「冷酷で理屈っぽい」と捨てられましたが、この国を影から支えていたの、実は私なんです

水上

文字の大きさ
1 / 7

第1話:そのドレスの破れ目は、物理的に必然です

しおりを挟む
 パーティー会場は、まるで加熱によって分子運動が激化した気体のようだった。

 この世のあらゆる現象は、流動と変形、すなわちレオロジーで説明がつく。
 人の感情という不安定な流体を除けば、世界は完璧な物理法則によって支配されているのだ。

「ヴィオラ・マクスウェル! 貴様との婚約を、今ここで破棄する!」

 その法則を乱すヒステリックな衝撃波が、会場の空気を震わせた。

 音楽が止まる。
 視線という名の圧力ベクトルが、一点に集中する。

 声の主は、壇上に立つ金髪の青年――私の婚約者であり、この国の王太子であるフレデリック殿下だった。

 その隣には、ブロンドの巻き髪をした小柄な令嬢、アリス・メルヴィル男爵令嬢が涙ながらに寄り添っている。

 私はため息を一つ、層流のように静かに吐き出した。
 中指で眼鏡のブリッジを押し上げる。

 予測されていた事態だ。
 最近の殿下の行動パターン、アリス嬢への接触頻度、そして私への冷淡な態度。

「……理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」

 私は冷静に、壇上の前へと進み出た。

「理由だと? よくもぬけぬけと! アリスのこの姿を見ても、しらばっくれるつもりか!」

 殿下がアリス嬢の肩を抱き寄せる。

 彼女が着ているのは、流行のパステルブルーのドレスだ。
 しかし、その背中の部分が大きく裂け、無残に肌が露出していた。

「ひどいです、ヴィオラ様……。私が殿下と親しくしているのが気に入らないからって、すれ違いざまにドレスを引っ張って引き裂くなんて……」

 会場から非難のざわめきが起こる。

「嫉妬に狂ったのか」

「やはりマクスウェル家の氷の令嬢は恐ろしい」
 
 といった声が、ノイズのように耳障りに響く。

「アリスは心優しい女性だ。それを貴様は……、公衆の面前でこのような恥をかかせるとは!」

 殿下の演説は熱を帯びていく。

 私は静かに移動して、アリス嬢の背中――その裂けたドレスの断面へと視線を固定した。

「失礼ですが、訂正させていただいてもよろしいでしょうか」

「なんだ? 見苦しい言い訳など聞きたくもないが」

「言い訳ではありません。事実の確認、すなわち物理現象の検証です」

 私はアリス嬢に一歩近づいた。

「アリス様。貴女は、私が『すれ違いざまに引っ張った』と仰いましたね?」

「そ、そうよ! いきなり強い力でグイッて……!」

「なるほど。瞬間的な外力による脆性破壊と主張されるわけですね」

 私は眼鏡の位置を直し、淡々と告げた。

「ですが、その裂け目の断面を見る限り、それは物理的に不可能です」

 会場が静まり返る。

「もし私が手で引き裂いたのなら、繊維の断面は不揃いに毛羽立ち、瞬間的な力による変形の痕跡が残るはずです。しかし、貴女のドレスの裂け目はどうでしょう? 繊維の一本一本が引き伸ばされ、細くなってから切れています」

 私は周囲の貴族たちにも聞こえるよう、少しだけ声を張った。

「これはクリープ現象による破断です」

 アリス嬢がポカンと口を開ける。

「一定の温度と荷重のもとで、物体が時間の経過とともに変形していく現象のことです。つまり、そのドレスは一瞬の力で破れたのではありません。長時間、許容限界を超える張力がかかり続けた結果、繊維が徐々に伸びて、ついには耐えきれずに弾けたのです」

 私はアリス嬢の、少しふっくらとした腹部と二の腕に視線を滑らせた。

「結論を申し上げますと、そのドレスは貴女の体型に対してサイズが小さすぎました。無理やり体を押し込んで長時間着用していたために、内側からの圧力に生地が負けた。……端的に言えば、お太りになられたのでは?」

