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第3話:サンクコストと初期ポートフォリオ
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5億枚の金貨(の手形)と、辺境領の権利書。
これらが私の再出発における初期資本ですが、事業を回すには資本だけでなく労働力が不可欠です。
翌朝、自室で荷造りを始めた私は、部屋に入ってきた専属侍女のマリーに声をかけました。
「マリー。そのドレスは置いていきます。かさばる上に、辺境の寒冷地では機能性が低く、流行が変われば資産価値も暴落します。典型的な不良資産です」
「……かしこまりました、お嬢様。では、こちらの魔導書と実験器具は?」
「それは全て馬車へ。知識と技術は減価償却しない恒久資産ですから」
マリーは淡々と指示に従い、テキパキと荷物を分類していきます。
彼女は私が十歳の頃から仕えている侍女で、口数は少ないですが、私の難解な指示を一度で理解する高い事務処理能力を持っています。
紅茶の温度管理も、誤差〇・五度以内という精密機械のような仕事ぶり。
彼女をこの屋敷に置いていくのは、人的資本の損失です。
「マリー、手を止めて。貴女に商談があります」
私が眼鏡を直しながら振り返ると、マリーは荷造りの手を止め、静かにこちらを見つめ返しました。
「商談、でございますか?」
「ええ。私はこれからノルト領へ向かいます。あそこは現在、インフラも未整備な開発途上地域。生活水準は王都より著しく低下するでしょう」
私は手元の契約書を彼女に提示しました。
「ですが、私は貴女という優秀な人材を高く評価しています。ノイマン侯爵家に残れば、貴女の給与は据え置きで、いずれ適当な使用人と結婚させられ、キャリアは終了するでしょう」
貴族社会の侍女にとって、それはありふれた、しかし逃れられない幸福のモデルケースです。
ですが、彼女の瞳の奥にある知性の光は、もっと別の何かを求めているように見えました。
「私についてくるなら、現在の給与の二倍を保証します。さらに、ボーナスとしてノルト領開発による利益の〇・〇一%をストックオプションとして付与しましょう。福利厚生も完備。ただし、激務ですよ。王都の優雅な生活は全て過去として切り捨てていただきます」
マリーは契約書を手に取り、しばらく無言で眺めていました。
そして、小さくため息をつき――いつもの無表情のまま、懐から自分のペンを取り出してサインしました。
「お嬢様、計算が甘いです」
「あら?」
「辺境での激務と、お嬢様の無茶振りに耐える精神的負担を考慮すれば、基本給は二・五倍が妥当かと」
「……ふふ、強気ですね。いいでしょう、交渉成立です」
私は彼女と握手を交わしました。
主従関係ではなく、ビジネスパートナーとしての握手を。
これで、私の初期ポートフォリオに最高の秘書が組み込まれました。
一時間後。
ノイマン侯爵家の裏門には、質素な馬車が一台停まっていました。
見送りは誰もいません。
父は激怒して執務室に籠もっていますし、義理の母や妹たちは私が、王太子の婚約者という肩書きを失った瞬間に興味を失ったようです。
馬車に乗り込み、窓から屋敷を見上げます。
ここで過ごした二十年。
厳しい教育、父の叱責、王家への気遣い。
それら全ての苦労が、今日で終わりを告げます。
胸に去来するのは、寂しさでしょうか?
