の中でおとなしくしている時間が長い。
あの日以来、前より少ししおらしくなったようにも見えたし、こちらへ気を遣うような言い方も増えた。
けれど今日は、父に頼まれた用事があった。
取引先ではない。だが家の今後に関わるような、少し面倒な確認で、リチャードでも顔を出しておけと朝から言われていたのだ。
書類に目を通し、家側の意向を伝え、必要ならその場で返事ももらう。そういう、あまり彼が得意ではない用事だった。
「今日は、無理だ」
そう言うと、エミリーはすぐには返事をしなかった。
リチャードはその沈黙に、少しだけ居心地の悪さを覚える。
だが、今日ばかりは仕方がないとも思った。最近の父は機嫌がよくないし、母も何かとぴりついている。こういう時に頼まれた用事をいい加減にすると、ますます面倒になる。
「父上に言われていることがあるんだ。長くはかからないと思うけど」
「……そう」
エミリーはそこでようやく微笑んだ。
「ごめんなさい、困らせるつもりじゃなかったの。わたくし、ひとりで少し見てくるわ」
その返事に、リチャードは少しだけ眉を寄せた。
「ひとりで?」
「近くですもの」
エミリーは、あくまで軽い口調で言う。
「ずっと家の中で、何もできない人みたいに扱われるほうが、かえってしんどいのよ」
その言い方をされると、止めにくかった。
たしかに、最近は何かにつけて控えるよう言われている。
母も父も、表向きは穏やかでも、エミリーを以前より外へ出したがらない。けれどだからといって、ほんの近場の買い物まで禁じるのは、少し息苦しい気もした。
「なら、馬車を使うといい」
「ええ、そうするわ」
エミリーはそう答えて、やわらかく笑った。
「あなたのお用事、早く終わるといいわね」
その言い方は、いかにも相手を気遣う人のものだった。
リチャードも、その時はそれ以上引っかからなかった。
◇
用事は、思っていたよりずっと早く終わった。
行く前は気が重かったのに、話してみれば必要な確認はすぐ済んだ。父があれこれ言うほど大ごとではなく、相手も家の事情を察して、余計なことを聞いてこなかったのが大きい。
帰り道、リチャードはふと、少し足を速めた。
思ったより早く終わったのだから、屋敷へ戻ればエミリーも喜ぶだろう。近くを見て回るだけと言っていたし、帰るころには少し疲れているかもしれない。そうしたら、今夜はあまり長く話させずに休ませたほうがいい。
そういうことを考えていた。
……だからこそ彼は、自分が見たものをすぐにはうまく理解できなかった。
街角をひとつ曲がった先に、小さなティールームがあった。
大通りに面した賑やかな店ではなく、婦人客や親しい知り合い同士が使うような、少し奥まった店だ。通りへ張り出した硝子窓の向こうに、丸い卓がいくつか見える。
その窓際の席に、見覚えのある後ろ姿があった。
淡い色の帽子。すっと伸びた首筋。肩にかかる薄い布地の線。
――エミリーだった。
リチャードは思わず足を止めた。
ひとりではない。向かいに、若い男が座っている。
顔に見覚えがある気がして、すぐには名前が出てこなかった。
少し考えて、先月の小さな晩餐会で一度だけ紹介された青年だと思い当たる。
家格は悪くないが、まだ立場の定まらない次男坊で、口数は多くないが人当たりはよかった。
――なぜ、エミリーがその男と向かい合ってお茶をしているのか?
その問いが頭に浮かぶより先に、別のことが目へ飛び込んできた。
エミリーは元気だった。
元気、というのは乱暴な言い方かもしれない。
大きな声で笑っているわけではない。卓を叩いて話しているわけでもない。
けれど少なくとも、少し前まで家の中で見せていた、頼りなさげな翳りはどこにもなかった。
顎を少し上げて、相手の顔をまっすぐ見ている。
話す時の口元もはっきりしていて、頬の色まで、いつもよりいくらかあるように見える。
何かを言われて笑う時も、肩が沈まない。弱っている人の笑い方ではなく、会話を楽しんでいる人の笑い方だった。
リチャードは、動けなかった。
窓越しだから、声は聞こえない。
ただ、エミリーが先に何か言い、向かいの男が少し困ったように笑い、それでも席を立たずにいることだけは分かった。
その時、店の者が何かを運んできた。
皿だった。小ぶりのケーキがのっている。エミリーはそれを見て、はっきり嬉しそうな顔をした。
いかにも自然な反応で、病み上がりだから甘いものを少し、という程度にも見える。
だが、その顔に“無理をしている”感じは少しもない。
リチャードの中で、何かが小さく引っかかった。
たぶん、それはほんの些細なことだった。
人は、家の中で弱って見えたからといって、外で少し元気になることもある。気分転換もあるだろうし、今日はたまたま調子がいいのかもしれない。
頭の中では、そういう理屈がいくつも浮かぶ。
けれどその一方で、あの日の言葉も戻ってきた。
――具合の悪い人のほうが大事でしょう?