「ぶっ……!」

 会場のどこかから、吹き出すような音が聞こえた。
 アリス嬢の顔が、真っ赤に染まっていく。

「ち、違っ……、私は、そんな……!」

「嘘だと思うなら、その生地を顕微鏡で解析しましょうか? 応力緩和のデータと照らし合わせれば、私の無実は証明できますが」

 そこまで言うと、アリス嬢は「ひどいっ!」と叫んで泣き崩れた。

「き、貴様ッ……!」

 フレデリック殿下が顔を歪め、私を睨みつけた。

「アリスを侮辱するのか! 理屈を並べ立てて、女性を泣かせて楽しいか! なんて可愛げがないんだ!」

 殿下はさらに続ける。

「君のような冷酷で理屈っぽい女は、王太子の妻にはふさわしくない! 婚約は破棄だ! そして、追放処分とする!」

 殿下の宣言が響き渡る。
 それは本来、絶望的な宣告のはずだった。

 しかし不思議なことに、私の心に広がったのは、粘度の低い水がさらさらと流れるような、清々しい解放感だった。

 これまで、王太子の婚約者としてどれだけの時間を浪費してきただろう。
 それら全てから、解放される?

「……承知いたしました」

 私は深々とカーテシーをした。

「謹んで、その処分をお受けいたします」

 私は踵を返した。
 会場を後にする私の足取りは軽かった。

 これからは、自由なのだから。

     *

 騒動から数時間後、フレデリック殿下は、苛立ちを隠せずにいた。

「あの女……、最後まで偉そうに!」

 怒りに任せて、近くにあった執務用の予備デスクから羽ペンを乱暴に掴み取る。
 事務仕事を片付けようとした、その時だった。

 ペン先から、黒いインクが大きな雫となって垂れた。
 それは彼の真っ白な手袋に染み込み、さらに書きかけの書類を汚く塗りつぶした。

「なっ……、なんだこれは!?」

 インク壺を確認すると、中のインクは普段よりも粘度が低く、シャバシャバになっていた。

「おい、誰だ! インクの管理はどうなっている! こんな不良品をよこして!」

 彼は知らなかった。

 この国の気候は湿度の変動が激しく、季節や天候に合わせてインクの増粘剤を微調整しなければ、すぐに使い物にならなくなることを。

 そしてそれを、毎朝の公務が始まる前に、ヴィオラが人知れず調整していたことを。

 インクは不快な染みとなって殿下の手を汚していた。
 それはまるで、これから彼に降りかかる、ドロドロとした崩壊の序章のようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢ですが、断罪した側が先に壊れました

あめとおと
恋愛
三日後、私は断罪される。 そう理解したうえで、悪役令嬢アリアンナは今日も王国のために働いていた。 平民出身のヒロインの「善意」、 王太子の「優しさ」、 そしてそれらが生み出す無数の歪み。 感情論で壊されていく現実を、誰にも知られず修正してきたのは――“悪役”と呼ばれる彼女だった。 やがて訪れる断罪。婚約破棄。国外追放。 それでも彼女は泣かず、縋らず、弁明もしない。 なぜなら、間違っていたつもりは一度もないから。 これは、 「断罪される側」が最後まで正しかった物語。 そして、悪役令嬢が舞台を降りた“その後”に始まる、静かで確かな人生の物語。

裁判を無効にせよ! 被告は平民ではなく公爵令嬢である!

