婚約破棄ですか? 損切りの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます

水上

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第1話:損益分岐点の婚約破棄

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 王宮の大広間を埋め尽くすシャンデリアの輝きが、私の網膜を無駄に刺激していました。

 計算するまでもなく、この広間の照度は過剰です。
 蝋燭の消費量は一晩で平民の年収三軒分に相当するでしょう。

 加えて、楽団が奏でるワルツのテンポは規定より〇・二秒ほど遅く、給仕たちのワインを注ぐ手際は乱雑極まりない。

 まさに、非効率の博覧会。
 この国の財政縮図を見るようで、私は小さく溜息をつきました。

「エリーゼ・フォン・ノイマン! 貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」

 その声が響いたのは、ちょうど私が手元の懐中時計を確認した直後でした。
 音楽が止まり、ざわめきが波紋のように広がります。
 私は銀縁の眼鏡の位置を人差し指で直し、心の中で冷静にログを記録しました。

 予測時刻より三分早い。
 彼にしては珍しく、迅速な意思決定ですね。

 声の主は、このグランデ王国の第一王位継承者、ヘリオス・ド・ソル・グランデ王太子殿下。
 金髪碧眼。
 見目麗しい容姿は、まるで絵画から抜け出してきたようですが、残念ながらその頭脳はお飾りの額縁と大差ありません。

 彼の腕には、小動物のように震える一人の少女がしがみついていました。
 男爵令嬢、リリィ・フルール様。
 ピンクブロンドのふわふわとした髪に、上目遣いが得意な愛らしい女性です。

 彼女の着ているドレスは、今期流行の最高級シルク。
 確か、王太子殿下の私費(という名の公費)で購入されたものでしたわね。

「聞こえないのか、エリーゼ! 僕は真実の愛を見つけたんだ。リリィこそが、僕の魂の伴侶だ!」

 ヘリオス殿下は、自身が劇場の主役であるかのように両手を広げました。
 周囲の貴族たちは、扇で口元を隠しながら、好奇と嘲笑の視線を私に向けています。
 冷徹で可愛げのない侯爵令嬢が、ついに捨てられる瞬間を見物するために。

「……殿下」

 私は静かに口を開きました。

 感情的になる必要はありません。
 これは単なる契約解除の通達です。

「確認させていただきますが、その真実の愛とやらは、我が国とノイマン家との間で締結された政略的・経済的包括協定――いわゆる婚約契約書よりも優先される事象であると、そのようにご判断されたのですか?」

「ああ、そうだ! 愛は何物にも勝る! 貴様のように、金や効率ばかりを語る冷血な女にはわかるまい!」

 殿下は勝ち誇ったように叫びました。
 リリィ様も、彼の胸板に顔を埋めながら、涙声で訴えます。

「ごめんなさい、エリーゼ様……。でも、私たち、もう止められないんです。運命の引力には逆らえなくて……」

 運命の引力。
 引力を発見した人が聞いたら、墓の下で激怒しそうな物理法則の誤用です。
 しかし、私は怒るどころか、胸の奥で計算式が成立するのを感じていました。

 ――損益分岐点の到達、確認。

 私は幼い頃から、次期王妃として彼を支えるべく教育を受けてきました。
 莫大な教育費、彼のために調整した社交スケジュール、裏で揉み消した彼の失態の数々。
 それらは全て投資でした。
 将来、王妃として国政を動かすための。
 
 しかし、ここ数年の彼の行動――特にリリィ様と出会ってからの浪費と公務放棄は、もはや私の許容コストを大幅に超過しています。

 これ以上、彼という不良債権に時間を投資しても、回収の見込みはない。
 経済学にはサンクコスト(埋没費用)という言葉があります。
 すでに取り戻すことのできない費用のこと。
 これに執着して撤退を遅らせれば、傷口は広がるばかり。

 今ここで損切りするのが、最も合理的かつ利益の最大化に繋がる選択です。

「……ふっ」

 思わず、口元が緩んでしまいました。
 それをどう勘違いしたのか、ヘリオス殿下はさらに声を張り上げます。

「なんだその不敵な笑みは! 負け惜しみか! それとも、ショックで頭がおかしくなったか!」

「いいえ、殿下。感心していたのです」

「なに?」

「ご自身の価値を正しく市場評価できない愚かさが、極まるところまで極まると、ある種の芸術性を帯びるのだなと」

「き、貴様!」

 顔を真っ赤にする殿下を無視し、私は革張りの手帳を取り出しました。
 さらさらと万年筆を走らせ、日付と時間を記録します。

「承知いたしました。ヘリオス・ド・ソル・グランデ王太子殿下よりの、一方的な婚約破棄の申し出。エリーゼ・フォン・ノイマンは、これを謹んで受諾いたします」

 会場がざわめきました。
 泣いて縋るでもなく、激昂するでもなく。
 あまりにあっさりとした私の態度に、拍子抜けしたのでしょう。
 一番戸惑っているのは、他ならぬヘリオス殿下でした。

「お、おい……、待て。もっとこう、あるだろう? 『どうして』とか、『私を捨てないで』とか……」

「なぜそのような非生産的な問答が必要なのです? 契約は双方の合意、あるいは重大な過失によって解除される。今回は殿下のご希望に対し、私が承諾した。商談成立です」

 私は手帳を閉じ、パチンと小気味よい音を立てました。

「それに、殿下。リリィ様とおっしゃいましたか? 彼女の維持費は、年間予算で換算すると中規模騎士団一つ分に相当します。殿下の現在の王室費では、三ヶ月とかからず破綻する計算ですが、そのあたりの資金繰り計画は万全なのでしょうね?」

「なっ……。リリィはお金なんかじゃない! 彼女の笑顔はプライスレスだ!」

「ええ、市場価値がつかないという意味ではプライスレス(無価値)でしょうね」

「貴様ァ!!」

 激昂して踏み出そうとする殿下を、近衛兵たちが慌てて宥めます。
 私は優雅にカーテシーを披露しました。 

 背筋は定規のように真っ直ぐに。
 角度は完璧な四十五度。
 王妃教育の賜物です。
 これを使うのも、今日が最後かと思うと少しだけ――そう、ほんの少しだけ減価償却の寂しさはありますね。

「では、私はこれにて失礼いたします。荷造りや引継ぎの準備がございますので」

 踵を返し、出口へと歩き出す私。
 その背中に、殿下の捨て台詞が投げつけられました。

「後悔するぞ、エリーゼ! 僕の愛を失ったことを、冷たいベッドの中で泣いて悔やむがいい!」

 私は一度だけ振り返り、眼鏡のブリッジを中指で押し上げました。

「ご心配には及びません、殿下。私は寒さには強いのです。それに――」

 にっこりと、営業用の完璧な笑みを浮かべます。

「愛で暖炉は燃やせませんが、慰謝料があれば最高級の薪が買えますから」

 呆気にとられる元婚約者と、静まり返る大広間を後に、私は颯爽と歩き出しました。
 足取りは羽のように軽い。
 久しぶりに、美味しい空気を吸った気がします。

 さて、まずは実家の父――ノイマン侯爵との交渉ですね。 

 これまでの投資が無駄になったと渋い顔をするでしょうが、そこは私の腕の見せ所。
 王都という泥舟から脱出し、新しい市場を開拓するための元手を取らなくてはなりません。

 私の頭の中では、すでに新しい事業計画書の第一章が書き始められていました。
 それは、愚かな王子に復讐するためだけの計画ではありません。

 私が私らしく、論理と計算で幸福を勝ち取るための、輝かしい建国プロジェクトなのです。
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