――元気な方は、少し待てるもの。
あれを口にした時のエミリーの顔。
そして今、窓の向こうで、相手の袖口へ軽く手を伸ばしかけて、何か言っている顔。
ふいに、向かいの男が席を立とうとした。
帳面か何かでも思い出したように、上着の内側へ手を入れ、少しだけ体を引く。もう行かなければ、というような動きだった。
その瞬間だった。エミリーの表情が変わった。
ほんのわずかに、ほんとうにわずかに、目元がゆるみ、肩が落ちる。
何か引き止めることを言ったのだろう。向かいの男は、その動きを見てまた腰を戻しかける。迷うような顔になる。
リチャードは、その一連の流れを見て、胸の奥がざわりと騒ぐのを感じた。
――さっきまで、あんなに普通に話していたのに。
――あんなに元気そうに笑っていたのに。
その時、エミリーがふと窓の外を見た。リチャードと目が合った。
ほんの一拍。驚いた顔。
すると、すぐに別のものがその表情に被さった。少し困ったような、でも嬉しいような、見つけてもらって安心した人の顔。
あまりにも早くて、リチャードは逆に息が詰まった。
エミリーは立ち上がらなかった。ただ、向かいの男へ何か短く言い、それから窓越しにこちらへ、ほんの少しだけ手を動かした。
いま来てくれる? そういう合図にも見えた。
リチャードは、その場ですぐには動けなかった。
窓の向こうには、確かにエミリーがいる。そして、それを見る自分もいる。
家では少し疲れたように見えた。
そして、ひとりで外へ出ると言った。気が滅入るから少し見てくるだけだと。
なのに、いま目の前にいるエミリーは、誰かとお茶を飲み、屈託なく笑い――
相手が席を立とうとすると、その表情も仕草も、弱るほうへと滑っていった。
その全部を、どう理解すればいいのか分からない。
エミリーは、まだこちらを見ている。向こうの席の若い男は、窓の外のリチャードと、目の前のエミリーとのあいだで、居心地悪そうに視線をさまよわせていた。
最初に動いたのは、その男のほうだった。帽子を取り上げ、会釈めいたものを窓へ向ける。
それからエミリーへ短く何か言い、今度こそ席を立った。
エミリーの顔が、また変わる。引き止めたいけれど、これ以上はできない人の顔。ほんの少し口元を下げ、でも聞き分けよく笑ってみせる。
その変化が、リチャードにはひどくはっきり見えた。
男は店を出て、リチャードのそばを通る時、軽く会釈した。
リチャードも反射的に返したが、何も言えなかった。相手の顔にも、少しばかり気まずそうなものが残っている。
扉が閉まり、店の中にはエミリーだけが残った。
彼女はそこでようやく立ち上がり、店の者へ何か言ってから外へ出てくる。
数歩だけ歩き、まるで今はじめて疲れが出てきたみたいに、少し肩を落とした。
「リチャード」
声はやわらかかった。
「もうお帰りだったのね」
リチャードは、その顔を見た。いつもの、見慣れたエミリーだった。
少し白くて、少し頼りなくて、でもこちらの顔を見るとほっとしたように笑う人。
けれど今、ほんの数分前まで店の中にいた別の顔を、彼はもう見てしまっている。
「……何をしていたんだ」
気づけば、そう聞いていた。
それを聞いたエミリーは少し目を瞬く。
「何を、って……少しお茶を」
「誰と」
そこまで言った時、自分の声が思っていたより低いことに、リチャード自身が驚いた。
エミリーはその驚きに反応したのか、ほんのわずかに首をすくめた。
「この前ご紹介いただいた方に、お声をかけられたの。少しだけ、ご一緒していただいただけよ」