いいえ。
「……これまでの時間と労力は、回収不能なサンクコスト。未練を持って振り返っても、一文の得にもなりませんね」
私は自分に言い聞かせるように呟き、窓のカーテンをぴしゃりと閉めました。
過去を振り返る暇があるなら、未来の収益予測を立てるべきです。
「御者さん、出してください。目的地は北、ノルト領です」
馬車がガタゴトと動き出します。
石畳の振動が、新しい人生の鼓動のように響きました。
王都の城門を抜ける際、遠くに王城の尖塔が見えました。
あそこでは今頃、ヘリオス殿下とリリィ様が、私がいなくなったことを祝って宴を開いていることでしょう。
どうぞ、存分に楽しんでください。
貴方たちが消費しているその時間は、借金という名の砂時計で計られていることに気づかぬまま。
「マリー、お茶を淹れてくれる?」
「はい、お嬢様。揺れますので、少し濃いめに抽出いたします」
揺れる車内で差し出された紅茶は、完璧な香りと温度でした。
私はそれを一口啜り、膝の上に広げた地図に赤いペンで印をつけました。
さあ、まずは旅の道連れ――いえ、もっと大きな出資者を見つけなくてはなりません。
私の計算によれば、この先の街道で、王国の運命を左右する人物と遭遇する確率が高いのです。
確率は八〇%。
賭けるには十分な数字ですわ。
これらが私の再出発における初期資本ですが、事業を回すには資本だけでなく労働力が不可欠です。
翌朝、自室で荷造りを始めた私は、部屋に入ってきた専属侍女のマリーに声をかけました。
「マリー。そのドレスは置いていきます。かさばる上に、辺境の寒冷地では機能性が低く、流行が変われば資産価値も暴落します。典型的な不良資産です」
「……かしこまりました、お嬢様。では、こちらの魔導書と実験器具は?」
「それは全て馬車へ。知識と技術は減価償却しない恒久資産ですから」
マリーは淡々と指示に従い、テキパキと荷物を分類していきます。
彼女は私が十歳の頃から仕えている侍女で、口数は少ないですが、私の難解な指示を一度で理解する高い事務処理能力を持っています。
紅茶の温度管理も、誤差〇・五度以内という精密機械のような仕事ぶり。
彼女をこの屋敷に置いていくのは、人的資本の損失です。
「マリー、手を止めて。貴女に商談があります」
私が眼鏡を直しながら振り返ると、マリーは荷造りの手を止め、静かにこちらを見つめ返しました。
「商談、でございますか?」
「ええ。私はこれからノルト領へ向かいます。あそこは現在、インフラも未整備な開発途上地域。生活水準は王都より著しく低下するでしょう」
私は手元の契約書を彼女に提示しました。
「ですが、私は貴女という優秀な人材を高く評価しています。ノイマン侯爵家に残れば、貴女の給与は据え置きで、いずれ適当な使用人と結婚させられ、キャリアは終了するでしょう」
貴族社会の侍女にとって、それはありふれた、しかし逃れられない幸福のモデルケースです。
ですが、彼女の瞳の奥にある知性の光は、もっと別の何かを求めているように見えました。
「私についてくるなら、現在の給与の二倍を保証します。さらに、ボーナスとしてノルト領開発による利益の〇・〇一%をストックオプションとして付与しましょう。福利厚生も完備。ただし、激務ですよ。王都の優雅な生活は全て過去として切り捨てていただきます」
マリーは契約書を手に取り、しばらく無言で眺めていました。
そして、小さくため息をつき――いつもの無表情のまま、懐から自分のペンを取り出してサインしました。
「お嬢様、計算が甘いです」
「あら?」
「辺境での激務と、お嬢様の無茶振りに耐える精神的負担を考慮すれば、基本給は二・五倍が妥当かと」
「……ふふ、強気ですね。いいでしょう、交渉成立です」
私は彼女と握手を交わしました。
主従関係ではなく、ビジネスパートナーとしての握手を。
これで、私の初期ポートフォリオに最高の秘書が組み込まれました。
一時間後。
ノイマン侯爵家の裏門には、質素な馬車が一台停まっていました。
見送りは誰もいません。
父は激怒して執務室に籠もっていますし、義理の母や妹たちは私が、王太子の婚約者という肩書きを失った瞬間に興味を失ったようです。
馬車に乗り込み、窓から屋敷を見上げます。
ここで過ごした二十年。
厳しい教育、父の叱責、王家への気遣い。
それら全ての苦労が、今日で終わりを告げます。
胸に去来するのは、寂しさでしょうか?
いいえ。
「……これまでの時間と労力は、回収不能なサンクコスト。未練を持って振り返っても、一文の得にもなりませんね」
私は自分に言い聞かせるように呟き、窓のカーテンをぴしゃりと閉めました。
過去を振り返る暇があるなら、未来の収益予測を立てるべきです。
「御者さん、出してください。目的地は北、ノルト領です」
馬車がガタゴトと動き出します。
石畳の振動が、新しい人生の鼓動のように響きました。
王都の城門を抜ける際、遠くに王城の尖塔が見えました。
あそこでは今頃、ヘリオス殿下とリリィ様が、私がいなくなったことを祝って宴を開いていることでしょう。
どうぞ、存分に楽しんでください。
貴方たちが消費しているその時間は、借金という名の砂時計で計られていることに気づかぬまま。
「マリー、お茶を淹れてくれる?」
「はい、お嬢様。揺れますので、少し濃いめに抽出いたします」
揺れる車内で差し出された紅茶は、完璧な香りと温度でした。
私はそれを一口啜り、膝の上に広げた地図に赤いペンで印をつけました。
さあ、まずは旅の道連れ――いえ、もっと大きな出資者を見つけなくてはなりません。
私の計算によれば、この先の街道で、王国の運命を左右する人物と遭遇する確率が高いのです。
確率は八〇%。
賭けるには十分な数字ですわ。
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