サイコちゃん
恋愛
十二歳の少女が男を殴って犯した……その裁判が、平民用の裁判所で始まった。被告はハリオット伯爵家の女中クララ。幼い彼女は、自分がハリオット伯爵に陥れられたことを知らない。裁判は被告に証言が許されないまま進み、クララは絞首刑を言い渡される。彼女が恐怖のあまり泣き出したその時、裁判所に美しき紳士と美少年が飛び込んできた。 「裁判を無効にせよ! 被告クララは八年前に失踪した私の娘だ! 真の名前はクラリッサ・エーメナー・ユクル! クラリッサは紛れもないユクル公爵家の嫡女であり、王家の血を引く者である! 被告は平民ではなく公爵令嬢である!」 飛び込んできたのは、クラリッサの父であるユクル公爵と婚約者である第二王子サイラスであった。王家と公爵家を敵に回したハリオット伯爵家は、やがて破滅へ向かう―― ※作中の裁判・法律・刑罰などは、歴史を参考にした架空のもの及び完全に架空のものです。

(完結)モブ令嬢の婚約破棄

あかる
恋愛
ヒロイン様によると、私はモブらしいです。…モブって何でしょう? 攻略対象は全てヒロイン様のものらしいです?そんな酷い設定、どんなロマンス小説にもありませんわ。 お兄様のように思っていた婚約者様はもう要りません。私は別の方と幸せを掴みます! 緩い設定なので、貴族の常識とか拘らず、さらっと読んで頂きたいです。 完結してます。適当に投稿していきます。

幼い頃、義母に酸で顔を焼かれた公爵令嬢は、それでも愛してくれた王太子が冤罪で追放されたので、ついていくことにしました。

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 設定はゆるくなっています、気になる方は最初から読まないでください。 ウィンターレン公爵家令嬢ジェミーは、幼い頃に義母のアイラに酸で顔を焼かれてしまった。何とか命は助かったものの、とても社交界にデビューできるような顔ではなかった。だが不屈の精神力と仮面をつける事で、社交界にデビューを果たした。そんなジェミーを、心優しく人の本質を見抜ける王太子レオナルドが見初めた。王太子はジェミーを婚約者に選び、幸せな家庭を築くかに思われたが、王位を狙う邪悪な弟に冤罪を着せられ追放刑にされてしまった。

学園首席の私は魔力を奪われて婚約破棄されたけど、借り物の魔力でいつまで調子に乗っているつもり?

今川幸乃
ファンタジー
下級貴族の生まれながら魔法の練習に励み、貴族の子女が集まるデルフィーラ学園に首席入学を果たしたレミリア。 しかし進級試験の際に彼女の実力を嫉妬したシルヴィアの呪いで魔力を奪われ、婚約者であったオルクには婚約破棄されてしまう。 が、そんな彼女を助けてくれたのはアルフというミステリアスなクラスメイトであった。 レミリアはアルフとともに呪いを解き、シルヴィアへの復讐を行うことを決意する。 レミリアの魔力を奪ったシルヴィアは調子に乗っていたが、全校生徒の前で魔法を披露する際に魔力を奪い返され、醜態を晒すことになってしまう。 ※3/6~ プチ改稿中

婚約破棄された私は、号泣しながらケーキを食べた~限界に達したので、これからは自分の幸せのために生きることにしました~

キョウキョウ
恋愛
 幼い頃から辛くて苦しい妃教育に耐えてきたオリヴィア。厳しい授業と課題に、何度も心が折れそうになった。特に辛かったのは、王妃にふさわしい体型維持のために食事制限を命じられたこと。  とても頑張った。お腹いっぱいに食べたいのを我慢して、必死で痩せて、体型を整えて。でも、その努力は無駄になった。  婚約相手のマルク王子から、無慈悲に告げられた別れの言葉。唐突に、婚約を破棄すると言われたオリヴィア。  アイリーンという令嬢をイジメたという、いわれのない罪で責められて限界に達した。もう無理。これ以上は耐えられない。  そしてオリヴィアは、会場のテーブルに置いてあったデザートのケーキを手づかみで食べた。食べながら泣いた。空腹の辛さから解放された気持ちよさと、ケーキの美味しさに涙が出たのだった。 ※本作品は、少し前に連載していた試作の完成版です。大まかな展開や設定は、ほぼ変わりません。加筆修正して、完成版として連載します。 ※カクヨムにも掲載中の作品です。

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました

悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。 クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。 婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。 そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。 そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯ 王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。 シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯

処理中です...