それは、たぶん事実だった。だが事実なのに、少しも胸へ落ちない。
「君は、元気そうだった」
言ってから、リチャードはそれが責めるような響きになったことに気づいた。
エミリーの顔が、そこで止まる。
「……え?」
「いや」
リチャードはそこで言葉を切った。
何と言いたいのか、自分でも分からなかった。
元気そうだった。笑っていた。ケーキを見て嬉しそうにしていた。相手が立とうとすると、急に違う顔になった。そう言って、何になるのだろう。
エミリーは少しの間、彼を見つめ――それから、ひどく静かに言った。
「わたくしが、元気そうだったら、いけないの?」
その問いに、リチャードは答えられなかった。
いけなくはない。そんなはずはない。
外へ出て、少し気が晴れて、元気に見えることもあるだろう。
なのに、なぜこんなに引っかかるのか。
エミリーはその沈黙の意味を測るように、少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
そして、小さく言う。
「せっかく早く帰ってきてくださったのに、変なところを見せてしまったわね」
変なところ。
その言い方に、リチャードの胸の奥がまた小さくざらついた。
――変だと、やはり思うべきなのだろうか。
――でも、何が? どこが?
言葉がうまく掴めないまま、彼はただ立ち尽くしていた。
さっきまでなら、きっとこういう時、エミリーを気づかって何か言ったはずだ。
疲れたなら帰ろう、とか。無理をするな、とか。
でも今は、そのどれもが喉の手前で止まる。
窓の向こうで見た、元気な顔。若い男が席を立とうとした時にだけ、少しだけ落ちた肩。
そしていま、目の前で弱々しく見える立ち方。
それらが一つにつながりそうで、でもまだ、彼の中ではつながりきらない。
ただ、前とは違う何かだけは、確かにそこにあった。
「少しだけでいいの」
そう言って、居間の窓辺に立ったまま、外の明るさを眺める。
「このところ、ずっと息が詰まるみたいで…… お店をひとつ二つのぞいて、お茶を飲むくらいなら、気分も変わると思うの」
リチャードはその言葉を聞きながら、手にしていた手袋を置いた。
本来なら、断るつもりはなかった。
最近のエミリーは、たしかに家の中でおとなしくしている時間が長い。
あの日以来、前より少ししおらしくなったようにも見えたし、こちらへ気を遣うような言い方も増えた。
けれど今日は、父に頼まれた用事があった。
取引先ではない。だが家の今後に関わるような、少し面倒な確認で、リチャードでも顔を出しておけと朝から言われていたのだ。
書類に目を通し、家側の意向を伝え、必要ならその場で返事ももらう。そういう、あまり彼が得意ではない用事だった。
「今日は、無理だ」
そう言うと、エミリーはすぐには返事をしなかった。
リチャードはその沈黙に、少しだけ居心地の悪さを覚える。
だが、今日ばかりは仕方がないとも思った。最近の父は機嫌がよくないし、母も何かとぴりついている。こういう時に頼まれた用事をいい加減にすると、ますます面倒になる。
「父上に言われていることがあるんだ。長くはかからないと思うけど」
「……そう」
エミリーはそこでようやく微笑んだ。
「ごめんなさい、困らせるつもりじゃなかったの。わたくし、ひとりで少し見てくるわ」
その返事に、リチャードは少しだけ眉を寄せた。
「ひとりで?」
「近くですもの」
エミリーは、あくまで軽い口調で言う。
「ずっと家の中で、何もできない人みたいに扱われるほうが、かえってしんどいのよ」
その言い方をされると、止めにくかった。
たしかに、最近は何かにつけて控えるよう言われている。
母も父も、表向きは穏やかでも、エミリーを以前より外へ出したがらない。けれどだからといって、ほんの近場の買い物まで禁じるのは、少し息苦しい気もした。
「なら、馬車を使うといい」
「ええ、そうするわ」
エミリーはそう答えて、やわらかく笑った。
「あなたのお用事、早く終わるといいわね」
その言い方は、いかにも相手を気遣う人のものだった。
リチャードも、その時はそれ以上引っかからなかった。
◇
用事は、思っていたよりずっと早く終わった。
行く前は気が重かったのに、話してみれば必要な確認はすぐ済んだ。父があれこれ言うほど大ごとではなく、相手も家の事情を察して、余計なことを聞いてこなかったのが大きい。
帰り道、リチャードはふと、少し足を速めた。
思ったより早く終わったのだから、屋敷へ戻ればエミリーも喜ぶだろう。近くを見て回るだけと言っていたし、帰るころには少し疲れているかもしれない。そうしたら、今夜はあまり長く話させずに休ませたほうがいい。
そういうことを考えていた。
……だからこそ彼は、自分が見たものをすぐにはうまく理解できなかった。
街角をひとつ曲がった先に、小さなティールームがあった。
大通りに面した賑やかな店ではなく、婦人客や親しい知り合い同士が使うような、少し奥まった店だ。通りへ張り出した硝子窓の向こうに、丸い卓がいくつか見える。
その窓際の席に、見覚えのある後ろ姿があった。
淡い色の帽子。すっと伸びた首筋。肩にかかる薄い布地の線。
――エミリーだった。
リチャードは思わず足を止めた。
ひとりではない。向かいに、若い男が座っている。
顔に見覚えがある気がして、すぐには名前が出てこなかった。
少し考えて、先月の小さな晩餐会で一度だけ紹介された青年だと思い当たる。
家格は悪くないが、まだ立場の定まらない次男坊で、口数は多くないが人当たりはよかった。
――なぜ、エミリーがその男と向かい合ってお茶をしているのか?
その問いが頭に浮かぶより先に、別のことが目へ飛び込んできた。
エミリーは元気だった。
元気、というのは乱暴な言い方かもしれない。
大きな声で笑っているわけではない。卓を叩いて話しているわけでもない。
けれど少なくとも、少し前まで家の中で見せていた、頼りなさげな翳りはどこにもなかった。
顎を少し上げて、相手の顔をまっすぐ見ている。
話す時の口元もはっきりしていて、頬の色まで、いつもよりいくらかあるように見える。
何かを言われて笑う時も、肩が沈まない。弱っている人の笑い方ではなく、会話を楽しんでいる人の笑い方だった。
リチャードは、動けなかった。
窓越しだから、声は聞こえない。
ただ、エミリーが先に何か言い、向かいの男が少し困ったように笑い、それでも席を立たずにいることだけは分かった。
その時、店の者が何かを運んできた。
皿だった。小ぶりのケーキがのっている。エミリーはそれを見て、はっきり嬉しそうな顔をした。
いかにも自然な反応で、病み上がりだから甘いものを少し、という程度にも見える。
だが、その顔に“無理をしている”感じは少しもない。
リチャードの中で、何かが小さく引っかかった。
たぶん、それはほんの些細なことだった。
人は、家の中で弱って見えたからといって、外で少し元気になることもある。気分転換もあるだろうし、今日はたまたま調子がいいのかもしれない。
頭の中では、そういう理屈がいくつも浮かぶ。
けれどその一方で、あの日の言葉も戻ってきた。
――具合の悪い人のほうが大事でしょう?
――元気な方は、少し待てるもの。
あれを口にした時のエミリーの顔。
そして今、窓の向こうで、相手の袖口へ軽く手を伸ばしかけて、何か言っている顔。
ふいに、向かいの男が席を立とうとした。
帳面か何かでも思い出したように、上着の内側へ手を入れ、少しだけ体を引く。もう行かなければ、というような動きだった。
その瞬間だった。エミリーの表情が変わった。
ほんのわずかに、ほんとうにわずかに、目元がゆるみ、肩が落ちる。
何か引き止めることを言ったのだろう。向かいの男は、その動きを見てまた腰を戻しかける。迷うような顔になる。
リチャードは、その一連の流れを見て、胸の奥がざわりと騒ぐのを感じた。
――さっきまで、あんなに普通に話していたのに。
――あんなに元気そうに笑っていたのに。
その時、エミリーがふと窓の外を見た。リチャードと目が合った。
ほんの一拍。驚いた顔。
すると、すぐに別のものがその表情に被さった。少し困ったような、でも嬉しいような、見つけてもらって安心した人の顔。
あまりにも早くて、リチャードは逆に息が詰まった。
エミリーは立ち上がらなかった。ただ、向かいの男へ何か短く言い、それから窓越しにこちらへ、ほんの少しだけ手を動かした。
いま来てくれる? そういう合図にも見えた。
リチャードは、その場ですぐには動けなかった。
窓の向こうには、確かにエミリーがいる。そして、それを見る自分もいる。
家では少し疲れたように見えた。
そして、ひとりで外へ出ると言った。気が滅入るから少し見てくるだけだと。
なのに、いま目の前にいるエミリーは、誰かとお茶を飲み、屈託なく笑い――
相手が席を立とうとすると、その表情も仕草も、弱るほうへと滑っていった。
その全部を、どう理解すればいいのか分からない。
エミリーは、まだこちらを見ている。向こうの席の若い男は、窓の外のリチャードと、目の前のエミリーとのあいだで、居心地悪そうに視線をさまよわせていた。
最初に動いたのは、その男のほうだった。帽子を取り上げ、会釈めいたものを窓へ向ける。
それからエミリーへ短く何か言い、今度こそ席を立った。
エミリーの顔が、また変わる。引き止めたいけれど、これ以上はできない人の顔。ほんの少し口元を下げ、でも聞き分けよく笑ってみせる。
その変化が、リチャードにはひどくはっきり見えた。
男は店を出て、リチャードのそばを通る時、軽く会釈した。
リチャードも反射的に返したが、何も言えなかった。相手の顔にも、少しばかり気まずそうなものが残っている。
扉が閉まり、店の中にはエミリーだけが残った。
彼女はそこでようやく立ち上がり、店の者へ何か言ってから外へ出てくる。
数歩だけ歩き、まるで今はじめて疲れが出てきたみたいに、少し肩を落とした。
「リチャード」
声はやわらかかった。
「もうお帰りだったのね」
リチャードは、その顔を見た。いつもの、見慣れたエミリーだった。
少し白くて、少し頼りなくて、でもこちらの顔を見るとほっとしたように笑う人。
けれど今、ほんの数分前まで店の中にいた別の顔を、彼はもう見てしまっている。
「……何をしていたんだ」
気づけば、そう聞いていた。
それを聞いたエミリーは少し目を瞬く。
「何を、って……少しお茶を」
「誰と」
そこまで言った時、自分の声が思っていたより低いことに、リチャード自身が驚いた。
エミリーはその驚きに反応したのか、ほんのわずかに首をすくめた。
「この前ご紹介いただいた方に、お声をかけられたの。少しだけ、ご一緒していただいただけよ」
それは、たぶん事実だった。だが事実なのに、少しも胸へ落ちない。
「君は、元気そうだった」
言ってから、リチャードはそれが責めるような響きになったことに気づいた。
エミリーの顔が、そこで止まる。
「……え?」
「いや」
リチャードはそこで言葉を切った。
何と言いたいのか、自分でも分からなかった。
元気そうだった。笑っていた。ケーキを見て嬉しそうにしていた。相手が立とうとすると、急に違う顔になった。そう言って、何になるのだろう。
エミリーは少しの間、彼を見つめ――それから、ひどく静かに言った。
「わたくしが、元気そうだったら、いけないの?」
その問いに、リチャードは答えられなかった。
いけなくはない。そんなはずはない。
外へ出て、少し気が晴れて、元気に見えることもあるだろう。
なのに、なぜこんなに引っかかるのか。
エミリーはその沈黙の意味を測るように、少しだけ目を伏せた。
「ごめんなさい」
そして、小さく言う。
「せっかく早く帰ってきてくださったのに、変なところを見せてしまったわね」
変なところ。
その言い方に、リチャードの胸の奥がまた小さくざらついた。
――変だと、やはり思うべきなのだろうか。
――でも、何が? どこが?
言葉がうまく掴めないまま、彼はただ立ち尽くしていた。
さっきまでなら、きっとこういう時、エミリーを気づかって何か言ったはずだ。
疲れたなら帰ろう、とか。無理をするな、とか。
でも今は、そのどれもが喉の手前で止まる。
窓の向こうで見た、元気な顔。若い男が席を立とうとした時にだけ、少しだけ落ちた肩。
そしていま、目の前で弱々しく見える立ち方。
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